1月3日、重病となった毛利秀就が、松平信綱宛に後事を託す書状を出す。秀就は1月5日萩で没する。(『毛利十一代史』)
2月3日(1651.3.24)、オランダ商館長ピーテル・ステルテミウス、江戸城に登城。酒井忠勝・松平信綱が応対するが、将軍家光は病中で対面せず。(『蘭館』)
2月5日(1651.3.26)、オランダ人が閣僚たちに進物を用意するが、輝綱は父の命により返納。(『蘭館』)
2月6日(1651.3.27)、閣僚の書記官たちに進物。信綱の書記官は「主人の命により」受け取りを拒否する。(『蘭館』)
2月20日、江戸城白書院にて、毛利秀就の子・千代熊丸に遺領相続の申渡しがある。酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が列座、酒井忠勝より申渡しを行う。(『毛利十一代史』)
4月5日、兼ねての約により、上杉家より米沢から届いた榧の木が贈られる。(『上杉家御年譜』)
4月17日、上野東照宮の正遷宮により、徳川家綱が父・家光の代理として赴く。信綱も東叡山(上野)へ。(『実紀』)
4月20日、将軍家光、死去。(48歳)
堀田正盛・阿部重次らが殉死。
堀田は、辞世二首とともに、信綱宛にも一首残している。(慶安日記増補)
出づる日の光りすなおにまつりごと 君の御代をば千代とのぶ綱
6月9日、東叡山の大猷院(たいゆういん)御霊屋の造営を承り、輝綱が監督にあたる。(『寛政譜』)
6月13日、信綱五男・信興が御小姓となる。(『寛政譜』)
同日、義弟(松平正綱の四男)正朝が小姓となる(『実紀』)。ただし、『寛政譜』松平正朝の項には寛永18年8月9日御小姓となったとある。
7月7日、東叡山の家光霊廟造営、
手斧始め。信綱がこれに列席するため、二丸御宮の火の番を松平隆綱(正信)が交替する。(『実紀』)
※手斧始め=建築の開始儀式。
7月、慶安の変。由比正雪ら、幕府転覆を謀る。
徳川実紀は正雪の名字を"油井"と表記している。
7月22日、正雪、江戸を発つ。
7月23日、夜、松平信綱のもとに訴人あり。
丸橋忠弥、捕縛される。
新番頭・駒井右京親昌、正雪を追って駿府に急行。
7月24日、井伊直孝邸にて、松平信綱が会議。丸橋忠弥のことについて談ず。
7月25日午後、駒井右京、駿府に到着。
7月26日早朝、正雪、自害。
7月29日、一味数十名が捕縛される。
松平信綱・松平乗寿(のりなが)・阿部忠秋の三名連署で、一味の金井半兵衛の捕縛を全国に命ずる。
7月30日朝、一味の熊谷三郎兵衛が自害しているのを発見される。
8月3日、金井半兵衛、天王寺で自害。
8月10日、丸橋忠弥、処刑される。
この日、川越藩士「みやけ右近」なる者が丸橋忠弥に荷担した咎で、川越広済寺にて一族ともども切腹。(『榎本弥左衛門覚書』)
8月14日、家臣・奥村権之丞時澄が由比正雪の企てを訴え出た功により、時服三領黄金十枚をたまう。(『寛政譜』)
権之丞の弟・八左衛門某および七郎右衛門幸忠はそれぞれ三百石をもって御家人となる。(『実紀』)
権之丞に五百石を加増というのは誤りで、万治元年の時点で五百石である(「万治元年 松林院様御代分限帳」『川越市史』所収)。なお、奥村権之丞の名前は史料によって"権丞"と、"之"の字抜きで表記されている。
8月16日、五男・信興が従五位下美濃守に叙任。(『寛政譜』)
松平正綱の四男・正朝(信綱の義弟)、従五位下紀伊守に叙任。(『寛政譜』)
8月18日、四代・家綱の将軍宣下。
9月6日、信綱、東叡山の家光霊廟造営を巡察。(『実紀』)
9月19日、東叡山で立柱の行事があり、参列。
9月25日、河越町氷川明神の祭礼始まる。(『榎本弥左衛門覚書』)
その後は例年9月15日となる。なお、現在は10月の第三土・日曜となって続けられている。
10月17日、日光・大猷院殿霊廟に参拝のため、暇をたまう。
10月24日、日光より帰府拝謁。(『大河内家譜』)
11月10日、松平乗寿・阿部忠秋・松平信綱の連署で、浅野長直に城の普請許可が下りる。(『赤穂市史』)
12月14日、伽羅一木を賜う(『寛政譜』)。徳川実紀には該当記事なし。ちなみに『寛政譜』阿部忠秋の項にも、"御前にめされて伽羅をたまふ"とある。