寛永十五年(島原の乱〜江戸に帰還)

松平信綱 年譜・八
かっこ内の日付はグレゴリオ歴。

寛永15[1638]年 四十三歳

3月7日(1638.4.20)、有馬落城の報が江戸に届く。
この日、酒井長門守忠重が領地八千石を召し上げられ、廩米八千石を代わりに与えられる。
3月8日、堀田正盛が六万五千石加増の上、信州松本に転封。 川越における1月の火災の責任をとらされたともいう。
3月9日、雑兵二百人を引き連れて島原へ。残りの人数は14日有馬を発つ。(『嶋原天草日記』)
3月13日、この日の朝まで松倉勝家居城の島原に逗留。(「刻々日記」)
3月16日、長崎到着。(『嶋原天草日記』)
3月18日、松平伊豆守内・奥村権丞重昭、鍋島大膳宛に軍功を確認する書状を発行。
この"奥村権丞重昭"が慶安事件の訴人である"奥村権之丞時澄"と同一人物なのか親子なのか、筆者の手持ちの資料では不明。
3月25日、平戸着。(『嶋原天草日記』)
平戸のオランダ商館を査察。

4月3日、七つ時分、小倉に到着。(「刻々日記」)
4月20日、未の刻、小倉を出船。(「刻々日記」)
4月25日、"摂州大坂到着"。(『嶋原天草日記』)
4月27日、京都へ向かう。(『嶋原天草日記』)
"松平伊豆守上京、戸田左門夜前上京"。(大内日記)
4月28日(1638.6.10)、オランダ商館長クーケバッケルは江戸から平戸へ向かう途中であったが、京都で松平信綱に面会する。別室で嫡男の輝綱にも面会しているが、輝綱の日記にはクーケバッケルとの面会の件は記されていない。(『蘭館』)
この日、板倉重宗邸で饗応あり。(『嶋原天草日記』)
4月29日、信綱、御所へ。"対面所ニテ御吸物肴酒出ル"。東海道経由で京を発つ。(大内日記)
草津へ。(『嶋原天草日記』)

5月10日、江戸に向かう途中の松倉勝家が、伏見を通過。"今日松倉長門守伏見通候由…"。(大内日記)
5月11日、"十一日、江戸到着"。(『嶋原天草日記』)
5月12日、深夜、信綱が江戸城に呼び出され、家光と密談する。 "御閑談之儀、惣伊豆守不出口、故今不能記之"。(『嶋原天草日記』)
家光と密談したのは『嶋原天草日記』に12日深夜とあるが、これを参照して記述されたはずの『大河内家譜』には何故か13日夜と記載されている。さらに『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』が家譜の記事をそのまま引用して13日としている。
5月13日、輝綱とともに家光に拝謁。(『実紀』)
5月16日、阿部正次以下四名宛の書状で、江戸に到着したことを報じる。
"我等儀去十一日ニ到着、十三日に仕合能御目見仕候" (大坂衆宛 松平信綱書状)
「幕府日記抄」に12日夜帰還とあるのは明らかに誤記。
5月21日、松倉勝家が森内記の江戸屋敷に到着。(「嶋原一揆松倉記」)

7月19日、松倉長門守勝家、乱の責任を問われ、配所にて死罪となる。(『幕府日記』)
宮城和甫、井上政重が検使をつとめる。
松倉勝家の江戸屋敷を改めたところ、桶に入った死体が出てきたため、5月に勝家を江戸に喚問、7月死罪となったという。(「嶋原一揆松倉記」)

8月11日、正綱、関東山野の巡察を命ぜられる。(『実紀』)
8月15日、小姓組番・書院番、両番士の旗本の知行所への暇に関する規定が改められる(寛永10年9月の改訂)。松平信綱が立ち会い、三浦正次により改訂が行われる。(「近世前期小姓組番支配の一考察」お茶の水史学45巻 所収)

9月6日、崇源院殿(秀忠夫人)十三回忌法要。大河内久綱が運営に加わる。(『実紀』)
9月7日、細川三斎(忠興)、将軍家光に招かれ、江戸城で茶をふるまわれる。家光は病後で月代がのびている、と三斎を迎えた信綱が説明する。(『綿考輯録』)
9月16日、"大河内金兵衛久綱はじめ。御法会にあづかりし代官等。金銀。時服たまふ事差あり"。(『実紀』)

11月9日、板倉重昌に属していた寄合組の者を松平正綱・秋元泰朝の配下に振り分ける。(『実紀』)

12月5日、久綱、職を退く(『寛政譜』)。『徳川実紀』に"地方奉行をゆるさる"と記す。
12月30日朝、正綱、小堀遠州の茶会に出席。(『小堀遠州茶会記集成』)


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