慶安元年〜慶安三年(川越藩領総検地〜養父正綱死去〜湯治)

松平信綱 年譜・十二

慶安元[1648]年 五十三歳

慶安元[1648]年、川越藩領の総検地を実施。
『鶴ヶ島町史』近世資料編にこのときの検地帳が大量に収録されている。
安松金右衛門の名が検地帳に見え、左端に名前があるところをみると、当時中堅家臣団の中でもそれなりの地位にあったと思われる。

4月上旬、家康の三十三回忌準備のため、松平正綱が太田資宗とともに日光へ赴く。
4月13日、将軍家光が日光に向けて出発。信綱・輝綱も供に加わる。
4月16日午後、日光到着。酒井忠勝・松平正綱らが出迎える。
4月17日、家康の三十三回忌行事に信綱・正綱も参列。
4月19日、家光が奥院に参拝し、酒井忠勝・松平正綱が先導。
4月20日夜、家光、酒井忠勝・松平信綱の両名に江戸への帰還を告げる。正綱はなおも日光に留まるよう命を受ける。
4月21日、家光が日光を出発。正綱と、同じく日光残留の酒井讃岐守忠勝が見送りに出る。
4月23日、家光が江戸に到着。

5月5日、正綱に、もうしばらく日光にとどまるよう命ぜられる。(『実紀』)
5月21日、"為上使松伊豆殿御出、銀子御袷拝領…"。(『池田光政日記』)
翌日の徳川実紀の記事に、池田光政が帰国の暇をたまわったという記述あり。
5月22日、崇源院殿(秀忠夫人)二十三回忌の法要を(9月に)増上寺で行う奉行を拝命。

6月13日、尾張・紀伊・水戸邸へ使いする。
6月15日、"松平右衛門太夫去月(六月)十五日より食傷御煩被成候医(ママ)と御本復候而同廿ニ日下屋敷へ御出御帰宅被成目まひ其儘御死去之よし"(『山内家史料』)
6月17日、阿部忠秋・阿部重次・松平信綱の連署で、浅野長直宛に築城許可が出される。(『赤穂市史』)
6月22日、養父・松平正綱、死去(73歳)。香資銀百枚を賜る。(徳川実紀には記事なし)
喪中、川越城に赴く。その後、井上政重が上使として川越に来訪。即日参府。
6月24日、家光の五男・鶴松が病気のため、この日以降諸大名が連日登城。(『実紀』)
6月26日、まだ江戸にいたらしい?
前後の状況から、〔7月3日頃川越へ→7月5日または6日頃江戸へ〕というパターンと〔6月24日川越へ→6月26日夕方帰還〕というパターンが考えられそうであるが、決め手に欠ける。(正綱は日光滞在中に死去しているので、江戸に知らせが到達するのは6月23日午後以降であろう)
同一の日付で、信綱の署名のある奉書とない奉書の両方が発給されており、検討課題としてあげておきたい。
7月2日、鶴松、一時快方に向かう。
7月4日、鶴松、急逝。
7月11日、正綱の遺領を信綱の領地に併せて継ぐよう、将軍の内意があったが、信綱はこれを辞退。このとき(またはそれ以前か?)大河内姓に復すことを打診するが、家光の特命で引き続き松平姓を称することとなった。
7月15日、増上寺へ使いする。
7月20日、松平隆綱(=正信)、父・正綱の遺領二万石余を継ぐ。弟・正朝に新墾田をあわせて三千石を分与する。(『寛政譜』)
7月23日、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次らが家光の御前で密議。(『実紀』)

