超暇人MSX

哀れな少女か? 商魂逞しいオジサンか?

偽書度50パーセント? 『アンネの日記』

ナチス占領下のオランダ・アムステルダムで、迫害を恐れて隠れ住んでいたというユダヤ人少女のアンネ・フランク(Annelies Marie Frank)が書いたとされる『アンネの日記』は、2度の鑑定で真贋全く逆の結果が出た、いわば シロクロ度50パーセント の本です(えっ、素直に灰色と書けヨだって?)。大手メディア上では完全否定または無視されますが、偽書だとする人がとても多いのです

『アンネの日記』真贋論争の流れ 1)1959年、The Swedish journalのFrio Ord(フリオ・オード)は、『アンネ   の日記』についての2つの論文を発表した。簡単に言うと『アンネの日記』は、   古い引用や詩や文章が文学的に過ぎて、どう見ても13歳の少女には書けないと   いう指摘と、内容が事実に合わないという指摘(他)   このように、文章が良すぎ、編集がヘンだ、文体が違っててヘンだ、から少女が   一人で書いた物とは考えられない、という類の指摘は、この人以外にも米国イリ   ノイ・ノースウェスタン大学のArthur Butz教授、フランス・リヨン大学の文書   鑑定学Robert Faurisson教授、博士号を持つ作家Alfred M. Lilienthal等から、   それぞれ無関係に出されている(肩書きは、文を発表した時点の) 2)こういった論文を受けて、極右の活動家達が『アンネの日記』は贋物だとキャン   ペーンするが、その度に、アンネの父だと主張する権利所有者のオットー・フラ   ンクに(誹謗中傷したと)告訴され、(欧州の通例として、事実の如何を問わず   公の場でユダヤ系の悪口を言うことに対して)半ば有無を言わさず敗訴し続ける。   この間、第三者機関による原稿の真贋鑑定は行われていない 3)エルンスト・ローマーという歴史修正主義者との裁判で   ・日記は全て同一人物の筆跡であると(オットー寄りとされる)筆跡鑑定家が    宣誓して証言。むろんオットーは、終始一貫日記はアンネ一人が書いたと主張                   ↓   ・1978年からの何回目かの裁判で、ついにエルンスト・ローマー側が「原稿    を鑑定せよ」という裁判所命令を獲得。オットーは原稿の提出を拒否したが、    1980年にドイツ連邦刑事局(Bundes Kriminal Amt)員2名が、スイスの    オットー宅に出向き、3冊のハードカバーのノートとバラのページで計324    ページの原稿を鑑定                   ↓    BKAの検査結果    ・4章目の大部分が“ボールペンのインク”で書かれている    ・現存の他のどのアンネ・フランクの筆跡とも一致しない                   ↓     ボールペンはアメリカでは1944年、オランダでは1951年に発売     アンネ・フランクは1944年強制収容。45年に所内でチフスで死亡                   ↓     同一人物が書いた/アンネ・フランクの筆跡とは一致しない/当時オランダ     に存在しないボールペンによって書かれている/ので偽書である?                   ↓   ・オットーは、日記は本物だが、戦後、出版時の自分なりの編集や検閲のために    原稿に手を加えたと主張をガラリと変更!! ますます疑わしくなる 4)オットー・フランクは1981年に死亡。彼の設立した営利組織「アンネ・   フランク財団」が権利を引き継ぎ、裁判は継続。アンネ・フランク展示場があり   そこの管理を任されたオランダは、自国の戦時資料研究所に原稿鑑定を依頼。   再三発表を延期した末、約5年後の1986年に結果を発表    オランダ戦時資料研究所の検査結果    ・ボールペンインクの部分は、ほんの2ページだけで、本文ではない。父親の     証言から戦後に誰かが加筆したものである可能性が高い    ・BKAに、ボールペン書きの部分はどこか質問したが、記録していなかった     BKA局員は、どの部分か答えられなかった                   ↓    ボールペンインク部分は、戦後付け加えたかもしれないが、本物である? 5)現在に至る  

