【松平信綱の家臣団】

家臣団の中でも上位であった和田家・深井家は代々家老職に就いていることが多いが、固定というわけでなく、家と役職の結びつきは比較的流動的である。家臣団の編成を総括的に知る史料としては、万治元[1658]年の分限帳、及び「従古代役人以上寄帳」(いずれも『川越市史』に収録)がある。
平林寺の歴代藩主の墓域に有力家臣の寄進した石灯籠が並んでおり、家臣団の動向がうかがえる。
信綱の五男・信興を祖とする高崎藩の家中にも深井・岩上・遊佐(ゆさ)・長坂、等、川越藩の家中と重複する名字が散見される。
『本藩高士略伝』(本藩=三河吉田藩)という家臣の列伝があるが、安松金右衛門の項を除いて活字化はされていない模様。

松平家の石高の変遷から、忍城主時代からの家臣団と、川越城主となってから出仕した家が半々ぐらいに存在していたと思われる。(忍城主=三万石→島原の乱→川越城主=六万石→七万五千石)
「崇岳君言行録」に「有馬の陣(島原の乱)に従軍した家臣の家が継嗣なく断絶してしまい、松林院(信綱)様に申し訳ない」云々、という記述があるところからして、「忍城主時代からの家臣」「川越城主となって以後の家臣」という意識が家中にあったのだろう。
「崇岳君」は七代目藩主・信明(のぶあきら)。

川越領内の触書はおおむね和田理兵衛・深井藤右衛門・岩上角右衛門の三名の連名で出されており、この三名を中心に運営されていた。

下記の表の年齢、石高は主に万治元[1658]年の分限帳による。

和田理兵衛元清
(1582?-1667.3)
二千石、筆頭家老。史料によって"理兵衛" "利兵衛"二通りの表記がある。寛永10[1633]年〜万治2[1659]年、家老職。『白石茂兵衛覚書』『榎本弥左衛門覚書』等に登場。島原出陣の時点では八百石。寛文4[1664]年、信綱の三回忌に寄進した石灯籠が平林寺にある。寛文7[1667]年没、戒名は和光院殿心誉宗也居士。墓碑は川越市内の蓮馨寺(れんけいじ)にある。娘が大河内一族の永綱(伊奈氏の配下)に嫁いでいる。
分限帳に「本国 大和狡川、生国 山城甑原」とあるが、正しくは「狭川(さがわ)」「瓶原(みかのはら)」。木津川流域の土豪で、16世紀後半ごろに「瓶原七人衆」と呼ばれたうちの一つが和田氏である。
和田太郎兵衛理兵衛元清の子。島原の乱で、父・理兵衛とともに従軍していたことが、土佐山内家の記録に見える。当時、父とは別に二百石を給されていた。和田家の二代目は理兵衛元重で、天和3[1683]年に家老職についているが、活動年代から別人とみるのが自然であろう。
深井藤右衛門吉成
(1627-1688.9.7)
千五百石、家老。松平信綱の母方の従弟にあたる。深井一族の項に別記。
岩上角右衛門持俊
(1593?-?)
