元和七年〜寛永五年(小姓組番頭〜伊豆守叙任〜大名に列す)

松平信綱 年譜・三
この期間は信綱はまだ歴史の表舞台にでていないので、以下の記事は養父・正綱の活動記録が中心。

元和7[1621]年 二十六歳

1月2日、星合具枚(ともかず)・具通(ともみち)、正綱の組に属して小十人組となる。(『寛永諸家系図伝』『実紀』)
9月18日、正綱、土井利勝などとともに、佐竹義宣の数寄(茶会)に招かれる。(『梅津政景日記』)
11月18日、正綱の次男(信綱の義弟)隆綱、誕生。母は寺西瑞泰女。(大河内家譜 支流譜巻第一)
11月19日、松平正綱のもとに諸老臣並びに金地院崇伝が集い、相国寺・豊光寺・大光明寺の訴訟の措置を議する。(『本光国師日記』…以降『国師日記』と略す)
12月5日(グレゴリオ暦1622.1.6)、イギリス人より松平正綱に織物・丁子・胡椒などの進物が贈られる。(『イギリス商館長日記』)

この年、信綱の甥・天野長重が誕生。
この年、大河内孫十郎(久綱)により、武蔵国入間郡葛貫(くずぬき)村の検地が行われる。(『新編武蔵風土記稿』)


元和8[1622]年 二十七歳

1月29日、正綱、佐竹家に招かれ、拝領物の鶴を振る舞われる。(『梅津政景日記』)
4月4日、正綱らの連名で、相模国高座郡萩曾根村の百性中に、定書を下す。(『大日本史料』所収「今村九郎兵へ知行所萬相定候覚」)
10月16日、大河内久綱から上野国下山之郷(群馬県万場町)の名主・百姓宛に年貢割付状が発給される。(『大日本史料』)
同日、大河内久綱から上野国譲原之郷(群馬県鬼石町)の名主・百姓宛に年貢割付状が発給される。(『大日本史料』)
11月3日、小姓組を六隊に編成。(『徳川実紀』)
一隊は井上正就、四隊は松平正綱、五隊は板倉重昌、六隊は秋元泰朝の管轄となる。寛永15年11月9日の記事も参照。
11月15日、松平正綱・太田資宗の連名で、小姓組番士に定を遵守すべき通達が出される。
12月18日、松平正綱より、三河額田郡横落村に年貢皆済状が発給される。(『大日本史料』)
12月27日、松平正綱・伊丹康勝らより嶋田清左衛門直時・久貝忠左衛門正俊宛に、河内での元和7年の年貢米の残りを銀で納めるよう指示する文書が発給される。(『大日本史料』)


元和9[1623]年 二十八歳

6月8日、将軍秀忠、京都に到着。
6月15日、信綱、三百石加増され都合八百石。小姓組番頭となる。(『大河内家譜』)
6月22日、梵舜、正綱に音信を持ってゆくが受け取らなかったため、そのまま帰る。(『梵舜日記』)
寛政譜には正綱が家光の供をしたように書いているが、この時点で京都にいることから、実際は秀忠の供だったのだろうか?
6月28日、家光、将軍宣下のため江戸を発す。信綱・正綱も家光に従って上洛。
7月27日、家光の将軍宣下が京都で行われる。
信綱、従五位下伊豆守に叙任される。
11月24日朝、正綱、上杉定勝に招かれ、鶴を振る舞われる。(『上杉家御年譜』)

この年、信綱の次男・吉綱、誕生。


元和10/寛永元[1624]年 二十九歳

2月4日、正綱、上杉定勝の婚礼祝いに招かれる。(『上杉家御年譜』)

元和10[1624]年2月30日、改元され"寛永"となる。

5月16日、信綱、千二百石加増され都合二千石となる。
7月24日、叔父・大河内長兵衛某、没(49歳)。
8月1日、大河内久綱の二男(信綱の実弟)内蔵助、没。
8月20日、正綱、徳川忠長に五十万石を与える書面に署名。(「東武実録」)
11月11日、大河内久綱より樋遣川村年貢割付状が発給される。(『加須市史』)
12月1日、久綱の女(信綱の実妹)没。次女または五女と思われるが詳細不明。

この年から翌寛永2年の夏まで病気。(『大河内家譜』)
「信綱公御一生之覚書」は"寅夏中御本復"、すなわち寛永3年に回復したとする。
この「病気」について、家譜等にははっきりと記されていないが、後年、オランダ商館長に随行した医師の診察を受けており、「30年前」に左腕をひどく痛めたと記録されているのがこの年に該当する。なお、承応3[1654]年正月の記事を参照のこと。

この頃、当時4歳の天野長重が松平正綱のもとで礼儀作法の手ほどきを受けた、という。正綱は天野長重の大叔父という関係にあたる。


寛永2[1625]年 三十歳

7月25日、"松平右衛門佐正綱に大和。三河。相模。武蔵の内にて。一万七千四百石餘加恩ありて二万二千百石になされ。相模の内甘縄をもて居所たらしめる。正綱日光驛路に今年杉を植えしとぞ" (『実紀』)
同日、井上正就が領地の朱印をたまわったという記事が『寛政重修諸家譜』にみえる。井上正就が五万二千五百石を領したのは元和8年であり、このことから推して、松平正綱が二万石余を領したのも寛永2年以前の可能性がある。元和3[1617]年12月29日の記事も参照。
『寛永諸家系図伝』には、松平正綱がこの日朱印を賜ったとあり、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』の記事もこれが元になっているが、『寛永諸家系図伝』の文面からは加増がこの日だったとは限らないようにもとれる。
8月29日朝、正綱、小堀遠州の茶会に出席。(『小堀遠州茶会記集成』)
元の記事は「松平(右)衛門殿」となっているが、一緒に招かれているのが土井利勝・伊丹康勝なので、正綱のことであると解される。
11月7日、正綱、上杉家の茶会に出席。(『上杉家御年譜』)