 膨れ上がり、消えない疑惑

日記自身に於いて、  ・その来歴や形態についての報道がバラバラだった   (=所有者が事実を隠した。あえて嘘を言った?)  ・その内容と財団の公式見解(文章)に食い違う所があった  ・内容に大人の(あるいはプロの物書きの)文書臭さがある  ・公開された幾つかの原稿写真が大人の書いた文字に見える  ・公開された幾つかの原稿写真の筆跡が違っているように見える  ・公開された幾つかの原稿写真に編集された形跡がある

から疑惑が生まれましたが、どういうわけかアンネ・フランクの父親オットーは、自ら経営に加わるアンネ・フランク博物館(展示場)ですら「日記」原稿の展示を拒み、原稿を公開せず、1980年に裁判所命令が出るまで第三者機関に原稿の調査鑑定をさせなかったことが、あらゆる疑惑と憶測を膨れ上がらせたのです

日記に疑問を提示した専門家=反ユダヤだと、自動的に却下する(ある意味で、社会的な地位を失わせる)ような、偏った報道をするマス・メディアの対応も、心ある人々の目には却って怪しく映りました

第三者機関が原稿の調査鑑定をしない限り、他の誰にも何の判定も不能ですし、調査のしようもない“大混乱している大戦中の1個人の歴史”ですから、疑えば、指摘された疑惑に応じて新たな理屈やストーリーを付ける、後出しジャンケンのような対応も取れるわけです

しかも、2回目の調査鑑定をした機関が、親アンネ・フランク財団側とも言える事(日本で言うと、大戦中の韓国人少女の「反日日記」が本物か、韓国政府機関に鑑定させるという感じ)、なぜか発表を都合5年程も延期した事(確か何々の検証実験に三年掛かるとか、そういう類の主張だったと記憶?)、その後の版で、唐突に今までに指摘された疑惑の一部に対して否定するような日記の内容が公開され(そんな物が在ったのなら、何故、何年も延々と繰り返された各々の裁判時に、提出しなかったのか?)、『アンネの日記』のページ数がかなり増やされた事、等が、その検査結果に関わらず、その間に何らかの不正行為が行われた可能性も含めて、疑惑をそのままに残しているのです

また、1950年代から舞台劇化、映画化された作品を、その宣伝広告と内容を共に見れば、明らかに『アンネの日記』はシオニストのキャンペーンに利用されていたことが分かりますし、長く主要な版となった55年のフィッシャー版を出版したのは当時(今も?)有名な急進的ユダヤ人団体です。少なくとも日記がベストセラーになった前後の時点で既に、オットーの背後で巨大なグループが動いていたわけです

同一人物? アンネ・フランクの2つの筆跡
アンネ・フランクの筆跡?
上が大人っぽい字の『アンネの日記』原稿。下が13歳っぽい字のハガキ
どちらも1942年という年度と署名がある
上はプロの書き物っぽい。人の勝手だと言われれば、それまでだけど
 
http://www.radioislam.org/annefrank/handwriting.htm
反シオニストのラジオイスラムのページ↑だが、写真自体は欧米の出版物から。
それぞれ筆跡も違う様に見えるし、同じページに後で書き込みや修正が有る

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結局結論は!?

極論的に言えば、この真贋論争は不毛です。現在のどのような科学的な検査でも 「1940〜50年代の内、5年程の期間を限定して書かれた物。一部にボールペン用のインクが使用されている」 という程度しか、結論の出しようがないのです(オランダ戦時資料研究所は42〜44年と断言しているが「オットーの証言を考慮して」である)なぜなら、アンネ・フランク側の人間(父親だけ?)が発見(というか提出)した物以外に、アンネ・フランクの直筆とされる物が存在しないからです。(意味分かりますよね(^^;))

例えば、過去に “「ヒトラーの日記」か何か直筆文章発見! → 贋物でした” という話が何度もありましたが、彼は公の人間ですから、直筆の書類は大量にありますし、行動も相当な部分が分かっているので、キチンと照らし合わせれば、真贋の判定が出来る場合も多いでしょうが、アンネ・フランクはただの1少女ですからネ注1

