寛永十九年〜寛永二十一年(京都出張〜侍従昇任)

松平信綱 年譜・十
寛永の末には、全国的な凶作により深刻な飢饉となる。

寛永19[1642]年 四十七歳

4月、正綱、家光の日光社参に先行する。(『寛政譜』)
信綱は江戸の留守をあずかることとなる。(『実紀』)
4月5日、信綱より、留守の者達に怠慢なく勤仕すべしと命を伝える。(『実紀』)
4月11日、日光参詣中の留守は土井利勝・松平信綱の両名に諸事をはからうべしと触れ出される。(『実紀』)
4月16日、松平正綱・秋元泰朝、家光を迎える。(『実紀』)
4月18日、日光祭礼。正綱、参列。(『実紀』)
4月19日、正綱・泰朝より祭礼の無事終了を注進。(『実紀』)
4月20日、日光山で猿楽が催される。正綱・秋元泰朝・久世広之、これを沙汰する。(『実紀』)
4月24日、信綱、増上寺の御供所・所化寮経営について命を受く。(『実紀』)
4月30日、信綱、伊達秀宗に帰国の暇を伝える上使となる。(『伊達家御歴代事記』)
同日(あるいは5月1日)、松平信綱を上使として、細川光尚に帰国の暇を賜る。(『綿考輯録』)

5月8日、農民疲弊のため対策会議が行われる。(『実紀』)
5月17日、正綱の名で、地頭が疲弊して救済がままならないときは官より米を貸与することを触れ出す。(『実紀』)
5月21日、竹千代(徳川家綱)、伯母の天寿院(千姫)を訪問する。酒井忠勝・松平信綱・牧野信成 等が供奉。(『寛永諸家系図伝』『実紀』)

6月24日、信綱、増上寺に代参。

8月3日、徳川家綱が満一歳を迎え、信綱が二の丸において御膳を献じる。このとき伯耆肩衝の茶入・刀を拝領。(『寛政譜』『実紀』)
実紀には"次吉の刀をさゝげ"とあり、寛政譜には"一文字次吉の御刀伯耆肩衝の茶入を拝賜す"とある。
8月14日、家光、英勝院(家康の側室・お勝)を見舞う。松平信綱・阿部忠秋が供に加わる。(『寛永諸家系図伝』)
8月23日、信綱、(前日に英勝院が没したため)徳川頼房を弔問する。(『実紀』)

9月6日、崇源院(徳川秀忠夫人・お江与)の十七回忌法要が行われ、信綱が奉行を命ぜられる。
9月13日、酒井讃岐守忠勝が12日夜に見た夢を覚書に記す。伊豆守も登場。…わざわざメモを残すほどインパクトがあったのだろうか。夢の中でもやはり仕事をしている忠勝。(『小浜市史』藩政史料編所収「酒井忠勝神夢覚書」)
9月14日、松平正綱・秋元泰朝・井上政重らに前年からの農村疲弊への対策として、酒造制限・饂飩・蕎麦・饅頭の製造禁止などの令が下される。(『実紀』)
9月24日、信綱、増上寺に代参。
9月25日、日光山に相輪塔を建造のため、松平信綱および正綱に出張の命がくだる。(『実紀』)
9月26日、江戸を発つ。(『大河内家譜』)
9月29日、"かの地(日光)を検す"。(『寛政譜』) 同日、寛永10[1633]年に改易されていた酒井重澄が自殺。

閏9月9日、尾張邸へ。相応院尼(徳川義直生母・お亀の方)が大病のため、見舞の使者となる。
閏9月13日、尾張邸へ。相応院尼を見舞う。相応院尼は16日没。
閏9月14日、松平正綱・秋元泰朝・井上政重・宮木和甫・神尾元勝・朝倉在重・曽根吉次らの連署により、駿河田中藩主・松平忠晴宛に飢饉対策として、酒造制限・饂飩・蕎麦・饅頭の製造禁止などの令が下される。(『静岡県史』資料編)
閏9月17日、信綱、駿州田中領郷村高帳に署名。(『静岡県史』資料編)
閏9月20日、千代姫(家光の長女)が不調のため、使者として尾張邸へ医員を率いてゆく。
閏9月24日、尾張邸へ。徳川義直へ帰国の許可を伝える使者となる。

