寛永十六年〜寛永十八年(川越入封〜日光造営)

松平信綱 年譜・九

寛永16[1639]年 四十四歳

1月5日、三万石加増、計六万石をもって忍城主を転じ川越城主となる。
忍には阿部忠秋がはいる。阿部家の記録には、加藤三右衛門重次(城代)・平田弾右衛門重政(家老)が松平家家老・和田理兵衛から城を受け取った、とある。(忠秋公御譜下調)
1月21日朝、信綱、小堀遠州の茶会に招かれる。(『小堀遠州茶会記集成』)
松平左門(佐渡守利綱か)・同甲斐(輝綱、信綱嫡男)・同三記・同右京(吉綱、信綱二男)・久志本式部が共に招かれる。三記は特定できず、あるいは写本の誤記で四男の内記信定を指すか。

2月16日、紀伊邸への使者となる。(『実紀』)

4月23日、川越城に赴くための暇を賜る。(『幕府日記』)

5月1日、江戸に戻り拝謁。
5月7日、二丸において點茶を奉り、無銘の脇差を献ず。(『寛政譜』)

6月3日、阿部重次と、西城など巡視。(『実紀』)
6月18日、尾張義直のもとへ使者として赴き、千代姫の婚礼を奢侈にしないよう伝える。紀伊頼宣のもとへ赴き、狩場のいとまを伝える。(『実紀』)

7月5日、尾張邸・水戸邸へ使いする。(『実紀』)
同日、いわゆる鎖国令が出される。

8月7日、大坂・堺の町人がかねてより江戸の海浜を埋め立てて宅地造成をすることを願い上げていたため、松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が埋め立て予定地を巡視。(『実紀』)
8月11日、江戸城に火災あり。
8月14日、江戸城の造作を行う総奉行を拝命。(『寛政譜』『実紀』)
8月20日、信綱をはじめ、江戸城の造作を監督する者たちに祝儀の酒が振る舞われる。(『実紀』)

9月5日、嫡男・輝綱と板倉重宗の八女が婚姻。(『大河内家譜』)
9月18日、紀伊邸へ見舞の使者となる。(『実紀』)
9月21日、信綱、千代姫(家光の長女)の尾張光友への婚礼に供奉。

10月、三浦正次との連名で、(10月8日付)浅間山村・高坪村訴状に裏書する。(『厚木市史』)
10月23日、尾張邸・水戸邸への使者となる。"大鷹二据づゝつかはさる"。(『実紀』)

11月15日、和田理兵衛の名で、大室村年貢割付状が発給される。(『加須市史』)
11月21日、江戸城造営のトラブルあり。信綱が井伊直孝・松平定綱の両名に家光の意を伝えるには、翌22日が吉日のため城櫓多門の柱立をおこなうはずが、両名がフライングで工事を始めてしまい、家光が立腹する。(『実紀』)

閏11月7日、前田利常のもとへ、病気見舞の使者となる。(『実紀』)

12月1日、水戸邸へ大鷹を下賜する使者に立つ。(『実紀』)

この年、異母弟・半左衛門忠勝、誕生。父・大河内久綱、母は某氏。43歳違い(!)の兄弟である。
この年、深井吉成が松平信綱に仕える。後に家老となる。(大河内家譜 別録三)


寛永17[1640]年 四十五歳

1月7日、正綱、地震のため日光の様子を見に行くよう命を受ける。(『実紀』)

2月1日、正綱、日光より江戸に帰る。(『実紀』)

4月、正綱、将軍家光の日光社参に先行する。(『寛政譜』)
4月10日(1640.5.30)、オランダ人、銅の燈架と望遠鏡を将軍に献上する。酒井忠勝および松平信綱、オランダ人拝礼のことを家光に取り次ぐ。(『蘭館』)
4月11日(1640.5.31)、銅の燈架が信綱邸に運び込まれて試しに組み立てられる。そのまま分解して日光へ運ばれる。(『蘭館』)
4月13日、信綱、家光の日光社参に供をする。
4月23日夕方、江戸城に帰還。(『実紀』)

5月9日(1640.6.28)、夕刻、フランソワ・カロン、信綱より翌日10時に進物を携えて登城するよう指示されるが、翌日キャンセルとなる。(『蘭館』『バタヴィア城日誌』)
5月17日、池田光政が訪問。弟・池田恒元の奉公斡旋の依頼。光政は前日には酒井忠勝邸を訪問している。(『池田光政日記』)
5月21日(1640.7.10)、カロン、老中に謁す。(『バタヴィア城日誌』)
実記には20日の条に記されている。

6月7日、松平正綱および天海、日光より帰還。(『実紀』)
6月21日、正綱、日光より帰還。出発の日時は不詳。(『実紀』)

7月27日朝、正綱、小堀遠州の茶会に招かれる。(『小堀遠州茶会記集成』)
松平甲斐守(輝綱)・松平主膳(隆綱、正綱二男)・松平左衛門(不詳)・加ゝ爪民部・菅谷宗勝が出席。

8月4日、家臣の柴山新次郎重吉、没。柴山新次郎は、もと大河内久綱の配下である。(『羽生市史』)
8月6日、正綱が日光東照宮の廟塔造営を監督するよう命ぜられる。(『実紀』)

9月24日、信綱、増上寺に代参。(『実紀』)

10月9日、信綱の義弟(松平正綱の三男)正光が死去(15歳)。

11月2日、家光が千住で放鷹、松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が雁を拝領。
11月16日、前日に尾張邸で出火があったため、信綱が見舞いの使者となる。
11月25日、細川光尚、細川忠利宛の書状で、松平正綱・信綱両名に(正光死去の件で)書状を送ったことを報告。

