寛永十五年(島原の乱〜有馬着陣)

松平信綱 年譜・七
かっこ内の日付はグレゴリオ歴。

寛永15[1638]年 四十三歳

1月1日(1638.2.14)、幕府上使・板倉重昌、戦死。
松平伊豆守家の七代目信明(のぶあきら)の母・村雨氏は、このとき板倉重昌に付き従っていた板倉家家老の子孫にあたる。
1月3日(1638.2.16)、板倉重昌戦死の報を受け取る。(松平輝綱『嶋原天草日記』)
1月4日(1638.2.17)、松平信綱・戸田氏鉄の両名、着陣。
1月12日(1638.2.25)、板倉重昌戦死の報が江戸に届く。(『実紀』)
1月13日(1638.2.26)、松平信綱・輝綱父子に、土佐山内家より「用があれば申しつけてもらいたい」という書状を出す。(『山内家史料』)
1月14日(1638.2.27)、松平家家臣の和田理兵衛・小沢仁右衛門・篠田九郎左衛門に、前日と同様の書状が出される。(『山内家史料』)

1月28日(1638.3.13)、川越で大火。当時の川越領主は堀田正盛であった。
同日朝、仕寄の見回り中に、近くで鉄砲が暴発。戸田左門(氏鉄)が負傷したが、信綱はタイミングよく別の方を向いたため、負傷を免れる。"家中皆々祝申候"。(「長谷川源右衛門留書 肥前国有馬高来郡一揆籠城の刻々日記」…以降「刻々日記」と略す)
1月29日(1638.3.14)、家人の小屋より失火。さらに夜にも板倉重昌への使者の小屋より失火。(『嶋原天草日記』)

2月2日(1638.3.17)、家光、戸田氏鉄・松平信綱の両名に内書を与える。島原に書状が着いたのは15日の前後であろう。2月17日の長谷川源右衛門留書に"御直判参候よし"とあるのがこれであろうか??
2月3日(1638.3.18)、1月27日に日光で火事があったため、松平正綱が日光出張を命ぜられる。(『実紀』)
2月15日、大河内久綱、台命により(埼玉県)妻沼の陣屋を引き払い、妻沼聖天宮に跡地を寄付する。『妻沼町風物史話』に名主宛の譲渡状が採録されている。
2月16日、細川忠利が父・忠興宛の書状中で「伊豆殿の指示が適切なので安堵している」と報ずる。"伊豆殿無御下知者、中々しまり申間敷候事"。
2月21日夜、一揆勢の夜襲。黒田・寺沢・鍋島の陣所が襲撃される。
2月24日、26日に総攻撃することを決定。
2月25日、雨降。(『嶋原天草日記』)
2月26日、上使として三浦志摩守正次が来着。
この日に予定されていた総攻撃は、雨のため28日に延期となる。
2月27日午後、総攻撃。"廿七日未ノ刻ニ惣責め仕り…"(阿部正次宛 松平信綱書状)
2月28日、原城、落城。
松平家中のうち、杉山頼母・西村半三郎・野間市兵衛・又者三名の六名が戦死。(『大河内家譜』「無銘書」)
"城中男女惣合三万七千人 働者壹万三千 惣責之時は貳万三千 此内牢人四拾人金堀三人"(「刻々日記」)

2月、この月より松平正綱および松平清左衛門尉親正を造営奉行として、三河大樹寺の造営が行われる。正綱の家臣小嶋久兵衛尉幡義、石河源左衛門尉、宇野新右衛門尉が現場の指揮にあたる。(『岡崎市史』)

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