11月8日、松平信綱・阿部忠秋の両名が多病のため、交代で勤務するよう命ぜられる。(『実紀』)
11月15日(1643.1.5)、オランダ人、登城。松平信綱・牧野内匠頭信成・阿部重次らが出迎える。(『蘭館』)
11月17日、二丸にて、茶を献ず。この日、輝綱が安吉の刀を拝領。(『実紀』)
11月19日(1643.1.9)、正綱の用人が、閣僚がオランダ・ポルトガル両国の休戦を憂慮しているという談話をオランダ人に語る。(『蘭館』)
11月24日、信綱、増上寺に代参。

12月2日(1643.1.21)正午、オランダ人の元に「閣僚伊豆殿(松平信綱)」への贈り物が返却される。通詞の弁では、豊後殿(阿部忠秋)・対馬殿(阿部重次)との間に「何らかの確執」があって、伊豆殿は豊後殿・対馬殿が返した贈り物を持っていたくない、ということである。(『蘭館』)
12月6日(1643.1.25)正午、オランダ人が城外の役所に召し出される。伊豆殿・豊後殿・対馬殿のほか筑後殿(井上政重)、権八殿が同席する。(『蘭館』)
12月18日、四男・信定が前髪を取る。(大河内家譜 支流譜巻第三)


寛永20[1643]年 四十八歳

2月15日、信綱、青山幸成を見舞にゆく。青山幸成は翌16日卒。(『実紀』3/26の条)
2月24日、増上寺へ代参。(『実紀』)

3月14日、紀伊頼宣のもとに使いする。(『実紀』)
3月末、信綱、双輪塔建立の件で日光へ出張。この前後幕府の日誌が欠けており、徳川実紀には対応する記事がないが、『上杉家御年譜』3月18日の条に、上杉家から日光へ使者をたてた記事が見える。

4月14日、正綱より日光山の様子を注進。
4月23日、水戸邸へ。"近日に庶子拝謁あるべき由を伝ふ"。(『実紀』)
4月26日朝(あるいは29日)、小堀遠州の茶会に招かれる。出席者は松平伊豆守(信綱)・安藤(右京進)・松平佐渡守(利綱、正綱の長男)・同三左衛門(吉綱)。(『小堀遠州茶会記集成』)
写本によって「二左衛門/三左衛門」と異同があるが、ここでは信綱の二男・三左衛門吉綱を指すと解しておく。

5月3日、松平信綱から上杉定勝に、昼に登城するよう奉書あり。加藤明成が会津の領地を召し上げられることになったため、上杉定勝の家臣が会津城勤番を命ぜられる。(『上杉家御年譜』)

6月8日、松平信綱を上使として、前田光高が帰国の暇を賜る。(『加賀藩史料』)
実紀の記事が翌日にあるのは、老中が使者として赴いた翌日か翌々日に大名が御礼の登城…という手順で手続きが進行するので。

