寛永六年〜寛永九年(実母死去〜秀忠大御所時代〜宿老並)

松平信綱 年譜・四

寛永6[1629]年 三十四歳

6月1日、松平正綱の四男・正朝、誕生。
9月19日、信綱の実母・深井氏が死去。
11月末、四男・信定、(信綱の母の元より)信綱の元に戻る。(秀政由緒)
12月14日、正綱、上杉定勝に招かれ、鶴を振る舞われる。(『上杉家御年譜』)


寛永7[1630]年 三十五歳

2月12日、天野長信から金地院崇伝への書状が、大河内久綱から転送されてくる。(『国師日記』)
2月25日、崇伝より信綱へ書状を送る。(『国師日記』)

3月4日、家光の姉・初姫、死去。(『実紀』)
3月14日、松平正綱、初姫の葬儀の奉行をつとめる。

5月2日、松平主殿頭忠利が松平正綱のもとへ能見物に訪れる。(「忠利日記」)
5月17日、信綱、上州白井(北群馬郡)および阿保で五千石加増され、都合一万五千石となる。(『寛政譜』)
のちに嫡男・輝綱を伴って、領地を巡検。伊香保温泉に浴す。余談だが、伊香保には孫の輝貞も後年訪れている。
寛永8、9年に上白井村で年貢割付状を発給しているが、寛永10年忍城主となったため一帯は天領となる。

7月3日、水戸頼房へ、雲雀をつかわす使者となる。(『実紀』)

8月11日、信綱の五男・采女(信興)誕生。母は正妻・井上氏。
8月12日、松平正綱から島田利正を通じて、寛永6年分の運上金銀がない、と梅津政景に問い合わせがあり、政景が納入済みの証拠の受取切手を提示する。"右衛門殿御失念ニ可有之候"。(『梅津政景日記』)

9月12日、明正女帝、即位。
9月21日、金地院崇伝、(正綱、信綱を含めて)幕閣の者達へ書状を遣わす。"伊豆殿へ之書中ニハ。安豊後殿。三志摩殿。池帯刀殿。朽民部殿へ之言傳申遣ス"(『国師日記』)

10月5日、藤堂高虎、卒。
藤堂高虎の家老・藤堂主膳吉親が殉死しようとして(次代の)藤堂高次に止められる。藤堂主膳は本姓を深井といい、松平信綱の母方の叔父にあたる人物である。


寛永8[1631]年 三十六歳

この年より幕府の日誌が残る。

1月24日、水戸頼房が眼病のため、信綱が見舞いの使者となる。(『実紀』)

3月12日、水戸頼房の眼病を見舞う使者となる。(『実紀』)

4月、駿河大納言忠長が蟄居を命ぜられる。

8月11日頃、大河内久綱の配下・柴山新次郎、(羽生の)検地に参加。(『羽生市史』)

9月20日、水戸頼房が風邪のため、見舞いの使者となる。(『実紀』)

10月7日、保科正光が病死し、養子である保科正之のもとへ、松平信綱が弔問に遣わされる。(『会津藩家世実紀』)
10月22日、水戸邸へ美濃柿一箱を届ける使者となる。(『実紀』)

11月19日、信綱、上白井村で花押を据えた年貢割付状を発給。(『子持村誌』に写真有り)
同日、細川忠利宛細川忠興書状に三河名物の海鼠腸を松平正綱より贈られ、美味であった、とある。(『大日本近世史料[10]細川家史料』…以下、細川忠興・忠利書状は特に断らない限り同書による)

12月28日、紀伊頼宣が頭痛のため、信綱をもっておたずねあり。(『実紀』)

寛永8[1631]年、三女・久満、誕生。母は正妻・井上氏。
この年、大河内金兵衛久綱、上野国甘楽(かんら)郡白井に関所を設ける。
(なお、当時松平信綱の領地だったのは、北群馬郡の白井)


