【寛永十四年(島原の乱勃発)】
松平信綱 年譜・六
寛永14[1637]年、この年将軍家光は病気がちであった。
正月から6月までは幕府の日記が欠落。"定めて(記事の)遺脱多かるべし"と徳川実紀にある。
4月23日、丹羽長重が前月に死去したため、光重が跡を継ぐ。酒井讃岐守忠勝邸にて、井伊直孝・土井利勝・松平信綱・堀田正盛・阿部忠秋が列座の上、申し渡しがある。(『新修島根県史』所収「堀尾古記」)
5月16日、阿部忠秋とともに踊りを献ず。
信綱は生駒壱岐守高俊の狂言の者を借りて出したが、忠秋の手の者と伴奏の息が合わずちぐはぐだったという。それがかえって家光にウケた、と伝えられる。(『実紀』)
5月25日、二丸にて御膳を献じる。(『実紀』)
6月10日付の細川忠利宛 細川忠興書状にも言及あり。
8月7日、信綱、御膳を献ず。(『実紀』)
8月9日、風雨で崩れた江戸城の石垣を阿部忠秋とともに巡視。(『実紀』)
9月18日、阿部忠秋とともに踊を興行。家光の御覧に入れる。(『寛政譜』)
10月16日、信綱邸に将軍家光のお成りがある。実父の大河内久綱や養父の松平正綱はじめ、一族そろって席に連なり、それぞれに家光からの拝領物がある。
10月下旬、島原の乱の発端となった事件が発生する。
10月24日夕方、林小左衛門、キリシタン捕縛の命を受ける。有馬村で三吉・角内という百姓がキリスト像を掲げて信者を集めたため。
10月25日、有馬村で代官・林兵左衛門が村人に殺害される。
11月4日、沢庵宗彭、江戸城に招かれ、家光が茶をふるまう。このとき、信綱が、茶道具の説明をしたという。
11月9日、島原の乱勃発の報が江戸に届く。
板倉内膳正重昌・石谷十蔵貞清を上使として派遣。
11月10日、板倉重昌、出発。
11月14日、一揆勢と唐津藩兵の戦闘により、富岡城代・三宅藤兵衛が戦死。
11月17日、板倉重昌、伏見着。普通に旅行する場合の所要日数は14日くらいだから、かなりの強行軍であろう。
11月26日、進喜太郎成之が三百俵を賜る。(『寛政譜』)
進喜太郎は、将軍家光の命により松平信綱に養育されている。後、一千石の旗本となる。
11月27日、松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄が島原への上使となる。
"嶋原ノ儀ニ付て伊豆殿・左門殿為馳走…"(『池田光政日記』)
12月2日、二の丸にて信綱に暇を賜る。
この日、書院番・中坊長兵衛時祐、暇をたまう。(『実紀』)
中坊時祐は松平正綱の養女を妻に迎えていた縁により、島原に従軍。この松平正綱の養女について、『寛政重修諸家譜』の中坊時祐の項には記述があるが、松平正綱の項に該当する女子が見あたらず。
12月3日、辰ノ一点、江戸進発。
同日、土井利勝・酒井忠勝・阿部忠秋から板倉重昌・石谷貞清宛の奉書で、松平信綱・戸田氏鉄の出発を告げる。(「板倉家御歴代略記」) 板倉重昌が奉書を受け取ったのは12月15日〜20日くらいであろうか。
12月14日、信綱、伏見の小堀遠州宅で板倉重宗と面談。
天野長三郎長重(信綱の姉の子)が京都より来訪、島原へ同行。
12月15日晩、伏見出船。
12月17日、大坂城代・阿部正次と面談。
12月19日、大坂を出船。
12月28日、豊前小倉に至る。(『嶋原天草日記』)
12月30日、立花宗茂家中へ、船の用意を依頼する書状を出す。(『福岡県史』)
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