【寛永十年〜寛永十三年(六人衆〜老中〜忍城主時代)】
松平信綱 年譜・五
「老中」「若年寄」等の用語が一般的になるのはもう少し後のようであるが、本稿では厳密な使い分けはしていない。
1月12日、"松平伊豆殿御年寄衆ニ被仰付由..."(妻木之徳宛 細川忠利書状)
1月29日、"松平伊豆事(中略)新敷出頭人に候条..."。(木下延俊宛 細川忠利書状)
2月10日、正綱邸で寄合があり、松平信綱・阿部忠秋・柳生宗矩・井上政重が参加。
この日、大河内久綱への命があり、松平豊前守勝政(前日付で駿府城番)に駿河国で知行所を割り付けるよう指示が下る。(『幕府日記』)
2月29日、信綱、谷中に下屋敷を構える。18,322坪で幕末まで存続した。
3月2日、正綱の女(神保左京茂明の妻)没(15歳)。逆算すると元和5[1619]年生まれで、実は正綱の長男・利綱(元和6年生)より年長だったはずだが、『寛政重修諸家譜』では男子4人の後に記載されている。
3月23日、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次の六名が"六人衆"となる。後にこの役職は若年寄と呼ばれる。
3月28日、御三家に菓子が下され、信綱が使者をつとめる。(『幕府日記』)
4月9日、発行年度が確認されている老中連署奉書のうち、松平信綱の署名した最も古い物がこの日にあたる。
署名者は、土井利勝・酒井忠勝・稲葉正勝・松平信綱・松平正綱・伊丹康勝。
この春より当時七歳の四男・信定、和歌をたしなむ。烏丸大納言藤原資了より添削をうける。(秀政由緒)
5月5日、一万五千石加増、都合三万石で忍城主となる。
"此時仰に依て土井大炊頭利勝・酒井讃岐守忠勝と同じく奉書の判形をくハへ、政務をあづかりきく" 。(『寛永諸家系図伝』)
忍領と併せて、相模川筋八ヶ村が所領となる(〜寛永16[1639]年まで)。この八ヶ村は、駿河大納言忠長の旧領にあたる。(『相模原市史』)
5月7日、萩藩毛利家より、加増の祝いの使者が至る。(「公儀所日乗」)
この日、それまで忍城の城番をつとめていた高木九助正則が江戸に呼び戻される。(『実紀』)
5月11日、忍城主となった御礼のため拝謁、御太刀馬代黄金三枚を献上。(『大河内家譜』)
5月13日、酒井山城守重澄が改易される。酒井重澄は信綱の相婿(正妻どうしが姉妹)にあたる。
5月16日、信綱、甲賀の水口に出張の命をうける。(『幕府日記』)
5月19日、萩藩より上方出張の件で羅紗五間が贈られるが、受納せず。(「公儀所日乗」)
5月20日、江戸を出発。翌年の家光上洛に備え、宿所の検分をおこなうこととなる。大坂・奈良・堺を巡検する。
このときに甲賀とのつながりができ、島原の乱のときに甲賀忍者が参戦する訳である。
水口における家光の宿所は石垣を築いた本格的な城塞であった。
5月26日、立花宗茂書状に、"松伊豆守殿ハ御年寄衆ニ御成候"と見える。(『福岡県史』近世史料編)
6月12日、正綱、洪水の被害を巡検。(『実紀』)
6月21日、"松平豆州下向板倉周防守御振舞被下候"。(大内日記)
6月22日、正綱の子、利綱・正信・正光が御前で能を披露する。(『実紀』)
6月28日、帰府。(『大河内家譜』)
7月3日、拝謁。(『実紀』)
7月14日、この年?松平正綱と伊丹康勝との連名で、観音寺宛に千石の米を備蓄する蔵を造る指示を出す。(『野洲町史』) 7月13日に宮城和甫(みやぎまさよし)と花房勘右衛門が翌年の大上洛の準備として出張を命ぜられており、書状中に宮城・花房の名があることから、この年か。
7月24日、三男・伊織、没。家譜に6歳とあるが、これだと四男の信定より年少ということになり、計算が合わない。
7月25日、立花宗茂より家臣の小野伊豆守正俊へ、松平伊豆守信綱と名がかち合うので「和泉」にせよ、と申し送る。(『福岡県史』近世史料編)
この月、大河内又兵衛重綱(久綱の養子)、小姓組番となる。(酒井系譜) 実紀は「是年」とする。
8月2日、正綱邸で寄合。(『幕府日記』)
この時期、松平正綱および伊丹康勝、将軍の勘気を被る。
直接の理由は、他人の知行地となっている土地を別の者の知行地として割り付けてしまったことによる。
9月24日、細川忠利より正綱に見舞いの書状を出す。
この日、堀尾忠晴が死去したため信綱が弔問する。(『実紀』)
9月29日、"松右衛門殿・伊播磨殿御勘当之由"(細川忠利宛 細川忠興書状)
10月5日(1633.11.6)、オランダ商館長の日記にも松平正綱・伊丹康勝の蟄居の件が記される。(『オランダ商館長日記』…以降『蘭館』と略す)
10月17日、9月29日の続報でそれほどひどい勘気ではなく"大慶ニ候"と報じている。(細川忠利宛 細川忠興書状)
10月18日、『柳営補任』ではこの日を松平信綱の老中就任としているため、諸書に引用されているが、柳営補任の記事の元となった原出典は不明。
徳川実紀のこの日の記事には将軍家光が前日より煩いのため"諸大名群参"、とある。
『寛永諸家系図伝』や細川忠利の書状など、当時の記録類を総合すると、寛永9年11月18日老中並、寛永10年5月5日老中とするのが妥当か…?
