正保元年〜正保五年(安松金右衛門が仕える〜実父死去〜加増)

松平信綱 年譜・十一

正保元[1644]年 四十九歳

12月28日(1645.1.25)、オランダ商館長ピーテル・アントニス・オーフルトワーテル、江戸城で老中たちと対面する。(『蘭館』『実紀』)
同日、松平正綱、日光のことを命ぜらる。(『実紀』)

この年、代官・能勢四郎右衛門の肝煎で安松金右衛門が松平家に仕官。百俵をたまわる。(『新座市史』所収「本藩高士略伝」)

この年、川越の豪商・榎本弥左衛門忠重、松平信綱の家臣・松平八右衛門忠勝を烏帽子親として元服。榎本弥左衛門の著した覚書には信綱の家臣団の動向を報じた記事が多い。


正保2[1645]年 五十歳

1月3日(1645.1.30)、正綱、オランダ人に数枚の絹の衣服を送り、先日の贈り物の礼を述べる。(『蘭館』)
1月5日、松平正綱が老齢のため、太田資宗が補佐を命ぜられる。(『実紀』)
1月6日(1645.2.2)、信綱と輝綱、用人を使者としてオランダ人に贈り物の礼を述べる。
1月20日、松平正綱・太田資宗、日光より帰る。
1月21日、信綱の姉婿である天野豊前守長信、京都で死去。(『寛政譜』)
1月29日、家臣の深井数馬某、没。無嗣。(大河内家譜 別録三之下)

2月6日、家光と老臣、密談数刻。井伊直孝・酒井忠勝・老中三名・井上政重らが参加する。(『実紀』)
2月26日、品川御殿における訴訟の裁断が家光の気に入り、時服十領を拝領。(『寛政譜』)
徳川実紀の記述では、家光が品川に出かけたのは2月25日なので、翌日になって褒美をたまわったものか?

3月2日、酒井忠勝と松平信綱・阿部忠秋・阿部重次に面命。(『実紀』)
3月10日、松平信綱・阿部忠秋・阿部重次に雁一隻ずつ給わる。
3月19日、水戸邸へ。"其事は秘して伝へず"。(『実紀』)

4月1日、徳川義直が参府したため、慰労の使いとなる。
4月2日、徳川頼宣が参府したため、慰労の使いとなる。
4月21日、四男・信定が従五位下伊勢守に叙任。
この日、世嗣・家綱の元服にあわせて、家綱付きの者たちに叙爵あり。
4月23日、家綱、元服。老臣一同を始め五位以上の者が参列。信定が稚刀の役をつとめる。
4月29日、信綱、日光へ巡察にゆく。下記の記事から、5月12日までには戻ってきたことになる。

5月12日、松平信綱を上使として、上杉定勝が帰国の暇を賜る。(『上杉家御年譜』)
5月14日、松平信綱をもって、幕府より松平伊予守忠昌(結城秀康の次男)の病を問う。(『実紀』)
5月18日、松平正綱、日光山の経営の件で、江戸に呼び返される。(『実紀』)
5月20日朝、家綱の元服が無事すんだことを賀して、松平信綱・阿部重次・酒井忠清が、保科正之のふるまいに招かれる。(『会津藩家世実紀』)

閏5月15日、信綱、再び日光へ。(『実紀』)
閏5月19日、日光より帰謁。(『実紀』)

6月13日、老中三名の連署で、浅野長直の赤穂移封を命ず。(『赤穂市史』)
6月17日、日光にいる松平正綱・太田資宗に、正遷宮の後すみやかに江戸に戻るよう、使いが出される。
6月19日、酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次に面命あり。(『実紀』)
6月20日、信綱、魚を拝領。
6月22日、正綱、日光より帰る。
6月25日、信綱、越前福井藩主・松平忠昌の病気見舞に赴く。8月1日病死、49歳。(『実紀』)
6月27日、正綱と太田資宗、日光造営の功で時服十領・白銀五十枚をたまわる。(『寛政譜』)

7月20日、正綱、風雨のため日光へ巡検に赴くよう命ぜられる。(『実紀』)