朝鮮通信使、来訪。 括弧内の日付は朝鮮暦。

7月13日(7月14日)、松平信綱が通信使の接待にあたっている宗義成(そう よしなり)に個人的に言うには、「日光山での祭文は念入りに点検しているが、通信使の側から何か問題点の指摘があるかもしれないと心配している」とのことで、問題はないと通信使側が返答。(『癸未東槎日記』)
7月14日(7月15日)、信綱から宗義成の元へ状が届き、通訳と宗義成が協議。世子・竹千代(家綱)への礼節と日光での拝礼の手順について話し合うが、朝鮮側から「乳幼児である世子にわざわざ挨拶する必要があるのか」と難色を示す。(『癸未東槎日記』)
7月15日(7月16日)、結局、竹千代は出座しないことに決定。(『癸未東槎日記』)
7月18日(7月19日)、通信使、江戸城へ登城。信綱ら幕閣が饗応。(『実紀』)
7月19日(7月20日)、松平正綱が通信使の日光行きに同道するため待機。(『癸未東槎日記』)
7月20日(7月21日)、宗義成が通信使を接待する宴をひらく。家光から準備費用として白金百枚を渡され、松平信綱が宴の采配をする。他の執政も人を送って伺候させる。宗義成の娘婿で信綱の弟である松平隆綱が一行に引き合わされる。(『癸未東槎日記』)
7月22日、天海大僧正が病臥のため、信綱をしておたずね有り。(『実紀』)

8月1日(8月1日)、松平信綱・酒井讃岐守忠勝の両人が通信使のもとへ人を送り、日光参拝が無事終了したのはめでたいことである、と挨拶する。(『癸未東槎日記』)
同日、阿部忠秋・松平正綱ら、日光より帰る。(『実紀』)
8月4日、通信使の接待にあたっていた宗義成に帰国の許可を伝える。(『寛永諸家系図伝』宗義成の項)
8月9日、正綱、日光山に相輪塔を建造する監督を務めた功により、時服五領・白銀百枚を拝賜。(『寛政譜』)
8月14日、上使として、酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱・板倉周防守重宗が春日局を見舞う。(『佐倉藩紀氏雑録続集』)
実紀には"けふも春日局の病をとはせたまひ。松平伊豆守信綱をつかはさる"とのみ記される。

9月3日朝、土井利勝・松平正綱らが小堀遠州の茶会に招かれる。(『小堀遠州茶会記集成』)
9月8日、後光明帝の即位を祝するため、酒井讃岐守忠勝とともに京都出張の命を受ける。(『実紀』)
9月10日、酒井忠勝とともに上使として春日局を見舞う。(『佐倉藩紀氏雑録続集』) 実紀には該当記事なし。
9月11日、酒井忠勝と松平信綱、二丸にて御茶を給う。(『実紀』)
9月14日、春日局が死去。
9月16日、京都に向けて出発。(『大河内家譜』)
9月17日、年次不詳9月17日付・大河内久綱書状(宛所は孫の輝綱)はこのときのものか?書状の内容は、騎西領の仕置についての相談である。(『埼玉県史』史料編に収録)
9月23日、酒井忠勝、所領の若狭小浜に立ち寄る。(『酒井家編年史料綜覧』)
9月30日、京都に至る。(『大河内家譜』)
同日、酒井忠勝、京都着。(『酒井家編年史料綜覧』)

10月3日、明正天皇が譲位、後光明帝、即位。
信綱、行幸の行列に供奉する。
10月6日、1日に遷化した天海大僧正の遺骸を日光に送るため、松平正綱が護送。諸大名家よりも家士が付き従う。(『実紀』)
この日は川越の仙波泊。
10月8日、鳳林承章和尚(隔蓂記の筆者)、信綱を訪ねるが、信綱は風邪気味で面会できず。(『隔蓂記かくめいき』)
10月14日、酒井讃岐守忠勝を少将、松平信綱を侍従に任じる沙汰が禁裏よりある。(『大河内家譜』『酒井家編年史料綜覧』)
「信綱公御一生之覚書」には、10月23日(22日?)に禁裏より沙汰があり、江戸に伺いをたてたのちに拝任、とある。
10月21日、酒井忠勝と松平信綱の両名、参内。(『大河内家譜』『酒井家編年史料綜覧』)
新帝の出御を庭で拝観する。(『本源自性院記』)
10月25日、侍従昇任の許可が下りたことを告げる飛脚が江戸より至る。御礼のため、家老の小沢仁右衛門一幸が江戸に向かう。(『大河内家譜』)
10月27日、再び参内する。(『寛政譜』)

