1月3日、病気。(『大河内家譜』『実紀』)
1月4日、上使美濃守基綱(五男・信興)をもって御尋あり。(『大河内家譜』『実紀』)
1月6日、医者・数原清庵宗和が遣わされる。(『大河内家譜』『実紀』)
1月12日、復帰。(『実紀』)
明暦の大火。
1月18日、午後、本妙寺より出火。後に振袖火事と称される。
1月19日、昼前、小石川より出火。このときの出火により、江戸城が類焼。
夕方、麹町より三度目の出火。
19日深夜、または20日早朝のものと思われる輝綱宛自筆メモには、"…たとへ上屋敷やけ候共戦ぢん(陣)の心…"とある。(埼玉県立文書館所蔵の写真帳による)
毎如申付候平川口
へ心を付たとへ上屋敷
やけ候共戦ぢんの心ニ
番をいたさせ其方
もやしきニい可申候
先可申を 上様ハ◇◇ニ
にしの丸にならせ被成候
以上
松平かいの守殿 伊豆
1月20日、朝、ようやく鎮火。
本妙寺は現在は巣鴨駅の近くに移転している。
境内には明暦の大火の慰霊碑が建つ。
遠山金四郎や本因坊秀策の墓所があることでも知られる。
4月6日、大猷院殿七回忌の法事の奉行を命ぜられる。
法要が終わった後、左文字の刀を拝領。(『大河内家譜』)
4月29日、朝、津田宮内なる八十六歳の老人が松平信綱のもとに来て、秀忠・家光の使いであると称し、虚言を吐く。寺社奉行・松平出雲守勝隆に引き渡される。(『実紀』)
6月12日、評定所に出座するも病気により途中退出。(『大河内家譜』)
6月13日、不登城。菓子を拝領。"持病疝気"と『柳営日次記』に記す。
6月14日、五男・信興が見舞いにつかわされる。
夕方、酒井雅楽頭忠清と阿部忠秋が見舞いにくる。(『実紀』)
夜中、医師・奈須玄竹宗恒がつかわされる。(『実紀』)
6月15日、輝綱が昨日の御礼のため登城。
6月21日、側室・常要院(信綱の五女・百の母)が死去。
6月23日、六女・八が夭折(5歳)。法号は"理證院"。
7月2日、上使・内藤筑後守重種をもって氷餅を賜る。
7月6日、雲雀を賜う。(『大河内家譜』『実紀』)
7月20日、"また松平伊豆守信綱が昨日獻ぜられし奔霄といふ青毛の駿馬。そのほか進獻の馬どもを御覧あり"(『実紀』)
8月8日、登城。"病後初而御目見"(『柳営日次記』)
9月28日、稲葉美濃守正則、老中に任ぜられる。
五男・信興が受領名を美濃守から因幡守に改める。
新老中の稲葉美濃守正則とかちあうための改名で、新受領名の因幡守は"稲葉"との掛詞という。(『高崎史料集』所収「無銘書」)
11月25日、松平信綱・阿部忠秋の両名が雁を二づつ拝領。(『実紀』)