猫の生死 (本編2)


      
by  南堂久史
 




 これまでの話で書き落とした分を、追記としていくつか示しておこう。




 【 核心 】

 少し専門的な話になるが、核心的なことを示しておこう。(初心者向けではない。やや難解。)

 どうせ考えるのなら、「一定時間後に観測する」のでなく、「最初からずっと観測する」ことにすればよい。箱のなかにいる猫を、最初からずっと観測する。
 すると、どうなるか? もちろん、適当な時間がたつと、猫が死ぬ。その時間は、多数の猫を観測すれば、確率分布曲線に従って、分布するはずだ。──その意味で、量子力学と現実とは、一致する。

 さて。だとすれば、観測者にとって、猫の生死とは、何のことか? 実は、猫の生死は、「観測によって決定する」のではなくて、「観測によって判明する」だけだ。
 ここで大切なのは、「決定」と「判明」の違いだ。

 量子力学の世界(ミクロ的な世界)では、「決定」と「判明」は、同じことである。二つの状態が確率的に可能であり、どちらであるか未定であるとすれば、どちらかに「決定」されることと、どちらかに「判明」することは、同じである。
 現実の世界(マクロ的な世界)では、「決定」と「判明」は、別のことである。猫の生死がどちらかに決定していたとしても、観測者にはその事実が判明していないことはある。観測者はたくさんいて、箱の中を見ている人もいるし、箱の中を見ていない人もいる。箱の中を見た人には、事実が判明しているが、箱の中を見ていない人には、事実が判明していない。ここでは、「決定」と「判明」とは、別のことなのである。
 現実の世界では、過去のすべては「決定」済みであり、かつ、過去のほとんどすべては「判明」していない。たとえば、去年の今ごろ、九十九里浜の沖合1キロメートルの位置に、どんな魚が何匹いたかは、決定されているが、判明していない。一人一人の個人の知っていることは、あまりにも僅少である。

 なお、過去の事実が判明するのは、たいてい、一定時間後である。ここで、「判明」と「決定」とは、同じことであってはならず、別のことである必要がある。なぜか? さもなくば、因果律が破壊されるからだ。
 たとえば、百年前に猫が死んで、現在になって観測者が観測する。これならば、問題はない。百年前に決定して、現在になって判明するだけだ。
 ところが、現在になって判明して、現在において決定したとしよう。すると、百年前の猫にとっては、どうか? その時点から百年後の観測によって、生死が決定されることになる。つまり、百年後の情報が、百年という時間をさかのぼって、その時点に伝達してくるになる。情報が「未来から過去へ」という方向で流れることになる。──これは、物理学的な要請に、反する。(厳密に言えば、相対性理論に反する。)

 例を示そう。1901年の1月1日に、猫が箱に入った。その後、猫の生死は、ずっと不明だった。ところが、百年後の2001年に、観測者が観測して、猫の生死が判明した。「死んでいる」と判明した。検死すると、「死亡時期は、1901年6月6日」と判明した。すると、その情報が過去に伝わった。猫は、1901年6月5日までは生きていたが、1901年6月6日になると、未来からの観測情報が伝わったせいで、死亡した。つまり、2001年の観測によって、2001年に生死が決定し、そのせいで、1901年6月6日に猫が死亡した。かくて、未来から過去へと、情報が伝わったことになる。換言すれば、1901年6月6日から2001年まで、猫はずっと半死半生だったのに、2001年に観測したせいで、それまでの半死半生の歴史が一変して、「猫は死んでいる」というふうに、過去の歴史が書き直されてしまったのである。そういうふうに、未来が過去を変えてしまったことになる。(……しかしこれは、現代物理学に反する。)

 要するに、「現実のマクロ的な世界でも、観測が決定をもたらす」と主張することは、現代物理学を崩壊させてしまうのである。ゆえに、観測問題は、現実の世界では、成立しないのだ。量子の世界では「観測」と「決定」とは同じことだが、現実の世界では「観測」と「決定」とは別のことなのである。

( ※ どうしてそうなるか? 理由は、「同一性」による。量子というものは、たがいに識別不可能であるから、ある中性子と、もう一つの中性子を、区別することはできない。しかるに、現実の世界の物質は識別可能であるから、ある猫と、もう一つの猫とを、区別できる。この違いが、観測問題の違いをもたらす。……なお、このことは、簡単に説明しただけだ。わからない人には、わからないはずだ。不確定性原理の証明さえ読んだこともない人ならば、しょせん理解できるはずがないから、無理に理解しなくてもよい。)




