明暦年間(明暦の大火)

松平信綱 年譜・十五
現在は「メイレキ」と呼んでいるが、当時の読みは「メイリャク」だったそうである。(延暦の暦と同じ読み)

明暦元[1655]年 六十歳

このころ、ひでりのため、川越で馬が大量死したという。(『榎本弥左衛門覚書』)

4月24日、信綱、増上寺へ代参。松平隆綱(正信)、日光より帰る。

5月10日、嫡男・輝綱が昨年11月の婚姻御礼のため拝謁、時服六領献上。大河内家譜には御礼がこんなに遅れたのは不審、とある。

6月20日、寛永寺へ代参。
6月21日、輝綱が川越から参府、登城。
6月23日、酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋が帷子・香袋・扇子を拝領。(『実紀』)

7月12日、信綱の姉・長泉院、没(61歳)。子の天野長重が、62歳頃に「父母の寿命を越えた」と回想している。
7月13日、信綱が喪に服しているため、内藤筑後守重種をもっておたずねあり。(『実紀』)

8月24日、増上寺へ代参。

10月、朝鮮通信使、来訪。
10月3日、酒井忠清・松平信綱、朝鮮通信使の元へ上使として出向く。当日は晴れで、両名は黒い公服を着用していたと記録される。(『扶桑録』)
10月20日、寛永寺へ代参。
10月24日、増上寺へ代参。

11月17日、紅葉山へ代参。
11月24日、増上寺へ代参。
11月28日、輝綱、再び川越へゆく暇をたまわる。出発日は不明。


明暦2[1656]年 六十一歳

2月3日、輝綱が川越に赴く。
2月5日、仙波権現の外遷宮が行われる。(『榎本弥左衛門覚書』)
2月19日、信綱、上野寛永寺へ使いする。
2月20日、信綱、寛永寺へ代参。
2月21日、輝綱、帰謁。(『実紀』)

3月1日、川越馬屋にて、馬を去勢。松平伊豆守が唐人より教わったという。(『榎本弥左衛門覚書』)
3月17日、紅葉山へ代参。
3月19日、酒井讃岐守忠勝が大老を退任。(『実紀』)
3月24日、信綱、増上寺へ代参。

4月18日、黒田光之の参観を労う上使となる。(『黒田家譜』)
4月24日、増上寺へ代参。
4月26日、松平信綱を上使として、蜂須賀光隆が帰国の暇を賜る。(『阿淡年表秘録』)
同日、松平信綱を上使として、池田光仲が帰国の暇を賜る。(「因府年表」)

閏4月17日、紅葉山へ代参。
閏4月20日、寛永寺へ代参。
閏4月24日、増上寺へ代参。

5月17日、信興、将軍家綱の紅葉山霊廟参拝に供奉。信綱は予参。
5月24日、信興、家綱の増上寺参拝に供奉。
5月26日、将軍家綱が牛込の酒井讃岐守忠勝邸へ御成り。松平信綱・信興父子も供に加わる。この日、酒井忠勝が致仕。(『実紀』)

6月17日、信綱、紅葉山へ代参。
6月18日、酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が帷子を拝領。
6月20日、信綱、寛永寺へ代参。
6月24日、増上寺へ代参。
6月27日、酒井忠清・松平信綱から増上寺への奉書で、将軍家綱の疱瘡が快癒した祝いとして、遵譽貴屋(増上寺方丈)が観能に招かれる。(『増上寺史料集』)
7月2日、輝綱が川越に到る。(『榎本弥左衛門覚書』)
7月3日、信綱、川越仙波正遷宮により、代参のため暇をたまう。
7月4日、川越到着。"御父子共ニ御座候"。(『榎本弥左衛門覚書』)
同日付で、信綱から仙波東照宮に石灯篭二基を献ずる。後年、輝綱や輝綱の子・信輝も石灯篭を寄進している。
7月7日、"帰府拝謁、箱肴献上之、御刀光包拝戴之"。(『大河内家譜』信綱の項)
7月12日、松平信綱・阿部忠秋が雲雀を拝領。
7月14日、上野寛永寺へ使いする。
7月17日、紅葉山へ代参。
7月24日、増上寺へ代参。
7月28日、輝綱、帰謁。(『実紀』)

8月6日、酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋から増上寺への奉書で、遵譽貴屋が上洛の留守中の火の番について定める。(『増上寺史料集』)
8月17日、紅葉山へ代参。

9月17日、信興、家綱の紅葉山参拝に供奉。

10月20日、寛永寺へ代参。

11月20日、寛永寺へ代参。

12月1日、実弟・忠勝が松平采女正忠節の養子となる。(『大河内家譜』)
12月21日、実弟・松平忠勝が将軍家綱に拝謁。

この年、
青梅市内の窯より八王子石灰を、川越城普請御用として搬出する。(「御用白土石灰旧記控」)