10月27日、信綱邸で寄合。(『幕府日記』)
11月10日、田名村宛に黒印を据えた年貢割付状を発給する。(『相模原市史』)
11月、忍藩領・下池守村に年貢割付状が発給される。翌年までは花押が据えられるが、その後は実父・大河内久綱が代行。
11月、"密旨をうけて上総国佐貫にいたる"。(『寛政譜』)
「信綱公御一生之覚書-信綱記所載」には、"駿河大納言殿御配所之地為御見分被遣之御供之者共奉推察之"とある。供の者が推察した、というのだから眉に唾をつける必要がありそうか?
12月4日、大河内久綱の母(鳥居掃部介某女)、没。
12月5日、大姫(家光養女)、前田光高へ輿入れ。信綱も供奉する。(『実紀』)
12月6日、駿河大納言忠長が自刃。28歳。
1月29日、秀忠の法事にあずかった者に拝領物あり。
土井利勝・酒井忠勝・松平信綱が列座、伊奈半十郎・大河内金兵衛(久綱)らに申し渡される。(『幕府日記』)
2月3日、年寄と六人衆の職務規程が定められる。
3月1日、増上寺領の王禅寺村から大河内久綱に、種籾拝借証文が出される。(『川崎市史』)
4月5日、上洛のため、諸大名に例年より早く暇が出される。萩藩毛利家には、この日上使として松平信綱が訪れる。(「福間彦右衛門覚書」)
同日、信綱、上杉定勝参府の報をうけ上使として赴く。(『上杉家御年譜』)
5月29日、天海僧正のとりなしで、正綱への(去年9月頃からの)勘気が解ける。(『実紀』)
この前後?信綱が家光の勘気を被る。"当暦暮春之比ヨリ信綱公御前不快"(「信綱公御一生之覚書」)
6月20日、将軍家光が三十万の大軍を率いて上洛。
信綱・輝綱・正綱・隆綱(信綱の義弟)らも供奉。
信綱は家光の勘気を受けている最中で、徒歩で供をする羽目になる。
6月27日、家光が駿府にて騎馬の法を見物。信綱がこれを指揮し、家光の勘気が解ける。
この日より騎馬にて供をする。
7月12日、上杉家より進物あり。受納せず。(『上杉家御年譜』)
7月22日、上杉家より老中等に進物あり。いずれも受納されず。(『上杉家御年譜』)
7月、大河内久綱配下の柴山新次郎・矢野忠兵衛・角田理右衛門、騎西の検地を行う。(『騎西町史』)
寛永8[1631]年8月11日の記事も参照。
閏7月1日、天野長信の長男・長三郎長重および次男・十郎兵衛信俊(いずれも母は大河内久綱女)、家光に謁見。(『実紀』『寛政譜』)
閏7月3日、上杉家より乾肴一箱を贈られる。(『上杉家御年譜』)
閏7月18日、上杉家より鮮肴を贈られる。(『上杉家御年譜』)
閏7月25日、上杉家より葡萄や梨を贈られる。(『上杉家御年譜』)
同日、土佐山内家より献上された川船を信綱が披露し、上覧。(『山内家史料』)
閏7月29日、京都において従四位下にのぼる。
8月2日、遊佐郷の大肝煎・高橋太郎左衛門および弟の長四郎が江戸に上り、庄内藩酒井氏の苛政を松平正綱に訴える訴状を出す。このとき正綱はまだ江戸に戻っていなかったと思われるが…。(『山形県史』資料編)
8月4日、東福門院の侍女である権大納言局が家光に拝謁。
この年、権大納言局の願により、局の甥である進喜太郎が江戸に下る。進喜太郎はまだ幼少であったため、台命により、松平信綱に養育される。「事語継志録」には、権大納言局が江戸に下って家光に拝謁したように記されているが、実際の会見は京都である。
8月20日、家光、江戸城に帰還。(『実紀』)
9月13日、家光の日光社参に供奉。(『寛政譜』)
9月20日、家光、江戸城に帰還。(『実紀』)
10月19日、内藤左馬助政長が卒したため、信綱が弔問。幕府より香銀二百枚が下される。(『実紀』)
10月26日、松平信綱・正綱の連名で高橋兄弟に返信を出す。(8月2日の記事を参照)(『山形県史』資料編)