12月、家臣の増井初左衛門尉但久、三芳野神社に太刀を奉納(埼玉県指定・工芸品)。


寛永18[1641]年 四十六歳

1月12日、六男・頼母堅綱、誕生。母は"家女"と記されている。(大河内家譜 支流譜巻第五)

3月11日、家光が昨日戸田で狩猟を行ったため、猪の肢を拝領。
戦果十三頭が供の大名・旗本一同に分配された。(『実紀』)
3月26日、信綱を使として尾張・水戸両家に雁がつかわされる。

4月2日(1641.5.11)、オランダ商館長ル・メール、江戸に参府するが、家光には会えず、顧問官らに面謁する。定例の広間において、酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次・牧野信成・井上政重らが列座した。(『バタヴィア城日誌』1641.12.13の条)
4月4日、紀伊徳川頼宣の参府を迎える。(『実紀』)
4月8日、信綱の母方の一族である深井正家、没。
4月11日、紀伊邸へ。政事を議す。(『実紀』)
4月19日、面命あり。(『実紀』)
4月24日、信綱、増上寺に代参。(『実紀』)

5月5日、酒井讃岐守忠勝邸で、松平信綱・阿部忠秋が列座の上、細川光尚に忠利の遺領相続の仰渡がある。(『綿考輯録』)
5月11日、信綱、日光東照宮で普請をおこなう奉行を拝命(寛永17[1640]年8月6日の記事の続き)。
5月12日、日光へ向けて出発。(『大河内家譜』) 日光出張に関して、徳川実紀に帰還の記事はあるが出発の記事が見あたらない。
現在残されている年次不詳5月13日付 信綱自筆書状はこのときのものと思われる。(長男)輝綱・(次男)吉綱宛で、これによると、12日夜は川越に泊まったようである。(『川越市史』他、『歴史読本』にも何度か写真が掲載されている)
5月13日、大河内久綱、実弟松平正綱にあてて伊奈家先祖の覚を送付、記載内容について問い合わせを行う。「伊豆(信綱)もそちら(日光)に向かうので相談するよう」に依頼。(『埼玉県史』史料編に写真付きで掲載)
このとき幕府は『寛永諸家系図伝』の編纂中であった。
5月17日、オランダ商館の上級商務員エルセラック、今後の取引を平戸から長崎へ移すという、伊豆・豊後・対馬の三老中が署名した通達を幕府より受け取る。(『蘭館』)
5月29日、年次不詳5月29日付・信綱自筆書状(輝綱・吉綱宛)はこのときのものか?(『別冊太陽 江戸大名百家』に写真あり)
四男・内記(信定)が煩っているようなので、ねんごろに養生するように、とある。

6月21日、阿部忠秋が日光へ。(『実紀』)
7月14日の記事に、忠秋の老母(「忠秋公御譜下調」によると母方の祖母というのが正確らしい)が病気のため阿部重次が交代した、とある。(8月13日の記事も参照)

6月23日、阿部忠秋と入れ替わりに江戸へ。(『大河内家譜』)
6月24日、日光から発駕、江戸へ。(『大河内家譜』)
『徳川実紀』には6月23日"日光山より帰謁"とあり、こちらを信ずるべきか。

8月3日、のちの四代将軍・徳川家綱、誕生。
8月9日、"若君七夜の御祝ありて。御名をば  竹千代君と称し奉る" (『実紀』)
以下、御三家・諸大名からの贈物リストの記述が延々とつづく。信綱からは新藤五國重を贈ったと記されている。
この日、四男・信定、五男・信興、松平正綱の四男(信綱の義弟)正朝が家綱付きとなる。(『寛政譜』)
8月13日、阿部対馬守重次・松平右衛門大夫正綱が日光より帰る。(『実紀』)
8月14日、家光が酒井忠勝の下屋敷へゆく。御相伴として、堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次らが従う。"御挨拶ニ柳生但馬計也"。(大内日記)
8月19日、"松平伊豆守所ニテ大僧正振廻躍アリ"。(大内日記)
8月21日、二丸の普請をたすけつとめたことにより、家臣に時服白銀等をたまう。(『寛政譜』)
但し、家譜には6月21日とある。実紀の8月21日の記事は空欄になっている。
同日、義弟・隆綱、対馬藩主 宗義成の長女・藤と婚姻。
8月24日、信綱、増上寺に代参。(『実紀』)(大内日記)

9月24日、日光出張のため暇をたまう。
9月29日、日光より帰る。(『実紀』)

10月3日、正綱、日光の廟塔造営を監督した功により、吉岡一文字の刀と白銀百枚を賜る。
松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の三名にはひきつづき日光の造営を沙汰するよう、激励として刀一口ずつ賜る。(『実紀』『寛政譜』)
10月9日、玄猪の祝いで餅を拝領。(『幕府日記』)

11月8日、若宮御宮参の件で、紀伊邸への使者となる。(『実紀』)
11月、寛永15[1638]年より造営の三河大樹寺の建物四十余棟が完成。正綱が造営奉行をつとめている。(『岡崎市史』)

12月14日、三河吉田城主・水野隼人正忠清、松平信綱を訪問。水野家の家臣・大野治右衛門が供をする。(「大野治右衛門定寛日記」)
12月15日、四男・信定が袖を塞ぐ。(大河内家譜 支流譜巻第三)
12月28日、徳川頼宣が将軍家に杖を献じる。信綱より"御感の旨"を頼宣の使者に伝える。
12月29日、大河内久綱のもとへ、大野治右衛門が使者として赴く。(「大野治右衛門定寛日記」)


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