8〜9月頃、嫡男・輝綱がふき出物の治療のため、相州塔沢温泉(または熱海温泉ともいう)に浴する。

8月3日、太田資宗・杉浦正友に、三河鳳来寺の地形をおたずねあり。酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋が同座。太田・杉浦の両名は6月に現地に出張している。(『実紀』)
8月14日、信綱、上使として松平大和守直基の病気を見舞う。(『兵庫県史』史料編所収「結城松平家譜」)
8月15日、この日も松平直基を見舞う。直基は同日死去。(「結城松平家譜」)
8月17日、直基の子・直矩の元へ、弔問の上使となる。(「結城松平家譜」)
8月20日、丹波福知山城主・稲葉淡路守紀通、自殺。
8月22日、稲葉紀通の様子がおかしい、と上方より通報があり、釈明を求めるため18日頃、幕府より稲葉を江戸に召喚する。この時点では、20日の稲葉自殺の報はまだ江戸に届いていない。(8月22日付・輝綱宛 信綱書状)
8月25日、"淡路事、去廿日ぢがい(自害)仕候由申来候"。(8月25日付・輝綱宛 信綱書状)
8月27日、輝綱宛の書状中で、今の湯があまり効き目がよくないようであれば、別の湯に赴いてはどうか、と述べている。(輝綱宛 信綱書状)
8月30日、面命あり。(『実紀』)

9月5日、崇源院法会の準備のため、増上寺に向かう。
9月11日、崇源院殿二十三回忌の法要中、増上寺に天樹院(千姫)が詣でる。信綱も寺へ赴く。(『実紀』)
9月18日、隆綱、正綱の遺物を献上。(『寛政譜』)

10月1日、口中痛につき不出仕。(『大河内家譜』) 10月8日の実紀の記事は眼疾としている。
10月6日、新番頭・曾我太郎右衛門、見舞いに遣わされる。(『実紀』)
10月8日、内田信濃守正信が見舞いに遣わされる。(『寛政譜』『実紀』)
10月14日、出仕。(『大河内家譜』)

12月13日、家光が西丸にて家綱の御殿建造の地を巡察する。閣僚一同に御酒を賜る。
12月25日、家光が狩りで得た白鳥を家綱へ贈り、信綱が使者を務める。
12月27日、四男・伊勢守信定と土屋民部少輔利直女が婚約。(『大河内家譜』)
12月30日、義弟(正綱の次男)・隆綱が従五位下備前守に叙任。(『寛政譜』)


慶安2[1649]年 五十四歳

1月25日、三芳野天神縁起を奉納。

2月、"慶安触書"が発布された、とされるが.......。当時の写しが現存しないことや、発布の経緯が全く不明なことから、存在そのものを疑問視する向きもある。最近は教科書でも但し書き付きで掲載しているようである。
2月26日、本多彦八郎助久の妻(信綱の実妹)、没。忌中、平林寺に参詣。このころはまだ、平林寺は岩槻にあった。

3月5日頃、江戸に帰還。(『大河内家譜』)

4月10日、稲葉八左衛門正重妻(正綱の娘)、没。(大河内家譜 支流譜巻第一)
4月、四男・信定が世嗣家綱の日光社参の供をする。(『寛政譜』)

5月12日、溝口重雄と松平信綱の養女(松平正綱の女)の婚礼がある。(『新発田藩史料 溝口家御記録』)

6月、江戸・川越で大地震。

地震がつづくため、非常時の警備体制が規定される。
7月27日、信綱の屋敷は平川門外にあるため、非常時には平川門の警備を担当することとなる。(『実紀』)

8月3日、家光より鶴と、愛用の杖を賜る。(『寛政譜』)
8月13日、前田利常のもとへ使者として赴く。前田綱紀の弟である万菊丸が没したため。(『加賀藩史料』)
8月29日、膝痛のため、熱海に湯治療養の暇を賜る。(『大河内家譜』)

9月8日、四男・秀政(信定)を伴って出発。(『実紀』『大河内家譜』)
9月10日、現地到着。(『大河内家譜』)
9月18日、小姓組番頭・小出越中守尹定が見舞いに遣わされる。(『実紀』)

10月1日、玄猪の餅を拝領。阿部忠秋より、奉書をもって熱海に送る。(『寛政譜』)
10月8日、熱海より帰府。(『大河内家譜』)
10月9日、拝謁。(『実紀』)
10月22日、堀田正盛が病気のため、家光が老臣を引き連れて見舞いに訪れる。皆夜更けまでいたが、信綱は先に帰ったという。(『実紀』)

11月9日、新発田藩溝口家から松平甲斐守(輝綱)にふるまいがある。輝綱より溝口重勝夫妻に贈答を持参する。(『新発田藩史料 案詞帳』)
11月14日、信綱から家臣宛の自筆メモで、千代姫のお歯黒の儀が前日にあったため、樽肴などの祝儀を差し上げるように指示。
11月30日、鴨二を拝領。(『実紀』)