よって、学校にも行けず(小学校には通ったとされる)何の政治情勢も知らない13歳〜15歳の期間に少女が書いたとされる内容をも含めて、本当の歴史家にとっては全く意味の無い本なのですが、本物であろうと無かろうと、ハリウッド映画の様に、純粋な人の感情に訴えて“大衆ウケするプロパガンダの道具”として大いに利用されていることには違いありません

私は『アンネの日記』を読んだことは有りませんし、読む気も映画を見る気も有りませんが、原稿が本人の書いたものかそうでないのかの他にも、父親(側)の主張以外に何の証拠も無い「日記」当時のフランク家、他の登場人物、いつも聴いたという英国のラジオ放送の内容、隠れ家だった当時を復元したという展示場内部、等々がどこまで事実なのか? 誰にも検証不可能な事が圧倒的に多いわけです

ただし、この「日記」とそれを取り巻く話が本物だとすると、逆に面白いことになります。 現在の欧米の公式見解では、ヒトラーはユダヤ民族絶滅を図ったとされている(に等しい)のに

   ・アンネの父親、ユダヤ人のオットー・フランクは戦中も(少なくとも隠れ住む   までは)ナチ相手にも商売していた  ・何回か泥棒に入られたとあるが、非常にドイツ人を憎む内容の日記であるにも   関わらず、「ドイツ人」や「ドイツ警察」が泥棒に入ったとは書いていない  ・ナチスに対して詐欺を行ったという歴とした罪名を付けられたユダヤ人オットー   の会社兼住宅で、アンネが隠れ住んだという「秘密の別館」に、当局の手が入っ   た後も、戦後まで「秘密の別館」の荷物はそのままである。喧伝されるドイツ   秘密警察によるユダヤ人に対する無差別な略奪などされていない  ・そもそも、平時ではなく戦時中の話であり、国を占領していて地図も建物の図面   も手に入るナチは、配下のオランダ警察を使って一軒一軒しらみ潰しに立ち入り   調査もできただろうし、50軒並ぶ建物は殆ど同じ作りなのだから、改造されて   いれば余計に怪しいわけで、オランダ人から通報があるまで2年間見落し続けて   いた時点で、喧伝されるような厳しい詮議や統制は無かったことになる  ・ナチスに対して詐欺を行ったという歴とした罪名を付けられたユダヤ人オットー   がアウシュビッツ収容所の1年を処刑されず、戦後もちゃんと健康に生きている。   チフスにかかり、アウシュビッツ内の病院に入院し、完治しているから、恐らく   治療を受けているし(治療しないとまず死ぬ)、少なくとも生きていけるだけの   食事が与えられ続けていたことは120%確実である  ・父オットーとは別の収容所に送られたアンネ姉妹や母は、チフスで亡くなった。   何の証拠もなく喧伝され続ける「ガス室」では無い  ・アンネ姉妹は、最初Westerborkへ送られ、44年9月にアウシュビッツへ送られ   12月に遥かに遠いベルゲン−ベルゼンへ送られ、45年3月チフスで亡くなっ   たのだが、殺す目的なら、敵に国を包囲された全面戦争中に、なぜ貴重な燃料を   使ってまで、ユダヤ人を大移動させるのか? 自国民が餓死していく完全な食糧   不足なのに、生かしておくには最低限の食事は必須である  ・「全てのユダヤ人は1943年7月1日までに、ドイツの占領地から追放する」   とドイツの高官が演説したと、1943年3月27日の日記に書いている。   「must be out of the German-occupied territories」=「ドイツの占領地から   追放」であって「根絶」でも「殲滅」でも「抹殺」でも「絶滅」でもないし、   「占領地」から追放であって、「地球上」からではない。英訳版だけどね  

