背番号11番のエース





 巨人戦のテレビ中継での私の視線は定まっている。そして私の眼は独特のサイドスローをすぐにとらえる。そのうち巨人のユニフォームの背中の「11」が見えてくる。

 あれは昭和63年の秋だった。なぜか中学3年の私は新聞のスポーツ欄を読んでいた。そこには巨人が2連敗していたことをまるで意識せずマウンドに向かって行く斎藤雅樹投手のことが書かれていた。なぜかはよくわからないのだが、その記事がきっかけだった。それ以来私はすっかり斎藤雅樹投手のファンと化してしまったのである。
 何の偶然か、彼はここまで無名の投手だったがこの後大活躍することになってしまった。見ていればミスター完投などというあだ名をつけられ、沢村賞やMVPを受賞し、巨人のエースと呼ばれるようになってしまった。そこまでほとんど表舞台に出て来なかったのに、である。

 斎藤雅樹投手が好きだという人はよく理由を「あれだけの記録を出しながら決しておごらない所がいい」と言うが、私の場合は少し違う。
 まず、プロに入った直後は「ノミの心臓」「投手は向かない」と言われながらも、才能の芽が出てくるまであきらめなかったこと。芽が出てくるまでのいろいろ言われながらの二軍生活はつらかっただろうと思う。あきらめていたら今のエースはなかっただろう。
 それに、私の思い込みかもしれないが他のエースと呼ばれる投手達は調子の良い悪いがそんなに極端に出ないと思う。言い換えればコンスタントによい成績を残す投手が多いと思う。しかし斎藤雅樹投手はそうではない。1年ごとにころころ成績が変わったりする。調子もころころ変わる(その証拠に3年連続の受賞はない)。見ていてハラハラすることも多い。ところがそれにも関わらず何とかやってのける。そこがすごいと思う。確かに波は小さい方が扱いやすいかもしれないが、大きくたってそんなところを生かすことを考える方が重要だしそれをできる人はすごいと思う。

 あれは平成8年の夏のことだった。帯広の親戚の家に行った帰りにいとこを連れて家族でトマムに一泊した。その時父親が例によって野球の番組を入れた。そのうち気がついたが、その試合は斎藤雅樹投手の150勝がかかっていたのだ。そう知った瞬間私は祈るようにしてテレビを見つめていた。いつもなら父親はチャンネルを変えてしまうのだが、この時は変えなかった。いとこがいたから格好つけたのか、私があまりに真剣だったからか、父親の嫌がる声の応援をしなかったからか、それはわからないがとにかく変えなかった。
 結局その試合は中継の時間が切れてしまい、その後巨人のサヨナラ勝ちで斎藤雅樹投手の150勝が決まった。それから2年半たち、あいかわらず調子は良くなったり悪くなったりするが着実に勝ち星を重ねている。それにしたがって、あいかわらず私の応援の声も止まない。

 最近よく思うのだが、私は斎藤雅樹投手を応援しているつもりで(実際しているのだが)実は自分自身を応援していたのではなかろうか。最初の不遇、波が大きいというのは私も同じである。
 最初が不遇でも、頑張っていれば芽が出てくるということ、波が大きいことは悪いことではないことを教えられたのは思えば斎藤雅樹投手だったような気がする。相当幼いころから応援し続け、受けた影響は大きいだろうから。
 残念なことだが、もう投手生活の先は長くないだろう。昨年けがで戦線離脱したときは引退を覚悟した程である。投げ過ぎでかなり負担がかかっているだろうから。
 しかし、今のところまだ投げられそうである。それこそ限界まで、私も吸収を続けながら、斎藤雅樹投手を応援し続けたいと思う。



BGM:G線上のアリア/J.S.バッハ



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