12月6日、輝綱の次男・惣左衛門が早世(5歳)。
12月10日(1650.1.12)、信綱、井上政重を通じてオランダ人に眼鏡数個を注文する。(『蘭館』)。
12月25日、八ツ時分、上使として細川光尚を見舞う。光尚は翌26日晩卒。(『綿考輯録』)
12月27日晩、信綱、細川光尚の子・六丸のもとへ弔問におとずれる。(『綿考輯録』)
『徳川実紀』は28日の条に記しているが、これは引用元の幕府日誌において、27日夜の出来事を28日に記しているからだろう(?)。


慶安3[1650]年 五十五歳

近親者の死去相次ぐ。

3月3日、母方の叔父・藤堂吉親−深井一族の項を参照−、没。(『藤堂姓諸家等家譜集』)
3月7日(1650.4.7)、オランダ人、江戸城へ。将軍家光の代わりに、酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が応接する。(『蘭館』)
3月22日、信綱が茶壺のことをつかさどり、阿部忠秋が刀剣のことをつかさどるよう命ぜられる。(『実紀』)

4月28日、松平信綱・松平乗寿を上使として、池田光政、帰国の暇をたまわる。(『池田光政日記』)
同日、松平信綱・松平乗寿を上使として、島津光久、帰国の暇をたまわる。(『旧記雑録追録』)
4月29日、尾張義直が危篤となり、尾張邸に赴く。(『実紀』)

5月8日、前日に義直が死去したため、尾張光友のもとに使いする。(『実紀』)
5月12日、尾張邸に使いする。(『実紀』)
5月15日、溝口信濃守重雄妻(松平正綱女)没。御側衆をもって御尋、御茶・御菓子をたまう。(『寛政譜』)
溝口家の記録には、お産で母子ともに死去したとある。(『新発田藩史料 溝口家御記録』)
5月16日、喪を除く。
5月30日、三女・久満(秋元隼人正忠朝妻)没(20歳)。御側衆をもって御尋、御茶・御菓子をたまう。

6月1日、喪を除く。
6月4日、次男・吉綱が死去(28歳)。家臣の西野五兵衛・坂部九太夫が殉死。
平林寺には、殉死した二人の墓碑が吉綱の墓石の両脇に配されている。
6月8日、喪を除く。
6月24日、井伊直孝が病気のため、信綱が見舞う。(『実紀』)
6月29日、"外溝にてとらせたまふところの鯉鮒をたまはる"。(『寛政譜』)
家光が漁を見物し、八重洲付近でとれた魚を老臣一同に下賜。(『実紀』)
当時、鮒はけっこう贅沢品の部類だったのだとか。

7月12日、掛軸・茶碗等を拝領。(『寛政譜』)

9月19日、世嗣家綱の西丸移徒を祝賀して道具を献上。(『大河内家譜』)
実紀には18日の条に記される。

10月8日、四男・信定と土屋民部少輔利直嫡女が婚礼。(『相馬藩世紀』)(秀政由緒)
寛政譜の土屋氏の項では、女子は男子の後にまとめて記載されているが、『相馬藩世紀』に"忠胤君ノ御姉ナリ"とあるので、信定夫人は寛永14[1637]年以前の生まれということになる。なお、相馬忠胤は土屋利直の子で、相馬義胤の婿養子。
10月13日、日光山唐門ならびに銅華表造立により、信綱が使わされる。(『実紀』)
10月25日、家綱の西の丸移徙を祝賀する行事がある。信綱から京都より下ってきた公卿に、小袖などを贈る。このことを家臣に指示した自筆メモが残る。
10月、信定が病気により出仕せず。(『寛政譜』)

閏10月25日、対馬藩より、信綱の家臣・妻木求馬に書状を出す。"妻木本馬(ママ)殿江御存寄之儀付手紙出ス"。(対馬宗家文書『江戸藩邸毎日記』)
閏10月頃、信綱の願により輝綱が川越城に赴く。
※家譜にはあるいは(慶安)二年、とあるが、慶安2年には閏月なし

11月3日、川越にて農政に関する条目が発布される。
この種の条目は、万治4[1661]年までで43通ほどが確認されている。

この頃、安松金右衛門の弟・金太夫が松平信綱に仕官。代官として七十石の知行をとる。(『新座市史』)


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