つまり、日記とそれを取り巻く設定が本物なら、オットー・フランク家が受けた処遇は、当時の日本や米国を含む各国が、戦中の敵性国民に対してとった行為、国外退去/決められた場所で働く/収容所に入る/家族を人質に兵となって前線で戦う/と同レベルとなります。『アンネの日記』が本物だとすれば、ナチスやヒトラーはユダヤ民族の絶滅など図っていない事を立証する手助けをしてしまうのです

アンネを収容所に入れたのはドイツ人ですが、アンネを殺したチフスの大流行をもたらしたのが、食糧倉庫とその供給施設、上下水道施設、輸送路、及び製薬工場といったライフラインに対する、英国を中心とした連合国側の故意の体系的な、いわゆる無差別爆撃だったことは万人が認めるでしょう

一般論として

Aという意見とBという意見があって、どちらか正しいか判定不能な場合、大抵のマス・メディアは金と権力の有る側の意見を採用するでしょう。その方が自分達にとって安全で確実ですからね。では今、欧米のマス・メディアを握っているのは誰でしょうか? 欧米の、いや世界の金と権力と軍隊を握っているのは誰でしょうか?

さらに、その金と権力のパワーが、他に対抗するものが無いほど大きい場合を考えてみて下さい。今、現に圧倒的にお金を持っていて世界中の銀行の元締めを本業とし、殆どの欧米マス・メディアを所有し、中東の石油販売権を握り、大国を従え、世界を仕切っているグループなら、存在しなかった人々をも含めて、どんな個人の歴史も偽造出来ますし、どんな偽書でも本物に出来ますし、どんな栄誉でも与えられますし、その反対の事も出来ますよネ

注1.古書類の偽造    例えば、1940年代の紙があれば、当時のインクの成分は分かっているので    それを再現して文章を書いてから、紙に放射線や紫外線や薬品で処理をすると    科学的な方法では判別しにくい物が出来る。そこで、筆跡や内容が重要となる    のだが・・。『アンネの日記』は置くとして、もし偽造に幾らでも大金をかけ    られる大きな組織なら、42〜44年の古い紙を使って(例えば同じ古い本や    古いノートを集めて白紙の部分を切り取り)上の処理をすれば、別のノートや    一冊の本に仕立てる事も、そう難しくないだろう

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参考

「13歳の少女には書けない」に対する一般的な反論  ・リッチなユダヤ系だったアンネ・フランクは、幼少時に、素晴らしい家庭   教育を受けていたのか、又は、ユダヤ系に多い文学の天才だったのだ  ・父親オットー曰く、英国のラジオが「日記を書き続ければ、戦後出版する」   と言ったので、作家志望だったアンネ・フランクは、日記を何回も編集したり   書き直したり、詩を挿入したり、他に短編小説も書いたのだ  ・あるいは父親や彼の助手等が、いくらか編集したり、書き込みを入れたり   したかもしれないが、ほんの少しだけだ

「内容がヘン」だという指摘例  ・何で13歳の子が日記の初めに「我が一族の簡単な歴史」を書かなければ   ならないのか? 自作の詩を挿入しなければならないのか? ドイツ古典   から引用しなければならないのか?  ・父親を含めて全員をニックネームで呼ぶが、ドイツ系、特に当時の上流は   絶対にそんなことはしない。それは、アメリカ人の習慣である  ・ナチによる財産没収を恐れて隠れ住むのに、なぜ自分の会社の上に住むの   か? 一番危ない所なのに。しかも、下の会社の従業員の内、少なくとも   一人はユダヤ人なのに、なぜ普通に勤めていられたのか?