寛永9[1632]年 三十七歳

1月12日、大河内久綱の弟・金七郎宲綱(さねつな)、没(54歳)。駿河大納言忠長に仕えていた。
※"さね"の文字コードは[unicode:5BB2]でよいのだろうか?
1月22日、秀忠の病気のため、日光よりお札や鏡が届く。鏡を永井尚政・松平正綱が受け取って"御上段ニ是ヲ置ク"(「東武実録」)
1月24日、大御所・秀忠が逝去(54歳)。
1月25日、正綱、秀忠の廟所を見分のため、家光の命で増上寺に赴く。(「東武実録」『実紀』)
1月27日、亥の刻、秀忠の柩を増上寺に移す。正綱、伊丹康勝とともに万事を奉行する。(『実紀』)

2月3日、嫡男・輝綱が袖を塞ぐ(あるいは寛永10年ともいう)。(『大河内家譜』)
2月26日、松平正綱・信綱が秀忠の御遺金として銀四百枚ずつを拝領。(『実紀』)
板倉重昌が同額の銀四百枚を賜っているところをみると、(5年後の島原の乱での派遣に関して)巷間言われている程の軽輩というのはあたらないのかもしれない。

3月2日、信綱、水戸邸へ、病気見舞いの使者をつとめる。(『実紀』)
3月3日、紀伊邸・水戸邸への病気見舞いの使者をつとめる。(『実紀』)
3月25日、紀伊邸へ、枝柿を届ける使者となる。(『実紀』)

4月13日〜21日、家光の日光社参に供奉。(『大河内家譜』『実紀』)
4月26日、三家に枝柿を届ける使者となる。(『実紀』)

6月20日、紀伊邸に瓜二籠を届ける使者として赴く。(『実紀』)
6月21日、尾張・紀伊・水戸 三卿が深川辺に逍遙する。信綱、三卿に甘瓜を届ける使者となる。(『実紀』)

7月2日、嫡男・輝綱と京都所司代・板倉周防守重宗の八女が婚約。寛永16[1639]年9月5日、結婚。(『大河内家譜』)
婚約について、家譜の信綱の項には寛永七年、輝綱の項には寛永九年とある。
7月24日、信綱・正綱、増上寺へ供奉。(『実紀』)
7月26日、勧修寺門跡寛海へ使いする。(『実紀』)

8月12日、宅地を賜る。(『実紀』)

9月1日、前田利常が病気につき、信綱が見舞う。(『加賀藩史料』)
9月3日朝、土井利勝・松平正綱らが小堀遠州の茶会に招かれる。(『小堀遠州茶会記集成』)

10月23日、家光の弟・忠長の改易にともない、駿府城の受け取りに松平正綱が任ぜられる。
10月29日、"松平右衛門殿駿府へ御立"。 (『国師日記』)

11月15日、大河内金兵衛(久綱)・南条金左衛門・小泉平三郎・曽根長兵衛らにより外田ヶ谷村年貢割付状が発給される。(『騎西町史』近世史料編)
その後、ここは川越藩騎西領となる。正保4[1647]年11月15日の記事も参照。
小泉平三郎吉綱は、寛永9[1632]年頃より大河内久綱に附属され、後に羽生・忍の代官をつとめている。(『寛政譜』)
同日、大河内久綱より明願寺村年貢割付状が発給される。(『加須市史』に収録)
11月18日、宿老並を命ぜられる。(『実紀』)
制度が確立していないせいか、信綱の老中就任の日は諸説ある。寛永10[1633]年10月18日の注釈も参照。
11月21日、正綱、駿府より帰る。(『実紀』)

12月3日、信綱より崇伝のもとへ使者が遣わされる。家光より病状を尋ねられ、礼状を出す。(『国師日記』) 崇伝は翌年1月20日、没。
12月10日、"松平伊豆殿御年寄なミに被成候由..."。(『熊本県史料』所収・細川忠興宛 細川忠利披露状)
12月24日、増上寺の照譽了學と小石川伝通院の定譽随波、歳暮の御祝儀で登城。酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋に謁する。(『増上寺史料集』)


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