一千石、家老。『寛政重修諸家譜』の松平輝綱の項に登場。「従古代役人以上寄帳」には家老への就任を年月不知としている。島原に従軍した当時の石高は二百五十石、家老就任時は六百石であった。島原で、輝綱が抜け駆けしようとしたところを引き留めた逸話が知られる。
二代・輝綱に仕えた頃には稲富流・下館流砲術を極める...とされるが、既に70代であり、年齢的にはどうであろう? 没年ははっきりしないが、寛文4[1664]年3月に平林寺に寄進した石灯籠がある。
松平八右衛門忠勝
(1591-1646.7.1)
『寛政重修諸家譜』長沢松平氏の項に登場。長沢松平氏の出身で、松平正綱の義理のいとこにあたる。寛永4[1627]年正月、松平信綱に仕える。島原に従軍。正保3[1646]年7月1日、56歳で死去。とすると、寛永21[1644]年、川越の豪商・榎本弥左衛門忠重の烏帽子親となったのは忠正ではなく、先代の忠勝とするのが適切であろう。
松平八右衛門忠正
(1630?-1713.1.25)
八右衛門忠勝の子。『榎本弥左衛門覚書』に登場。正徳3[1713]年1月25日、84歳で死去。なので、万治元[1658]年の時点で数え二十九歳のはずであるが、活字化された分限帳には二十五歳とある。活字化の際のtypoなのか、原文が誤っているのか、どちらだろう?分限帳および大河内家譜 別録一によると相州生まれなので、父・忠勝はそのころ信綱の領地であった相模国にいたことになる。(寛永11[1634]年生まれでは、信綱が忍城主になった一年後であり、不都合。寛永7[1630]年生まれとすべき)
…と書いたのだが、寛永16年まで忍藩領の一部が相模国にあり、松平八右衛門父子がいても矛盾はないことになる。(2004.1.12追記)
石川作右衛門景盛寛永10年より家老。『榎本弥左衛門覚書』の記事から、江戸家老として藩邸に詰めていたようである。万治3[1660]年の頃には二代・石川作右衛門景隆が「家老末」となっている。
小沢仁右衛門一幸家老。寛永20[1643]年、信綱の上洛に随行する。明暦年間の武鑑に、和田理兵衛と共に松平家の家老として名が挙げられている。
篠田九郎左衛門寛永11[1634]年12月、国書偽造事件の調査のため、対馬に赴く。オランダ商館の記録の中に、"伊豆殿の用人、シモンド・クロゼイモン殿(Simondo Croseymondonne)"に贈り物を用意した記載が見える。島原に従軍した時点では三百石。
大島左源太豊長万治2[1659]年三百石で徒大頭となる。「信綱記」に延宝5年の大島豊長の署名がある。「耶蘇天誅記」に、島原の乱の負傷者として大島左源太の名が見える。
尼子八郎兵衛子孫が断絶しており、実名は不明。寛永15[1638]年2月21日の晩、(島原の乱で)一揆勢の夜襲があった際に、一人をつき伏せる。万治3[1660]年11月、東叡山大猷院殿御霊屋が落成したため、工事の監督にあたっていた一人である尼子が銀二十枚時服三羽織を拝領している。
長坂平右衛門宗辰『榎本弥左衛門覚書』に、万治二年 "卅五計ニて年寄(家老)ニ被為成候" と記事がある。寛文12[1672]年2月21日、松平信輝が三代目の藩主となって江戸城に登城した際に、平右衛門も将軍家綱に拝謁した。
『日本偉人言行資料』所収の「先哲叢談」長坂円陵の項に、長坂家の来歴に関して触れられている。それによると、宗辰の祖父・宗成は鳥居元忠が伏見で戦死したときに討ち死にしたという。宗成-宗勝-宗辰-宗長…と続き、宗長は高崎藩に家臣として入った。円陵は宗長の孫。
「鳥居家中興譜」によると、慶長5[1600]年伏見城で討ち死にした鳥居家家臣として、長坂喜右衛門・長坂茂右衛門・長坂源助があげられている(「鳥居氏先祖留書」は源助のかわりに源六郎としている)。
天正10年頃、(本能寺の変の後)徳川家康から鳥居元忠に三十騎が附属され、その中に長坂三十郎という者がいた。信綱の祖父・大河内秀綱の姉が長坂家に嫁いでいるが、長坂三十郎と秀綱の姉婿の関係は、手持ちの史料ではいまひとつはっきりせず。
西村孫次右衛門為重万治3[1660]年、百五十石をもって家老となる。為重は西村家の三代目。寛文10[1670]年、輝綱の六男・輝貞の袴着の祝いにおいて、着用の次第をつとめる。寛文12[1672]年、長坂平右衛門とともに家綱に拝謁した。
遊佐将監重成
(1588?-1668)
川越市内の蓮馨寺(れんけいじ)本堂脇に、遊佐将監(ゆさ しょうげん)が没後にのこした地蔵が祀られている。この地蔵が奇跡を起こすというので、"遊佐地蔵"とか"将監地蔵"と呼ばれて信仰を集めてきたそうである。「従古代役人以上寄帳」によると、寛永八年に四百石で者頭、寛文三年に五百石で籏奉行、と見える。
小畠助左衛門正盛丹波の出身。先祖は丹波の土豪で、明智光秀が丹波を攻略した際、明智光秀に帰属。
信綱が仕事上の指示を与えた直筆メモが小畠家に伝えられ、数十枚が現存する。"右ノ書付等小畠助左衛門方ナドニハ今ニアルナリ"と「事語継志録」に記す。
平林寺に安松金右衛門と並んで墓がある。
柳本五郎左衛門元は寺沢堅高の家臣。島原に参陣。その後、松平信綱の家臣となる。そのとき、既に三田五郎左衛門という者があったため、杢之丞と改めたという。六代目以降の子孫は再び五郎左衛門を称している。万治元年の分限帳にある柳本九右衛門は二代目。
石川理左衛門唐津藩寺沢家の旧臣。姓は「いしこ」と読むらしい。正保4[1647]年に寺沢家が断絶した後、柳本や石川らが松平家に再仕官している。
大津勘兵衛寺沢家旧臣。元の名は勘左衛門といい、百五十石で再仕官の後に勘兵衛と改めた。寛文3[1663]年、二百石で使番となる。
沢木弥兵衛寺沢家旧臣。三百石で松平家に再仕官。
長谷川源右衛門遂能
(1595?-?)