11月3日(1643.12.13)、江戸に滞在中のオランダ人が松平信綱の留守宅を訪問する。(『蘭館』)
11月4日、侍従にすすむ。(『寛政譜』)
11月3日、津藩家老・藤堂主膳吉親(信綱の叔父)が、後光明天皇の即位を祝うため、藩主藤堂高次の命を受け京都への使者となる。(『永保記事略』)
11月13日、小沢仁右衛門、登城。(『大河内家譜』)
11月14日、伏見を発つ。(『大河内家譜』)
11月15日、大姫(将軍家光の養女)、前田綱紀を出産。(『実紀』)
11月17日、輝綱宛の書状で、江戸に戻ることを報じる。年次不詳の書状であるが、内容から寛永20年のものと思われる。
同書状によると、「ゆるゆると」帰るように、との上意であるが、阿部忠秋・阿部重次の両名から(大姫が臨月にあたるため)早々に江戸に戻るようにと十四日付奉書が到来したので早めに帰るつもりである、と述べている。 "右衛門殿金兵衛殿へも此状御めにかけ可申候"。
11月20日(1643.12.30)、帰路、オランダ商館長ヤン・ファン・エルセラックの一行とすれ違う。明け方東海道金谷の山の峠で会い、信綱は大勢の供を従えていた、とエルセラックが記す。(『蘭館』)
11月25日、江戸に戻り拝謁。(『実紀』)
11月29日、酒井忠勝、帰謁。(『実紀』)

12月16日、五男・信興が袖を塞ぐ。(大河内家譜 支流譜巻第四)
12月18日晩、松平信綱・松平佐渡(利綱)・松平主膳(隆綱)・久志本式部・伯安が小堀遠州の茶会に招かれる。(『小堀遠州茶会記集成』)
12月27日、尾張邸へ使いする。(『実紀』)

この年、家臣の深井藤右衛門吉成、千石で奏者番となる。吉成は当時、数え17歳。
この年、輝綱の長女・布宇、誕生。


寛永21[1644]年 四十九歳

1月16日、信興が前髪を取る。(大河内家譜 支流譜巻第四)

3月1日、尾張大納言義直の外山(=戸山)別荘に御成あり。信綱も供奉。(『実紀』)
3月4日、ひそかに鳥を捕っていた者を居邸で取り調べるよう、命を受ける。(『実紀』)
3月23日、信綱、前日の狩りの獲物の猪を拝領。
同日、松平下総守忠明病臥により、松平信綱をもっておたずねあり。
3月26日、前夜、松平忠明が卒したため、その子・鶴松へ信綱をして弔わせられる。

4月2日、上杉定勝が江戸に参府した報を受け、上使として松平信綱が至る。(『上杉家御年譜』)
4月11日、遠州掛川領三万石江村高帳(藤井松平家宛)に署名。(『静岡県史』資料編)

5月12日、正綱、日光へ。(『実紀』)
5月24日、信綱、増上寺へ代参。
この日、家光の三男・綱重、誕生。

6月17日、松平正綱の長男(信綱の義弟)利綱、卒(25歳)。

7月5日、長女・千万姫とその夫・酒井忠当の間に酒井忠義、誕生。
7月、土井利勝、中風を再発。阿部忠秋が見舞いの上使として派遣され、松平信綱が土井邸に泊まり込む。(『寛政譜』土井利勝の項)
7月10日、土井利勝、死去(72歳)。
7月24日、信綱、増上寺へ代参。

8月初旬、四男・信定、(信綱の願により)湯治の暇を賜う。(秀政由緒)

9月24日、信綱、増上寺へ代参。

10月24日、信綱、増上寺へ代参。

11月1日、正綱が暇を賜り、三河国の領地を巡検。(『寛政譜』)
11月19日、信綱、鴨を拝領。
11月28日、正綱、三河より帰る。(『実紀』)

寛永21[1644]年12月16日、改元され正保元年となる。


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