【承応年間(玉川上水〜野火止用水)】
松平信綱 年譜・十四
玉川上水の記録は意外に不確かで、当時の資料は少ない。
承応年間の徳川実紀の記述を見ると、幕府の日記(寛永八年より残る)の散逸・欠落があるのか、御三家の記録からの引用記事が続く。
9月28日、川越藩にて、家中条目が発布される。(『埼玉県史』史料編に収録)
承応事件の直後であり、家中の引き締めにかかったものか。
10月23日、家綱親筆の色紙を賜う。(『寛政譜』)
11月7日、五男・信興が廩米千俵をたまう。
12月2日、宝樹院(家綱生母)、没。
12月5日、宝樹院の柩を東叡山護国院へ送る。信綱、先行する。(『実紀』)
12月6日、護国院へ。
この年、輝綱の次女・諏訪(寸和とも表記)が誕生。母は某氏。
1月13日?、玉川上水の計画が決定。総奉行は松平信綱であった。
4月4日、玉川上水、起工。(玉川兄弟の子孫の書上)
4月15日、六男・堅綱、家綱に拝謁。(大河内家譜 支流譜巻第五)
5月13日、家綱より松竹梅の三字の書を賜る。
6月5日、信綱の願により嫡男・輝綱が相州塔沢温泉へ。肩を痛めた治療のため温泉に浴する。弟の信定が同行。帰り、川越に赴く。(『大河内家譜』)
閏6月5日、酒井雅楽頭忠清が老中に就任。
7月19日、日光の大猷院霊廟へ参拝のため暇をたまわり、時服、羽織、寝衣を拝領。(『実紀』)
行き帰りに(公儀に秘密で)川越に立ち寄る。家臣の
妻木もとめ(求馬)を影武者に仕立てる。(『榎本弥左衛門覚書』)
上述の家譜の記事からすると、このとき輝綱が川越滞在中だったのではないだろうか。
7月27日、日光より戻る。
8月24日、22日に紀伊頼宣の生母が没したため、頼宣のもとへ使者として赴く。(『実紀』)
11月13日、来年正月の台徳院殿(秀忠)二十三回忌法要の奉行を命ぜられる。(『大河内家譜』『実紀』)
11月15日、玉川上水、四谷大木戸まで水が通じる。(玉川兄弟の子孫の書上)
11月17日、増上寺を巡検。
11月18日、20日の家綱の参拝にそなえて、上野へ巡視に行く。
11月20日、将軍家綱が上野寛永寺へ参拝し、信綱が供奉。
この年、六女・八が誕生。母は某氏。(『大河内家譜』)
1月5日(1654.2.21)、午後4時、井上政重の命により、オランダ商館長に随行していた医師ヤン・スチーペルと通詞が「首席顧問官」伊豆殿(信綱)の邸を訪ねる。30年前、左腕の上に倒れて左腕を負傷し、痛みはそれほどではないが、十分には役立たないという。(『蘭館』)
1月6日(1654.2.22)、午後、宿の主人と通詞が(井上政重の命で)信綱邸を見舞う。「一度の塗り薬で全快はしないだろう」と、商館長ハッパルトが記す。(『蘭館』)
1月7日(1654.2.23)、午後、医師が再び信綱に招かれ、膏油を塗る。(『蘭館』)
1月9日(1654.2.25)、夕刻、医師スチーペルが信綱の腕に包帯をする。(『蘭館』)
1月13日、輝綱、父の代理で台徳院殿(秀忠)二十三回忌の法要の沙汰を承る。(『寛政譜』)
1月14日、雁を拝領。(『実紀』)
1月17日、将軍家綱が紅葉山へ参拝し、信興が供奉。
2月27日、黒田忠之が12日に卒したため、信綱がその子黒田光之のもとを弔問する。(『黒田家譜』)
3月7日、輝綱が川越へ赴く暇を賜る。(『大河内家譜』)
4月3日、信綱、佐竹義隆の参観を労う上使となる。(『佐竹家譜』)
4月17日、輝綱、川越から塔沢温泉に。
4月21日、信綱より黒田光之に、22日昼過ぎに酒井忠清邸に来るようにとの書状あり。(『黒田家譜』)
4月22日、酒井忠清邸で、酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱・阿部豊後守忠秋列座の上、讃岐守から黒田光之に相続の仰渡がある。(『黒田家譜』)
5月15日、信綱が病気のため、五男・信興をもって御尋あり。
5月16日、五男・信興を使として菓子一種をたまう。
5月23日、輝綱、帰府。
6月19日、帷子二・匂袋二を拝領。(『実紀』)
6月20日、玉川上水、竣工。(と、される)
徳川実紀の文章を読むと、褒賞が出たのがこの日で、竣工したのがこの日とは限らないようにもとれるが...。
"この日去年命ぜられし玉川上水成功せしにより。其事奉はりし市人へ褒金三百両下さる。"
7月15日、増上寺へ、施餓鬼供養の件で使者に立つ。(『増上寺史料集』)
7月20日、寛永寺へ代参。
7月24日、増上寺を巡検。
7月26日、松平信綱・酒井忠清が黒田光之の襲封祝いに招かれる。(『黒田家譜』)
7月29日、松平信綱・阿部忠秋、御前で雲雀を賜る。(『実紀』)
8月11日、増上寺を見回る。(『実紀』)
8月20日、増上寺を巡検。
8月24日、増上寺の秀忠霊廟の構造が成り、老臣たちが向かう。
酒井忠勝・酒井忠清・松平信綱、未明に増上寺に参詣、"諸事申付之"。(『増上寺史料集』)
8月25日、増上寺へ使いする。
9月20日、後光明天皇、崩御。
10月20日、寛永寺へ代参。
10月25日、炭取瓢を拝領。(『実紀』)
10月30日、色椙原紙六帖を拝領。(『実紀』)
11月18日、嫡男・輝綱が板倉重宗の十一女を娶る。
11月24日、信綱、増上寺へ代参。
11月29日〜30日頃、大雪により川越辺でも被害多数。
11月30日、宝樹院(家綱生母)の法会はじめにより、寛永寺の霊牌所へ代参。(『実紀』)
12月16日、拝領物あり。(『実紀』)
3月17日、紅葉山霊廟へ代参。
3月20日、上野寛永寺へ代参。
3月20日頃、"承応四未三月廿日時分、野火留へ水流れ初り申候"。(『榎本弥左衛門覚書』)
玉川上水開削の功により、三割の分水を許される。
平林寺で、"M"のマークが今も使われるのは、このときの測量を記念したものという。
野火止用水は、昭和30年代まで使用されていたが、一時水流が途絶えていた。
現在では下水道の処理水を流し、水流が復活している。
3月24日、信綱、増上寺へ代参。
3月25〜26日頃、松平輝綱が江戸-川越間の里程を実測。
承応4[1655]年4月13日、改元され明暦元年となる。
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