もっと細かい「内容がヘン」だという指摘例  ・ある日突然に、そこに入ることを禁止され、ただのドアが戸棚風のドアに   偽装改造されたことについて、ずーっと会社に務めている従業員は、何の   疑問も感じなかったのか?  ・ある日突然、新しいビル所有者が来て、前の所有者からビルを買ったから   ビル内を見せろと言われて案内し、別館の鍵を忘れたとごまかした。って   売り手も買い手も、事前調査も借り手への通告も無くビルを売り買いする   って、ありえるか? で「鍵無いの、じゃイイや」と言って、建物の半分   を見ないで帰り、その後は見に来ないビル購入者ってありえるか?  ・新しいビル所有者、一緒に来た建築士、また別の消火器点検の作業員等、   普通の灰色のドアから戸棚に偽装されたドアを見て、何とも思わなかった   のか? しかも、皆、質問も無く普通にそこがドアだと気づいてるし  ・「ドイツ人がダビデの星を発明(the Germans who originated the idea   of the star)」し「ユダヤ人に目立つ所に着用を強制した」と、脚注が   あるが、もちろんダビデの星は昔からユダヤの象徴の一つでありイスラエ   ル国旗にもなっているように、ユダヤ人が最も敬愛する紋章である  ・下の会社や隣のビルに人が居る昼間は音を立てられないから、トイレにも   いかず、何時間もじっと座っていた。って、何故わざわざ、人の居る時間   に起きて行動するのか? 夕方に起きて朝から寝れば良いだろうに  ・“良い月を見たいので11時半まで起きていたが、月が明るすぎたので、   窓を明けられなかった”という日の月を調べると、最も遠い半月のころ。   何でそんな時を選ぶか? 月が最も暗い期間なのに明るすぎて??                  :                  :

「内容がヘン」に関する「水掛け論」   例)   朝8時半以降、下のオフィスに従業員がいる間は、音を立てられず、   トイレにもいけなかったと書いてあるのダ                 ↓   でも、昼間に同居人夫婦が怒鳴りあって暴れて大喧嘩したとか、毎晩   バレエのダンスに熱中したとか、ペーターが猫と一緒に部屋中を曲芸   して回ったとか、いろいろ「大きな音の出る出来事」を書いてるよネ                 ↓   だから、オランダ人にバレて通報されたのダ                 ↓   命がけで息を潜めて隠れてるというハナシなのに矛盾してないか??                 ↓               先頭に戻る   公人でも公文書でもない1少女の日記の内容が部分部分で矛盾しようが   史実と違っていようが、非合理であろうが、少女の勝手であるから、内   容がヘンだという指摘は、所詮はこのように水掛け論にしかなりえない。   いや、ホントに「ヘン」なんだけどネ(^^;)   もし偽書だとすれば、ここが製作販売利用している側に於ける『アンネ   の日記』の絶対の強みである。何を書こうがアンネの勝手なのである。   そして、内容が一切保証されなくても、戦中に少女が書いたということ   さえ事実としてしまえば『事実に基づく』と謳えるのである   『事実に基づく』作戦は、マスメディア一般の常套手段であるナ

現在の大手マス・メディア上のボールペン史   ボールペンのアイデアは1884年にアメリカ人ジョン・ラウドが考えた。   彼は1888年に特許を取ったが、当時は技術的に商品化が出来なかった   ハンガリーからアルゼンチンへ移住したとされるユダヤ系のラディスラオ・   ピロと弟が、1938年から特許の切れたボールペンの実用化を研究開始し   1941年に初めの特許申請、1943年に最終的な特許申請をし、19   44年に米エバーシャープ社が特許を買い、商品化したという。今でも欧米   で、ボールペンをバイロウ(=ピロ)と言って通じる場合も有るという??   『アンネの日記』に関連して、証拠を示さずに、アルゼンチンでは1930   年代から普及していたとか、1941年に発売されていた、などと言う人が   大手マスメディアの中にも居る。しかも、それを平気で記事にする。そんな   事を言うから/するから、返ってその「大手」が怪しまれるのに(^^;)   翌1945年10月29日、上記とは別に、米レイノルズ社がボールペンを   発売した。価格は12ドル50セント。今の値段で一本数万円超えるかも?   これは、現在のマス・メディア上では、アルゼンチンのペンをパクったもの   だとされている。しかし、普及したのはこちらのタイプであった   持ち運びしてもインクの漏れないボールペンの登場は、1950年代に   入ってからであり、高級品で無くなるのは1960年代から、そこら辺の   施設に無造作に置かれるようになったのは1970年代からである

