こころの安らぎ





 私の両親は、世代的なものなのだろうかいつも「外では良くしてちょうだい、家では何をやってもいいから」と言う。世代的なものだという証拠に、同じ世代の人々が似たようなことを言っているのを実際よく聞く。これを言い換えると他人の目のあるところではきちんとしなさい、ないところでは何をやっても許されるからということになる。
 私はずっと前から、この考えはおかしいのではないかと思っていた。誰が見ていようといまいと、良いことは良い、悪いことは悪いのではないかと思っていた。その考えはやはりおかしいらしく、外国人が私と同じようによく批判する。彼らと同じように私も、誰も見ていないところで悪いことをする姿は見苦しいと思う。

 他に親からしつこく言われ続けたことに、「人に迷惑をかけるな」というのがある。これも同じことを言う親は多い。しかし私はこれを一生懸命守ろうとしてノイローゼになってしまった。なぜなら、人に迷惑をかけてはいけないと考えると何もできなかったからである。
 これもどこかおかしい、違う考えがあるのではないかとずっと思っていた。それも正しかったらしく、インドなどでは「人に迷惑をかけるな」という教え方はしない。「人は迷惑をかけるもの。だから他人の迷惑を許す心を養え」と教えるのである。確かにその通りで、自分が迷惑をかけていないと思っていると他人の迷惑が許せなくなる。他人を自分の思いどおりにあやつることはできないから、いつも他人の迷惑にイライラしているという疲れる生活になってしまう。それよりは、「私も迷惑をかけているんだから」と思って他人の迷惑を許すほうがストレスもたまらない。

 また、日本では会社その他で責任を取って自殺する例が後を絶たない。最近ではリストラを苦にして自殺する例も増えてきた。これも外国人からするととても不思議なようだ。「生命は神様からいただいたもの。自分を殺すことは人殺しと同じだ!」「生きることは苦しいこと。どんなにつらいことがあっても、生きていれば何とか乗り越える方法がある」というのが彼らの言い分である。とてもすばらしい考えだと思うが、多くの日本人はそうは思わないようである。自分の命は自分のもの、良くて父親と母親からもらったものだから自分の意志で命を断ってもいいと言うのである。しかしそういうことを言う割には他人の命に無神経な気もする。最近日本では親が子を殺した、子が親を殺したという事件が多発している。

 もちろん日本にしかない良い点というのはあるが、今まで述べてきたことでは日本は悪い点が多い。しかし昔はこれほどひどくなかったような気がする。では、ひどくなった原因は何だろうか。私は、日本が実質的な無宗教国と化しているからだと思う。
 例えば、昔の日本人は「人が見ていなくても神様が見ている」と思って他人の目がないからといって悪いことをするということはなかったそうである。最初に述べた「外では良くしてちょうだい、家では何をやってもいいから」とは逆の考えである。
 また、先程書いた迷惑に関してもそうである。多くの宗教は、人間が一人だけで生きられるとは教えない。みんなの支え合いによって社会が成り立つと教える。そのために「人は迷惑をかけるもの。だから他人の迷惑を許す心を養え」という考えが出てくるのである。

 自殺に関してはもっとはっきりしている。ほとんどの宗教は自殺を罪だと教える。なぜなら生命は神仏より授かったものだからである。そんな生命を自ら断ってしまうのは人殺しと同じなのである。だから先程の「生命は神様からいただいたもの。自分を殺すことは人殺しと同じだ!」「生きることは苦しいこと。どんなにつらいことがあっても、生きていれば何とか乗り越える方法がある」という言い分が出てくるのである。 このように、宗教というのは本来人の道を教えるためのものである。ところが日本では戦争の原因になったとして政教分離の原則ができあがり、それから宗教を信じる日本人は少なくなってしまった。そして宗教というと怪しい新興宗教ばかりがはびこる結果になってしまったのである。人の道を教える宗教が戦争の原因になる訳がない。あるとすれば、人間が使い方を間違ったのである。

 新興宗教は本来の宗教から大きくはずれ、人の道を教えるどころか自ら崩す結果になっている。そんなはずれた宗教でなく本来の宗教が日本にも根付いてほしいと願うばかりである。



BGM:アヴェ・マリア/シューベルト



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