偶然の一致であるが、高橋弟の名「長四郎」は信綱・正綱の通称でもある。
12月15日、尾張義直の参府を慰労する使者となる。(『実紀』)
12月18日、長女・千万姫が酒井忠当と婚姻。(『大泉紀年』)
酒井忠当は庄内藩主・酒井宮内大輔忠勝(酒井讃岐守忠勝とは同名の別人)の嫡子。
12月19日、柳川調興が対馬藩主・宗義成を訴えた事件の調査のため、土井利勝の家臣・横田角左衛門と松平信綱の家臣・篠田九郎左衛門が対馬に到着。
翌年3月に家光が親裁することとなる。
この年、四女・多阿、誕生。
1月23日、"松平伊豆守信綱の宅に諸老臣会議す"。(『実紀』)
ちなみに25日は酒井忠勝邸が会議場となっている。
1月26日、"松平右衛門大夫正綱宅に諸老臣会議せり"。(『実紀』)
2月3日、嫡男・輝綱が前髪を取る。
2月12日(1635.3.30)、オランダ商館長、横田角左衛門と篠田九郎左衛門が対馬から江戸に向かったという話を商務員フランソワ・カロンより聞く。(『蘭館』)
同日、高木主水正正成が病気のため、信綱が上使として見舞う。(『寛永諸家系図伝』) この高木正成は、信綱が忍城主となるまで忍城を預かっていた高木九助正則の一族である。
同日、大河内金兵衛(久綱)宛に、「忍領在々御普請役高辻帳」が発給される。
署名者は土井利勝・酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・伊奈忠治。(『埼玉県史』資料編)
3月1日(1635.4.17)、オランダ商館長らが江戸城に登城し、信綱が披露する。(『蘭館』)
同日、山内忠義の参府を慰労する上使となる。(『山内家史料』)
同日、島津家久の参府を慰労する上使として桜田の島津藩邸に赴く。(『旧記雑録 後編』)
3月4日、"松平伊豆守信綱がもとに諸老臣会議す"。(『実紀』)
この日の朝、宗義成が松平邸で訊問をうける。
3月7日、松平邸で宗義成と柳川調興の訊問。深夜に及ぶ。
3月11日、対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興の争いを将軍家光が親裁。
ちなみに、信綱の義弟・隆綱の正室はこの宗義成の女である。
在府の諸大名が列席する。宗義成の取次は酒井忠勝、柳川調興の取次は松平信綱であった。
3月14日、土井利勝・酒井忠勝・松平信綱の連署により柳川一件の判決状が出される。
4月20日、この日、五男・采女(信興)が家光に拝謁したという。(『寛政譜』)
四男・信定も同時に拝謁。(信興由緒)
6月21日、武家諸法度、発布。
6月28日、松平信綱を上使として、上杉定勝が帰国の暇を賜る。(『上杉家御年譜』)
7月8日、次女・亀姫と土井利勝の嫡男・土井遠江守利隆が婚約。(『大河内家譜』)
寛永13年11月29日の記事も参照。
10月6日、家光が翌日に鹿狩りを行うので、準備のため、阿部忠秋と板橋に出張。このとき、石谷十蔵貞清が同行している。
10月29日、小姓組番頭との兼務を解かれる。
11月10日、老中・若年寄・勘定奉行等の職務規程が定められる。(『実紀』)
土井利勝・酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛の五名が交代で月番となるよう命ぜられる。
松平正綱・大河内久綱が勘定奉行の職掌を受け持つことが正式に規定される。
11月14日、病気のため、宮崎備前守時重をもって御尋ねあり。(『大河内家譜』)
12月3日、11月29日に駿府城で火災があったため、駿府へ出張の命を受ける。(『大河内家譜』『実紀』)