大戦時のフランク家とアンネ(公式側)   フランク一族は、ドイツの上流階級のユダヤ人で、家業は銀行、スプリング工場   の経営、咳止めドロップの製造。アンネは1929年誕生。アンネの父親である   オットーは大学時代、当時ニューヨーク最大のデパートを経営する強力なシオニ   ストのネイサン・シュトラウスの息子とニューヨークで共同事業を行っていた。   オットーは父親の死と第一次世界大戦のためドイツに帰国、そして結婚。オット   ーと家族は、1934年オランダ・アムステルダムに、家庭用のゼリー(日本で   言うジャム?)を作る材料の「ペクチン」の工場を購入して引越した   ペクチンは輸血用の造血や傷の化膿止めや食品保存に使用出来るので、オットー   はドイツ軍と1939年から取引していた。40年ドイツがアムステルダムを占   領した後、他のフランク一族はスイスに移住していったが、オットー家は残った。   因みにアンネの母方の一族は38年にアメリカへ移住している   「ユダヤ側」つまり公式側のストーリー続き   1940年、占領軍によるユダヤ系工場没収を恐れたオットーは、工場を雇用者   の名義に変え、41年からは役員も降りたが実際はそのまま経営を管理していた   42年からは、秘密の別館と呼ばれた3つの通りに面し庭の広場を50の住居で   共有する三階建てのビルの中の46uの居住区+オフィス+屋根裏という区画へ   引越して身を隠し、夜間と週末に商売した。44年にオランダ人からの密告を受   けた占領軍は、オットーがドイツ軍との契約で非常に儲かるような詐欺を働いて   いたとして、一家を収容所に入れた。姉妹も母もアンネもチフスで亡くなった。   フランクは45年に解放された   日記に関しては、アンネが42年に隠れ家で書き始め、かなり飛び飛びに44年   まで続けた。45年、解放されたオットーがアムステルダムの住宅へ戻り梁に隠   された日記を見つけたという(又はアンネの友人のオランダ人が、最初の日記を   見つけていて彼に渡したという別バージョンの話がある)   「否定論者」側の主張   ユダヤ系によると、オットー家はドイツでナチスが勢力を増したので、オランダ   に逃げたとするが、それならドイツがアムステルダムを占領する際は、なぜ他の   フランク一族と同様に、海外へ逃げなかったのか? ナチス協力者だったからで   はないのか?   1940年オットーは工場を占領軍に売ったが、経営はそのまま管理し、占領軍   にペクチンを製造販売した。そのため、ナチス協力者として、一部のオランダ人   から憎まれた   42年からは、一部オランダ人の襲撃を恐れて占領軍の管理する住宅に引越して   普通に商売を続けた。44年のオランダ人の密告以下は公式と大体同じ   日記はオットーや協力者が戦後に書いたか、都合よく脚色した物。殆ど外出でき   ない8人が暮らすという建物で、戦後まで誰も日記の存在を知らないなんて、あ   りえない話

アンネが隠れ住んだとされる秘密の別館図(展示場改造後)
秘密の別館
 
↓現在のビル(展示場に改造)の外観↓
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9c/AnneFrankHouseAmsterdamtheNetherlands.jpg
 
当時は50軒の3階建ての同じようなビルが3つの通りに囲まれてコの字型に 並び、コの字の内側は住民の広場になっている裕福な層が住む都心の商業地。 現在は単にビルの並ぶオフィス街らしい。アンネの住んだとされるビルの正面 (図の左端)は、通りを挟んで運河に面している。別館は広場に面していた

オットーは凄く商魂のある男だったようですね? もし私が金持ちで、英語がペラペラで、外国に知人やコネが多くて、自分達に敵対する外国人に、母国でも何でもない今住んでいる国が占領されたら、ある日突然に逃げられないほど状況が悪くなったのでも有りませんし、商売は売り払ってとっとと外国へ逃げます。現に他のフランク一族もそうしています