諱の読みはどう呼ぶのだろうか? 『榎本弥左衛門覚書』に登場。島原に従軍し、日記を残す(日記の一部は『原史料で綴る天草島原の乱』に収録)。後に四百石、川越の町奉行。その後、子孫の代に断絶している。
安松金右衛門吉実
(1611-1686.10.27)
玉川上水・野火止用水の開削で知られる。「本藩高士略伝」に、とりあげられている(『新座市史』に収録)。正保元[1644]年、幕府代官・能勢四郎右衛門の肝煎で召し出される。正保4[1647]年ごろには川越藩騎西領の検地に参加し、その後も各所の検地に携わっている。はじめ百俵、慶安元[1648]年、知行百石にあらためられる。さらに二百石をもって郡代となるが、年月は不詳。貞享3[1686]年没、戒名は糸洞院殿欣誉浄秀居士。
安松金太夫吉茂
(1615-1668.4.19)
安松金右衛門の弟。慶安3[1650]年頃から仕え、七十石で代官をつとめる。
中沢弥兵衛農作の技術指導を担当。明暦3年、川越領内で発布された条文では楮(こうぞ)や漆の栽培などの技術指導を中沢弥兵衛から受けるように、とある。
田中与右衛門寛永10年から16年にかけて、相模国内の松平家所領を支配したという。慶安元年3月には、川越藩領の総検地に携わる。榎本弥左衛門覚書にも名前あり。ただし、分限帳に該当人名なし。
柴山新次郎重吉
(?-1640.8.4)
もとは信綱の実父・大河内久綱の配下。羽生市内の岩松寺で育ち、久綱が巡検にきた際に見いだされたという。久綱のもとで、寛永8年8月に羽生、寛永11年7月に騎西の検地に携わる。その後、松平家の家臣となった。寛永17[1640]年8月4日没。
新次郎の父・柴山縫殿介は信州生まれ、元和3[1617]年2月13日没。後北条氏の勢力下にあった成田氏に仕えるが、小田原の役で後北条氏が滅亡したため、数年流浪する。
柴山平左衛門
(?-1661.2.18)
新次郎重吉の子。『榎本弥左衛門覚書』承応3[1654]年2月8日の記事に、"芝山(ママ)平左衛門殿、五十計ふとり有" と見える(「ふたりあり」のミスプリか??)。
羽生又左衛門武蔵野の開発に従事。入植者を募るため、自ら大根を馬に積んで出来のすばらしさをアピールしてまわったという。
菅谷喜兵衛
(1594?-1662.10)
元和6年より大河内久綱の配下として仕える。後に、信綱のもとで百石を給される。
菅谷喜右衛門
(1630?-1710)
実父は川越藩士の加藤又左衛門。菅谷喜兵衛の養子として跡を継ぐ。慶安4[1651]年、五十俵で仕える。万治元年時点で六十石。
加藤又左衛門
(1620?-?)