12月28日、輝綱が従五位下甲斐守に叙任(『大河内家譜』)。叙爵について、実紀には晦日の条に記す。
この日、四男・内記(信定)が家光に拝謁。(『寛政譜』)
この年、信綱、平林寺に阿難・迦葉像を寄進。
1月15日、輝綱が甲斐守に叙任した御礼のため拝謁。(『大河内家譜』)
2月12日、"松平伊豆守信綱宅に会議あり"。(『実紀』)
この前後に、老中たちの居宅が順番に会議の場となった記事が続く。
2月25日、信綱の正妻が煩っているため、萩藩毛利家より使者が赴く。(「公儀所日乗」)
3月7日、正妻・井上正就の長女が死去(39歳)。隆光院殿太岳静雲大姉。
毛利秀就、松平信綱・土井利勝・土井利隆・井上正利らのところへ見舞いに訪れる。(「公儀所日乗」)
3月19日、酒井忠世、卒。
3月21日、正綱、日光へ先行するよう命ぜられる。(『実紀』)
3月28日(1636.5.3)、家光が日光参詣を行うあいだ、江戸の留守を預かるよう命ぜられる。(『実紀』)
同日、オランダ人が将軍に謁見、信綱が披露する。銅のシャンデリアが贈られる。(『蘭館』『実紀』)
4月6日、"松伊豆殿内儀も遠行之由之事"。(細川忠利宛・細川忠興書状)
4月10日、日光で神事が行われ、天海・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝らが供奉。(「板倉家御歴代略記」)
4月24日、日光山にて神事が行われ、大河内久綱が膳部の事を総督する。(『実紀』)
4月29日、伊達政宗が重病となり、信綱が上使として見舞いに訪れる。(『実紀』)
5月21日、家光が伊達政宗を見舞い、信綱も供をする。(『木村宇右衛門覚書』)
対面の後、政宗が小姓の木村宇右衛門に家光の還御の様子を見るように申しつけた。信綱が宇右衛門を呼び止め、自分の後ろについて袖の陰から見るようにすすめたので、後ろで平伏しながら信綱の服の袖を持ち上げて家光の姿を見た、と記される。
5月24日、暁に伊達政宗が死去したため、朝、松平信綱が上使として訪れる。実紀には対応する記述は見あたらない。(『木村宇右衛門覚書』)
7月21日、保科正之、二十万石をもって山形城主となる。
7月30日、松平正綱・松平出雲守勝隆、山形へ赴くよう命ぜられる。
9月10日、松平正綱・松平勝隆らの連署による領地目録が渡される。(『会津藩家世実紀』)
10月、後水尾院が金沢文庫にある律令の書を閲覧したいと希望しているため、信綱が仰せを受けてこれらを筆写せしめる。(『寛永諸家系図伝』星合氏の項)
この前後に土井利隆と信綱の次女・亀姫が祝言をあげる。
11月29日、細川忠利から細川光尚に、土井・松平両家へ樽肴などの祝儀を贈るよう指示する書状を出す。
12月11日、松平正綱・秋元泰朝・板倉重昌、朝鮮通信使が日光へ参拝する準備のため、日光へ先行する。(『寛政譜』)
12月12日、上記の件で、信綱も日光へ赴く。(『実紀』)
(朝鮮暦12月17日)、通信使の任絖(にんこう)、宗義成より信綱が日光へ向かったことを聞く。(『丙子日本日記』)
(朝鮮暦12月19日)、通信使一行、小山で宿泊。信綱は前日小山を通過し、道中整備の確認をおこなう。任絖は日記の中で、巨額の費用を投じて整備を行っていることにあきれている。(『丙子日本日記』)
(朝鮮暦12月22日)、任絖、日光着。(『丙子日本日記』)
12月24日、信綱・正綱ら、日光より帰る。(『実紀』)
12月29日、義弟(正綱の長男)・利綱が従五位下佐渡守に叙任。(『寛政譜』)
この年、大河内久綱を奉行として沼地を埋め立て、妻沼聖天宮の田を造成する。(『妻沼町誌』)
Copyright © st 2002-2007 All rights reserved.