明暦3[1657]年 六十二歳

1月3日、病気。(『大河内家譜』『実紀』)
1月4日、上使美濃守基綱(五男・信興)をもって御尋あり。(『大河内家譜』『実紀』)
1月6日、医者・数原清庵宗和が遣わされる。(『大河内家譜』『実紀』)
1月12日、復帰。(『実紀』)

明暦の大火。
1月18日、午後、本妙寺より出火。後に振袖火事と称される。
1月19日、昼前、小石川より出火。このときの出火により、江戸城が類焼。
夕方、麹町より三度目の出火。
19日深夜、または20日早朝のものと思われる輝綱宛自筆メモには、"…たとへ上屋敷やけ候共戦ぢん(陣)の心…"とある。(埼玉県立文書館所蔵の写真帳による)
 毎如申付候平川口
 へ心を付たとへ上屋敷
 やけ候共戦ぢん(陣)の心
 番をいたさせ其方
 もやしきい可申候
 先可申を 上様ハ◇◇
 にしの丸にならせ被成候
 以上
    松平かいの守殿 伊豆
 
1月20日、朝、ようやく鎮火。



本妙寺は現在は巣鴨駅の近くに移転している。
境内には明暦の大火の慰霊碑が建つ。
遠山金四郎や本因坊秀策の墓所があることでも知られる。

4月6日、大猷院殿七回忌の法事の奉行を命ぜられる。
法要が終わった後、左文字の刀を拝領。(『大河内家譜』)
4月29日、朝、津田宮内なる八十六歳の老人が松平信綱のもとに来て、秀忠・家光の使いであると称し、虚言を吐く。寺社奉行・松平出雲守勝隆に引き渡される。(『実紀』)

6月12日、評定所に出座するも病気により途中退出。(『大河内家譜』)
6月13日、不登城。菓子を拝領。"持病疝気"と『柳営日次記』に記す。
6月14日、五男・信興が見舞いにつかわされる。
夕方、酒井雅楽頭忠清と阿部忠秋が見舞いにくる。(『実紀』)
夜中、医師・奈須玄竹宗恒がつかわされる。(『実紀』)
6月15日、輝綱が昨日の御礼のため登城。
6月21日、側室・常要院(信綱の五女・百の母)が死去。
6月23日、六女・八が夭折(5歳)。法号は"理證院"。

7月2日、上使・内藤筑後守重種をもって氷餅を賜る。
7月6日、雲雀を賜う。(『大河内家譜』『実紀』)
7月20日、"また松平伊豆守信綱が昨日獻ぜられし奔霄といふ青毛の駿馬。そのほか進獻の馬どもを御覧あり"(『実紀』)

8月8日、登城。"病後初而御目見"(『柳営日次記』)

9月28日、稲葉美濃守正則、老中に任ぜられる。
五男・信興が受領名を美濃守から因幡守に改める。
新老中の稲葉美濃守正則とかちあうための改名で、新受領名の因幡守は"稲葉"との掛詞という。(『高崎史料集』所収「無銘書」)

11月25日、松平信綱・阿部忠秋の両名が雁を二づつ拝領。(『実紀』)


明暦4[1658]年 六十三歳

1月15日、オランダ人が江戸城で拝謁。(『実紀』)
この日、御掛物・御茶入を拝領。(『大河内家譜』)
1月17日、信綱、家綱の紅葉山霊廟参拝に供奉。
1月19日、秀忠二十七回忌法要はじまる。信綱、夜着と蒲団を拝領。

2月24日、増上寺へ代参。

3月6日、輝綱の三男・勘解由、誕生。(『榎本弥左衛門覚書』)
3月17日、信綱、将軍家綱の紅葉山霊廟参拝に供奉。
3月20日、上野寛永寺へ代参。

4月20日、信興、家綱の寛永寺参拝へ供奉。信綱は予参。
4月24日、信綱、増上寺へ代参。
4月25日、佐竹義隆の参観を労う上使となる。(『佐竹家譜』)

5月3日、家綱が隅田川で鷹狩りを行い、信綱が供奉する。
5月9日、松平信綱を上使として、蜂須賀光隆が帰国の暇を賜る。(『阿淡年表秘録』)
5月21日、輝綱、神田筋違橋外に屋敷地を賜る。(『大河内家譜』)

6月17日、信綱、紅葉山へ代参。
6月20日、寛永寺へ代参。

7月15日、寛永寺へ使いする。

7月23日、多難だった"明暦"を万治元年とあらためる。


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