『アンネの日記』バリエーション(公式以外も含む。*が発売された物)   1944 アンネ・フランクが書いた、及び以前に書いたものを自分で編集した?   1945 オットー・フランクが書き写した?又は書いた?   1945 オットー・フランクと秘書のアイザCauvernが書き直した?   1946 オットー・フランクと秘書のアイザCauvern新しく書き直した?   1946 オットー・フランクと秘書の夫アルバートCauvernが新しく書き直した?   1947 オットー・フランクが新しく書き直した?  *1947 オットーフランクと「検閲者」による書き直し版?オランダで発売された   1949 米国の脚本家マイヤー・レヴィンが全体を書き直した?  *1950 先行ものと根本的に違う(レヴィン版からの)ランバートシュナイダー版        49年発売説もある。ドイツ   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   ↑ここまでは、当時の各雑誌や新聞の記述や各人の見解がバラバラな物↑   ↓ここからは、大体一致しているか、確実な物↓   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  *1953 10月初版、ランバート・シュナイダー版(1952年出版?)        53以降の50年代版より、北欧各国を初めとする翻訳版を発売  *1955 先行ものを幾分取り入れて修正されたフィッシャー版  *1986 ユダヤ主義的な部分他を入れた校訂版(1989年出版)  *1991 86版に性表現部分を入れた   ネットのどこかにあったのを私が訳して手を入れただけなので、全然間違っているかも   しかし、世界で7千万部売ったという戦後の本の来歴がこれほど錯綜してるのも不思議

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大手メディアでは聞けない話

 アンネ・フランクの父、オットー・フランクは、1940年代に知り合ったとされる、米国のユダヤ系劇作家(兼、映画・舞台プロデューサーで、作品は殆どがユダヤ系を支援・応援・支持するもの。ユダヤ人宣伝活動家と言うべきか)のマイヤー・レヴィンから1956年に訴えられ、『アンネの日記』に関して色々な仕事をした代償(映画化や舞台化する際の著作権に対する報酬)としてオットーからマイヤー側に対して、少なくとも和解金50000ドル(現在の数億円程度?)以上が支払われています

 1959年に20世紀フォックスから配給されたジョージ・スティーブンス製作の超大作『アンネの日記』を撮影する際、所有者の許可を受けたジョージ・スティーブンスは、撮影期間の57〜58年中にアムステルダムの「秘密の別館」だった建物を改造したので(戦中の状態を再現したと主張している。つまり、真贋いずれにせよ「日記」に合わせて改装されたワケである)、展示場になる以前に既に建物は戦争中とは違っていたことになります。展示場にする際にも改造したので、現在の建物は元の状態とは全く違っています(公式には、二階に上がれる3つの階段の内、一つを取り払い、もう一つを使用できなくした、他)。なお、撮影の大部分はハリウッドの建物セットで行われたので、映画自体はその恣意的にドイツ人を貶める虚偽の(日記とも違う)内容も含めて何の参考にもなりません。また、この映画は「ヒトラーによる、この少女に象徴されるユダヤ人への迫害が、パレスチナ人が(イスラエルの建国で)犠牲にならなければならない十分な理由である」という様な、シオニスト以外には理解不能な論法の宣伝をされました。

 オットー・フランクは有名な「歴史修正論者」から、当時世界トップの鑑定力があるとされた(部外者の)英国の有名企業に現物を鑑定させたらどうかと、何度もオファーを受けましたが、その度に断っています(その複数のオファーの手紙はthe Munich based Institut fur Zeitgeschichte in the Sammlung Irvingで公開されています)。第三者とされる機関で日記の原稿が鑑定されたのは、クロだと言うドイツのBKAと、シロだというオランダの戦時資料研究所(オランダにはアンネ・フランクの展示場があり、オランダ王家推薦の観光名所です)の2回のみです(よね?)。そして、その鑑定した原稿が、2回とも全く同じ物であるという根拠は、オットー(アンネ・フランク財団)側の主張だけですよね? 公平を期するなら、オランダ側が鑑定の義務を負った際に全ページを一般公開し、誰かに金を握られていない中東の国や南米の専門家を含んだあらゆる組織に、ジャンジャン自由に鑑定させるべきだったでしょう。すでに、2回の鑑定の間に原稿がすり替えられた/改竄された、という疑惑が在る以上、今後の鑑定は意味がありませんし・・・まあ、仮に誰が鑑定しても、現実的には前述の通り、その年代程度しか判定出来ないハズですけれど

