自分らしさを大切に





 趣味として、混声合唱団で歌うようになってからもうすぐ7年になる。最近よく思うのが、歌声というのはひとりひとり違うものだなということである。とはいえ、上手な合唱団の演奏会などを聴いて いるといかにも同じ声の人が歌っているように聴こえることはままあるだろう。だがそれは、同じ声の人が歌っているのではない。たいていの場合は、合わせ方が上手いのである。
 違う人の声を同じにしようというのは、はっきり言って無理な話である。極端な話、透明な女性のソプラノ声と落ち着いた男性のバス声を同じにしようとする人はいないだろう。だからこそパートがあるのであって、まずパートという枠の中で声を合わせていくのである。
 先程書いたように歌声はひとりひとり違う。カラオケが好きな人なら分かるだろうが、声によって上手く歌える曲も変わる。だが、合唱の練習では特定の人の声を押さえるようなことはまずしない。たいていその人の声を生かしながら曲の感じに合わせていく。それが合唱というものではないかと思う。そして、集団の中の「自分らしさ」というものの理想ではないかと私はつぐつぐ思う。

 私は混声合唱を始める前、集団の中では「自分らしさ」をすべて押さえなければならないものだと思い込んでいた。高校までは親を含め周囲の人がほとんどみなそんな感じだったからだ。そして「自分らしさ」というものを出さずにいられない自分自身の性格が嫌だった。あちこちから「あんたみたいな勝手な人は社会で生きていける訳がない」と言われ続けていた。
 しかし、大学にはそういう性格の人はたくさんいた。教室も合唱団もそうだった。しかも単なる自分勝手ではなく、他の人をも尊重した「自分らしさ」の主張だった。それぞれの人がうまく個性を出し 合っている環境に、私はとても魅力を感じた。
 こう言うと、「そんな環境なんかあるわけない」と考える人がとても多い。だが、私は決して不可能なことではないと主張したい。

 この世に生まれ出るのも運命ならば、集団に属するのも運命である。よく「自分がいないほうがこの集団には良いのではないか」と悩む人がいるが、本当の意味でそういうことはあり得ない。みな、いるべくしているのだ。集団に一見反するような個性だって、あるべくしてあるのだ。だから、自分の個性も他人の個性も大事にしてほしい。それが理想的な集団をつくるのだから。

 大学合唱団の後輩たちに「自分らしくあれ」というメッセージを残していったかっての私自身を、いま誇りに思っている。



BGM:アヴェ・マリア/J.S.バッハ



もどる