寛文元[1661]年5月、安松金右衛門とともに川越藩領亀窪村の検地に携わる。年齢からすると、菅谷喜右衛門の実父に当たるのはこの又左衛門でなく、先代であろう。
増井初左衛門尉但久寛永17[1640]年、川越の三芳野神社に太刀を奉納。庄内藩の記録(大泉紀年)中、寛永11[1634]年に増井初左衛門の名が見える。所左衛門/初左衛門と混用されており、いずれも「しょざえもん」と読むのだろう。『大泉紀年』の編者は増井を誤って松平正綱の家臣と推定している。島原の乱の折には、江戸で留守をつとめた。
鋤柄孫左衛門直俊川越藩領の常陸府中に赴任していた。元は鳥居家の家臣。保科正之の家臣にも鋤柄一族がおり、その関係で孫左衛門の娘が保科正之の家臣・杉浦七郎兵衛に嫁いでいる。明暦年間の頃に死去。
朝岡武兵衛寛文6[1666]年、輝綱の女・寸和姫の嫁入りについて庄内藩酒井家にゆく。酒井家で三百石を与えられる。延宝3[1675]年2月23日、酒井忠真の袴着の祝いとして妻木太郎右衛門と連名で肴を献上している。子孫が庄内藩の家老となる。
妻木求馬諱不詳。元は毛利家の陪臣であった。『事語継志録』『榎本弥左衛門覚書』『福間彦右衛門の日記(公儀所日乗)』に登場するが、万治元年の分限帳には現れず。 オランダ人が幕閣の大名やその用人に贈り物を用意したリストの中に、"伊豆殿の筆頭書記官、モトミ殿(Motomidonne)"と見えるのが妻木求馬と思われる。
その後、(事語継志餘録によると)子孫は輝綱の女・寸和姫の嫁入りについて庄内藩酒井家にいっている。『事語継志録』には島原の乱直後のエピソードが載せられている。家中に拝借金を必要以上に借りている者がいるのできびしく取り立てるつもりである、と信綱が言ったのに対し、「仰せはごもっともであるが、彼らが無事に戻ったからよいが、もし彼らが皆討ち死にしていたらいかがなされるのか」と諫言。取り立てはなし、ということになった。
※事語継志餘録 = 事語継志録の追補?のような書
妻木太郎右衛門万治元年、二百石・51歳。万治3[1660]年、信綱の大坂出張に随行する。『榎本弥左衛門覚書』に、川越の太郎右衛門のところで妻木求馬の配下に会った、という記事があり、妻木求馬の係累と思われる。寛文6[1666]年11月4日、寸和姫の輿入れに従って、朝岡武兵衛とともに庄内藩にゆく。延宝6[1678]年の酒井家分限帳に「奥方御家老」二百五十石と記載が見える。
奥村権之丞重昭寛永14[1637]年から15[1638]年にかけて、島原の乱に従軍。鍋島大膳宛に軍功を確認する書状を発行している。万治元[1658]年の分限帳に見える「奥村権之丞」は廿六歳、五百石なので「権之丞重昭」とは別人ということになるが、下記の「奥村権之丞時澄」が両者のそれぞれと別人なのか、どちらかと同一人物なのかは不明。
奥村権之丞時澄『寛政重修諸家譜』の松平信綱の項に登場。由比正雪事件のとき訴え出たことで知られる。史料をみると、"権丞"or"権之丞"両方の表記がある。
三上伝左衛門正保2[1645]年、元寺沢堅高家臣の菅善右衛門実知が庄内藩に召し抱えられた際、島原での武功を証明する書状を認める。分限帳には、三上姓はあるが伝左衛門の名はないので、代替わりしたのであろう。なお、菅と共に戦闘に加わっていた柳本五郎左衛門は、後に松平家に仕えている。
堤新五左衛門幸政
(1619?-1693.6.8)
明暦3[1657]年より松平家に仕え、信綱の五男・信興が土浦藩主となった折には、信興のもとで家老を務める。天和3[1683]年の武鑑に、松平信興の家老として名が見える。分限帳に記載された年齢から逆算すると元和4[1618]年生まれとなり、計算が合わないが、しばらくこのままにしておく。元禄4[1691]年、信興が京都で没した際は江戸の留守を預かっていた。この年には六百石を給されていた。翌元禄5[1692]年に隠居。
大河内市郎右衛門信清
(1620-1708.6.19)
大河内久綱の四男で、松平信綱の実弟。『寛政重修諸家譜』に"松平伊豆守が家臣"とあるが、この伊豆守は三代目の信輝。天和3[1683]年、松平信輝に仕える。
滝沢大右衛門某曲亭(滝沢)馬琴の先祖。松平家に仕え、その後、信綱の六男・頼母堅綱に仕えたという。万治元年の分限帳には該当する記載が見つからない。

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