8月12日、家光、松平信綱・林道春を召して議する。(『実紀』)
8月24日、信綱、増上寺に代参。

10月16日、正綱、日光へ。(『実紀』)
10月18日、信綱、尾張邸・水戸邸へ赴く。(『実紀』)
10月19日、松平忠昌の遺領相続の件で、酒井忠勝のもとへ松平信綱・阿部重次が向かい、万千代丸・家臣を集めて仰せを伝える。(『実紀』)
10月21日、万千代の家督相続の御礼として、将軍および閣僚に贈物がなされる。信綱へは"御脇差古安吉・江之口御壺"が送られたという。(『国事叢記』)

11月11日、正綱、酒井讃岐守忠勝らとともに日光へ。(『実紀』)
11月13日、このころ庄内藩の家中32名が退散を命じられる。退散を命じられたうちの、高力喜左衛門・石原内記・高力喜兵衛・石原平右衛門が伊豆守家来・石川作右衛門宛に訴状を提出。"只今宮内家中一言物申儀も不罷成候"と窮状を訴える。(『鶴岡市史』)

12月8日、尾張宰相光友に使いする。(『実紀』)
12月10日、沢庵宗彭が重病のため、将軍家光より松平信綱をもっておたずね有り。沢庵は翌11日、没。(「東海和尚紀年録」)
12月13日、信綱、尾張邸・水戸邸へ。家綱の病が回復したことを伝える。(『実紀』)

この年、輝綱の二男・惣左衛門、誕生。(慶安2[1649]年12月6日早世)
松平正綱と関兵部少輔、日光輪王寺三仏堂再興の惣奉行となる。(輪王寺 旧記)


正保3[1646]年 五十一歳

この年に柳原で中屋敷を構える。4,611坪。享保5年4月29日まで存続。

1月8日、将軍家光の第四子・徳松(徳川綱吉)、誕生。

2月8日、松平信綱・阿部重次・小出吉親・松平勝隆に面命あり。(『実紀』)
2月10日、正綱、日光へ。
2月13日、諸老臣に面命あり。"尾水両卿へも松平伊豆守信綱。阿部対馬守重次もて仰せつかはさる旨あり"。(『実紀』)
2月15日朝、松平信綱・阿部重次の両名と家光、密議。(『実紀』)
2月24日、信綱、増上寺へ代参。

3月25日、井伊直孝・松平信綱・阿部重次に面命あり。

4月3日、信綱の実父・大河内久綱が逝去(77歳)。
喪中、川越城に赴く。
養父・松平正綱が使者として川越に至り、精進をとくべき旨を伝える。
4月25日、忌御免。

7月1日、家臣の松平八右衛門忠勝が死去(56歳)。(大河内家譜 別録一)
八右衛門忠勝は、寛永4年より仕えた。
7月9日、松平信綱・松平乗寿の両名を上使として、前田利常に帰国の暇があたえられる。(『加賀藩史料』)
7月20日、輝綱夫妻が一橋の屋敷から柳原の屋敷に移り住む。(『大河内家譜』)

8月6日、正綱の娘・榊原越中守照清妻、没。(大河内家譜 支流譜巻第一)

11月11日、松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の三老中に上意があり、牛込済松寺の寺地に大橋立慶(隆慶)屋敷を加えることとなる。(済松寺文書)

12月5日、大河内久綱の養子、又兵衛重綱が久綱の跡を継ぐ。(『寛政譜』)
『徳川実紀』には12月9日の条に記載されている。
12月7日、輝綱の正妻・法覚院(板倉重宗の八女)が死去。後に十一女を後妻として迎える。
12月14日、徳川頼宣が病臥のため、松平信綱をもっておたずね有り。(『実紀』)
12月17日、正綱、日光へ。(『実紀』)


正保4[1647]年 五十二歳

1月22日、尾張光友の病を問う。(『実紀』)

2月1日、正綱、酒井讃岐守忠勝とともに、翌年の家康三十三回忌の準備を拝命。(『寛政譜』)
永井尚政・土井利隆の両名に、翌年の秀忠17回忌の準備を信綱に諮って進めるよう命ぜられる。(『実紀』)
2月7日、酒井忠勝・松平信綱・阿部重次と家光が会議。(『実紀』)
2月24日、信綱、増上寺へ代参。
2月27日、正綱、(24日に)日光に大風があったため、出張することとなる。(『実紀』)