寛永3[1626]年 三十一歳

この年、大河内久綱の養子・又兵衛重綱が(将軍家光に)初見。(『寛永諸家系図伝』)
「酒井系譜」には2月6日と記す。

2月26日、あるいはこの日、輝綱が将軍家光に拝謁したともいう。(『寛政譜』)
4月28日、佐竹義隆が(正式に世子となった謝礼として)幕閣要人に進物を贈る。正綱へは御太刀馬代銀二十枚が贈られる。(『梅津政景日記』)
5月8日、正綱の邸を梅津政景が訪問。(『梅津政景日記』)
5月28日、正綱、大御所・秀忠の上洛に従う。(『実紀』)
6月16日、"松平右衛門太夫(ママ)殿同日返書来"(『国師日記』)
同日記で「右衛門大夫」の呼称が初出。元和8[1622]年2月時点では日記中の書状の控に「右衛門佐」とあり、元和9年から寛永3年の間の記事はもっぱら「右衛門殿」の呼称が使われている。上洛をきっかけに改名したのだろうか?『寛政重修諸家譜』正綱の項には右衛門佐を右衛門大夫と改めた旨は記されているが、具体的な年月は示されていない。
7月12日、信綱、将軍家光の上洛に従う。
8月16日(1626.10.6)、オランダ人の記録に松平正綱と井上正就が登場。クラーメルが二条城で大御所・秀忠と将軍・家光に謁見。松平正綱・井上正就・永井尚政がオランダ人の拝謁を妨害しようとした一件が記されている。(『平戸オランダ商館日記』永積洋子)
8月18日、家光、従一位左大臣に叙任。
9月5日、信綱の姉婿・天野長信、東福門院に附属させられる。
9月6日、信綱、参内の行列に加わる。(『実紀』「東武実録」)
10月9日、家光、江戸に到着。(『実紀』)

この年、信綱の次女・亀、誕生。
正綱の三男・正光、誕生。
天野長信の次男・信俊、誕生。母は大河内久綱女・長泉院。信俊は後に長坂一正の婿養子となる。


寛永4[1627]年 三十二歳

1月5日、信綱、相模国高座郡・愛甲郡にて八千石加増され一万石となる。(『寛政譜』)
この月、養父の正綱より信綱へ、松平八右衛門忠勝を家臣としてつける。(大河内家譜 別録一)
八右衛門忠勝は、長沢松平氏の出身で、正綱の義理の従兄弟にあたる。
1月、会津城主・蒲生忠郷に子がなく断絶となり、正綱が会津出張の命を受ける。(『実紀』)
3月7日、上杉定勝より会津に向かう上使衆に蝋燭を贈る。(『上杉家御年譜』)

夏頃?細川忠興が土井利勝を招いての茶会を企画する。相客に松平正綱を招くが、正綱は日光に出張のため出席できず。(月不詳13日付 細川忠興書状)

11月15日、信綱の四男・信定、誕生。母は正妻・井上氏。(大河内家譜 支流譜巻第三)

この年、一橋御門内屋敷を拝領。


寛永5[1628]年 三十三歳

1月13日、正綱、柳川調興(しげおき)の振舞に招かれる。(対馬宗家文書『江戸藩邸毎日記』)
不和だった対馬藩主・宗義成と家臣・柳川調興の仲が直り、柳川が宗義成を招いたところに、正綱も同席する。
2月28日、正綱、改易の城受け取りの命を受ける。(『実紀』)
美濃高洲城主・徳永左馬助昌重(53700石)、および丹波綾部領主・別所豊後守吉治(20000石)。
3月下旬、このころより信定、龍泉院(信綱の母)宅で養われる。(秀政由緒)
寛永6[1629]年の記事も参照。
4月、正綱、大御所・秀忠の供で日光へ。
6月18日、三河吉田城主・松平主殿頭忠利の日記に信綱の名が見える。(「忠利日記」)
"朝、酒井讃岐殿暇乞ニ参申候、ふる舞ニて罷帰申候、酒井雅楽殿・内藤伊州・稲葉丹州・松豆州へ暇乞ニ参申候、"
8月10日、井上正就(信綱の舅)、江戸城中で豊島明重に暗殺される。江戸城の三大刃傷として数えられる。
8月16日、金地院崇伝、正就の暗殺を伝え聞く。幕閣の面々に計21通の書状を出す。(『国師日記』)
8月20日、信綱を上使として、佐竹義宣が将軍家光より鮎の鮨を拝領。(『梅津政景日記』)
9月13日、崇伝のもとに8月16日の書状の返書が来る。"松平右衛門殿九月三日之返書来。(中略)松平伊豆殿九月七日之返書来。" (『国師日記』)

この年後半以降、大河内久綱の元で南條則門(のりかど)が忍・羽生の代官をつとめる。(『寛政譜』)


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