 オットー・フランクは、78年からの「歴史修正主義者」との裁判の際に日記が全て同一人物によって書かれたと鑑定(アンネ・フランク個人だけが日記を書いたと主張してきた彼にとっては、ボールペン問題が出るまでは、有利な鑑定結果だった)した鑑定家に、後でお金を支払っています。単なる礼金だとか(何の?)、賄賂にしては額が少ないとか、別の仕事の代金だとか、色々な話があります(^^;)

 現在の公式では、オリジナルの日記は、6×4×0.25インチ=15.24×10.6×0.64センチ程(文庫本サイズ)の3冊の本とバラのページで合わせて324ページとなっていますが、80年のBKA調査以前の殆ど全部の一般向け関係出版物や映画や舞台では「1冊の小さな日記」というイメージを与えるような表現が使われていました(えっ、今でも?)。欧州の言葉では、単数形と複数形は違いますが、本のタイトル同様、常に「DIARY」というような単数形が選ばれました。アンネ・フランク財団の公式パンフレットにも、何故か長い間、赤いチェックの布で装丁されて鍵の付いた今風の日記の写真が掲載されていました。レプリカと称して一冊の今風の日記を持っている父親の新聞報道写真もあります。映画を撮ったG.スティーブンスの書いた『アンネの日記』の「序文」では「赤いチェックの布で装丁された小さな日記」云々と、実物を見たかの様な記述があります。日記自身の文章中では「this cardboard covered notebook(この“ボール紙”で装丁されたノート)」、「a diary」という風に、何れも単数形で呼んでいます

 『アンネの日記』に対して、最初に異議を表明したのは、主に伝統派ユダヤ教徒のグループでした。内容がハレンチ(大半が、周りの人々への批判と、ドイツ人への酷い憎悪と、思春期の性的な感情吐露に)過ぎて、ユダヤ人への誤解を生むというものです(1950年代の読み物としては(というか、今の小説だとしても)、かなり過激なようです。ユダヤがらみでなければR指定でしょう?)。懐疑論者は、8人が暮らす閉ざされた狭い空間で、当時の13歳の少女が考える事だとは、とうてい思えない、売る為にハレンチな部分を挿入したのであろう、と言います。あるいは、『アンネの日記』は本物で、ユダヤ人であるアンネは、他の民族を罵倒し、小児性愛やゲイや獣姦といった変態的な性行為に満ちた(寛容な?)ユダヤ経典(タルムード)の影響を受けていたと言う人も居ます。さらに最近の版では、オットーの要望で省かれていたという「ユダヤ至上主義的」「性描写」部分も追加されました。これは「日記」原稿に、戦後のインクで編集した形跡があるという事実から来る疑惑等への対応策(つまり「何で編集してあるんですか?」「いやこーだったからダ!」と言うため)だと思われますが、ちょっと、どうなんでしょう。逆に、よけい疑・・・(^^;)

 アンネ・フランク財団の目的は、"to attain the humility which alone can make us want to listen to our fellowman" = 「どの一人にも、私達に私達の同胞の言うことを聞きたいと思わせることが出来るような謙虚さを達成する」 事です(財団の昔のパンフレットより)。短く言うと 「全員がユダヤ人の言うことを聞く謙虚さを持つ事を達成する」事です。まあ、キリスト教の教会も言うことは同じですけれど、例えば日本人は、キリスト教会に入信して洗礼を受けてキリスト教徒になる事はできても、自称「神に選ばれた民族」であり、母方の血が繋がっていないといけないユダヤ教には入れません(ヒトラーの言う「ユダヤは宗教ではなくて民族だ」というのは正にそこです)

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