3月2日、酒井忠勝・板倉重宗・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次と家光、密議。(『実紀』)
3月6日(1647.4.10)、オランダ人の元に通詞・伯左衛門が、信綱から「書状で注文があったガラス製品」をとりにくる。書見用眼鏡二個を渡す。奉行は他の高官達も用いるので多く輸入するようにと商館長に注文をつける。(『蘭館』) 慶安2[1649]年12月10日の記事も参照。
3月8日、牧野信成の病を問う使者となる。
3月11日、松平正綱と伊丹康勝、営中で雁を給う。(『実紀』)
3月21日、牧野信成、大病により、松平信綱・阿部重次が見舞にゆく。
3月26日、信綱、雁を拝領。

4月1日、酒井讃岐守忠勝と松平信綱の連名で、宗義成に朝鮮から大唐の情報を収集するよう要請。
同日、信綱から宗義成に宛てた書状(筆跡は自筆と思われる)で朝鮮からの情報収集に励むよう念を押している。
4月11日〜14日、川越藩騎西領の検地を実施。安松金右衛門が検地に参加。(騎西町史所収「内田ヶ谷村屋敷検地帳」)
4月23日、正綱、日光より帰る。奉幣使の接待のため日光に出張しているが、出発日は不明。(『実紀』)

5月14日、地震があったため、正綱が日光へ巡察に赴く。(『実紀』)
5月19日、正綱、日光より帰る。
5月24日、信綱、増上寺へ代参。

6月3日、徳川義直、にわかに中風を発病し、松平信綱をもって問わせられる。
6月4日、朝、信綱が幕府の医者達を引き連れて徳川義直のもとに赴き、治療を議する。
6月5日、信綱、徳川義直の見舞に赴く。
6月12日、輝綱の長女・布宇が夭折(5歳)。
6月26日、正綱、日光へ。

7月5日、一万五千石加増、都合七万五千石となる。
7月7日、尾張邸への使者をつとめる。
7月16日、長女・千万姫が死去。

8月1日、加増の御礼の拝謁。御太刀馬代黄金十枚綿百把献上。(『大河内家譜』)
8月4日、家光三男・亀松、夭折(3歳)。
8月21日、小堀政一(遠州)の遺領相続の申渡しが、山吹の間でなされる。酒井讃岐守忠勝・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が列座。(『幕府日記』)
8月26日、正綱、日光へ。(『実紀』)

9月13日、雁および菓子・茶入・茶杓を拝領。(『寛政譜』『大河内家譜』) 実紀に該当記事なし。
9月28日、溝口信濃守(重雄)と松平正綱女の縁組が仰せ出される。(『幕府日記』)
慶安2[1649]年5月12日、慶安3[1650]年5月15日の記事も参照。

10月17日、千万姫の舅・酒井宮内大輔忠勝が病死(54歳)。
10月23日、正綱、日光より帰る。(『実紀』)
10月26日、信綱、雁を拝領。

11月8日、尾張邸・水戸邸への使者となる。(『実紀』)
11月14日、大坂城代・阿部正次、卒。
11月15日、信綱の名義で外田ヶ谷村年貢割付状が発行される。(『騎西町史』に収録)
11月、川越藩騎西領の検地が実施される。安松金右衛門が検地に参加。(騎西町史所収「中ノ目村検地帳」)
11月27日、綱吉の髪置のとき、正綱が白髪をたてまつる。

12月8日、家光と酒井忠勝・松平信綱、会議する。(『実紀』)
12月19日、二の丸にて酒井忠勝・松平信綱・朽木稙綱に面命あり。(『実紀』)

この年、正綱が病気のため、阿部忠秋・阿部重次が上使として見舞う。(日付不詳)


正保5[1648]年 五十三歳

1月4日、井上正就正室・市川氏が死去。輝綱ら兄弟の母方の祖母にあたる。
1月15日〜27日頃、台徳院殿(秀忠)十七回忌の法要が行われ、奉行を務める。
法要の終了後、国吉の刀を拝領(『寛政譜』)。『徳川実紀』閏正月十日の条に、"御法会にあづかりたる輩。金銀褒賜せらるゝこと若干なり"とあるのがこれか?

2月3日、松平信綱・松平乗寿を上使として、島津光久が帰国の暇をたまわる。(『旧記雑録追録』)
2月4日、正綱、雁を賜る。(『寛政譜』)

2月15日、改元され慶安元年となる。


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