バリアフリーへの道





 私の思い込みかもしれませんが、世間話を聞いているとあちらこちらで「かわいそう」という言葉を聞くような気がします。実を言うと、私はこの言葉を使わないようにしています。それはなぜかというと、「かわいそう」という言葉はねじまがった優越感が見え隠れするからです。

 例えば一般的な生活を送っている日本人の場合、お金の面で貧しい人々を見て「かわいそう」と言う人は多いでしょう。ところがその「かわいそう」という言葉には、「自分はそうじゃない」という意味が含まれてしまっているのです。自分はお金を持っているから幸せだ。あの人達はお金を持っていないから不幸だ。だからかわいそう。そういう意味ではないでしょうか。
 確かに今の日本人の場合、お金を稼ぐことで幸せになるという価値観を植え付けられてしまったためそう考えてしまうのはしかたがない一面もあります。しかし「かわいそう」なお金の面で貧しい人々は、ほとんどの場合それなりに幸せな生活を送っています。だから「かわいそう」なんて余計なお世話ということも多いのです。純粋な意味で「かわいそう」と思うのなら、言葉に出さずに何か手を差し伸べるのが彼らにとっていちばんありがたいことだと思います。

 一般的に「かわいそう」と言われがちな、視覚・聴覚障害者についても同じことが言えます。彼らに「かわいそう」などという言葉をかけるのはかえって心を傷つけるもとです。そうではなく、彼らが心地よく生活できるように気を配るべきでしょう。

 私が大学生の時、同じ授業を受けている学生に全盲の人がいました。
 私はあいさつするにも手を振ったりなど視覚的な動作をしがちなのですが、彼に接するときはできるかぎり声で表すよう気をつけていました。また、つえをついて教室に入ってくるときに進路をさえぎったりしないように気をつけていました。ほんのささいなことですが、そういう「ささいなこと」がバリアフリーへの道なのです。
 聴覚障害者の方だったら、逆に声ではなく目で見て分かる文章や動作などで伝えるよう気をつけるといいでしょう。視覚・聴覚両方の障害者だったら、何らかの形で体に触れる(肩を軽くたたくなど)などで伝えるよう気をつけるといいでしょう。これだけで立派な「バリアフリー」だと私は思います。
 また、もっと進んだことをしたい…というのでしたら、どんどんするべきだと思います。例えば点字の本を作ったりといったような。ただ先程から何度も書いているように、「かわいそう」と言ったり態度に出すのはやめたほうがよいでしょう。

 まあ視覚障害者や聴覚障害者は誰でもなるとは限りませんが、人間ならば誰もが避けられないのが老いです。これも一種のハンディと言えるでしょう。
 お年寄りに「かわいそう」と言ったという話はあまり聞きませんが、馬鹿にした話はよく聞きます。これは「かわいそう」と同じくらい心を傷つけることです。

 「情けは人のためならず」ということわざがあります。このことわざの意味をかんちがいしている人が多いのですが、「情けをかけてはその人のためにならない」という意味ではありません。「情けをかけるとまわりまわって自分に返ってくる」という意味です。
 ですから、お年寄りにはぜひ親切にしてほしいと思います。それは自分が年を取ったときに返って来ます。また、お年寄りが使いやすい「バリアフリー」を今きちんとしておくと、将来自分が年を取ったときに安心なのはわかるでしょう。

 いろいろな意味合いから、いろいろな理由から、ぜひ少しずつでも「バリアフリー」をみんなで進めていくべきだと、私は思うのです。抵抗があるなら本当にちょっとしたことからでいいと思います。大事なのは、その心なのですから。



BGM:帰れソレントへ/クルティス



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