 【 パラドックス 】

 論理学の観点から、「パラドックスとは何か」を説明しておこう。
 「シュレーディンガーの猫」という問題は、実は、ただの論理クイズにすぎない。その点では、「アキレスと亀」という論理クイズと同様である。「亀を追うアキレスは、いつまでたってもアキレスに追いつけない」という奇妙な理屈である。
( ※ 「アキレスは亀の2倍の速度で追う。アキレスが2歩進んでも、その間に亀は1歩ぶん進む。だから、いつまでたっても、アキレスは亀に追いつけない」という、奇妙な理屈。……このパラドックスは、無限級数を使って説明する人もいるが、不正解である。正しい解答は、小学校低学年レベルの論理で、十分に説明できる。)
 ここでも、正しい論理を使えば何も問題はない。なのに、わざと狂った論理を使って、問題があるように見せかける。
 では、どうやって解決するか? 狂った論理を成立させる原理を示すことが、解決なのではない。パラドックスを解決するには、その論理のどこが狂っているかを指摘すればいいのだ。
 「シュレーディンガーの猫」も、同様である。奇妙な命題が成立する原理を示すことが、解決なのではない。パラドックスを解決するには、その論理のどこが狂っているかを指摘すればいいのだ。つまり、手品の種明かしをすればいいのだ。
 なのに、狂った論理を前提として、確率の急変とか並行宇宙とかの概念を用いて、「ああだ、こうだ」と説明しようとすると、いつまでたっても、前提を脱せず、だまされつづけているので、謎から脱することができないわけだ。

( ※ 手品で言えば、「胴体がチョン切られた人間はなぜ生きることができるか」と考えるべきではない。むしろ、前提を否定して、「胴体がチョン切られたと錯覚するのはなぜか」を種明かしするべきなのだ。……パラドックスを解決するとは、そういうことだ。)
 




 【 オマケ 】

 参考のため、英語版の図版を、掲げておく。

二つの猫


 下半分は、「現実のシステム」そのものである。
 上半分は、頭のなかで考えられた「現実のシステム」である。
 現実の世界(図の下半分)では、猫の生死は常に決定されている。半死半生などということはありえない。真偽値はどちらか一方に決まるが、どちらであるとも言えない。
 しかし、(観測者の)頭で考えられた「現実のシステム」(図の上半分)では、猫の生死は、生であれ死であれ、「そう考えられている」だけにすぎない。通常、「どっちも可能だ」と見なされるので、「真偽値は半々」となる。

 「観測」とは、図の上半分から、図の下半分へと、世界を転じることである。すると、それまでは「真偽値は半々」であったのだが、そのあとでは「真偽値はどちらか一方」となる。
 ここでは、確率が急激に変化したのではない。「確率が変化する」というのは、図の上半分(理論上の世界)のなかで、理論的な値が急激に変化することだ。そういうことが起こったわけではない。なのに、そういうことが起こった、と勘違いすると、パラドックスが生じる。

 正しくは、「確率が急激に変化した」のではなくて、「観測によって、思考対象が替わった」のである。つまり、「頭のなかにある猫」から、「現実の世界にある猫」へと、思考対象が替わったのである。そして、それにともなって、前者の「生死の確率」から、後者の「生死の確信度」へと、数字の意味が替わったのである。

 頭のなかで想像された猫と、現実の猫とは、同じものではない。なのに、両者を混同すると、パラドックスが生じる。そこに、「シュレーディンガーの猫」の根源がある。

( ※ 詳しくは、英語版を参照。)

 【 注釈 】
 たとえば、あなたが今、自宅の猫のことを考える。そうして頭のなかで考えられた猫は、猫そのものではなくて、あなたが考えているものにすぎない。しかし、あなた自身は、猫そのものを考えているつもりであるから、両者を区別することはできない。それでも、第三者から見れば、現実の猫と、あなたが考えている猫とは、別々のものなのである。
 上の二つの図は、観測者(= 思考者)にとっては区別されないが、第三者にとっては区別されるわけだ。



 【 蛇足 】

 (1) 死亡時刻
 「観測が猫の生死を決定する」のだとすれば、検死して、猫の死亡時刻を調べると、どうなるだろうか?
 0時に実験開始して、1時に観測した。1時に観測によって猫の生死が決まるのだとすれば、猫の死亡時刻は、必ず、1時であるはずだ。なぜなら、それまで、猫の生死は確定していなかったからだ。
 「観測が決定する」と主張する人々は、「猫の死亡時刻は必ず1時だ」と主張するだろう。
( ※ 私は、そうは主張しない。猫の死亡時刻は、量子力学で決まる確率分布曲線に従うはずだ。つまり、0時15分であることもあるし、0時30分であることもあるし、いろいろとあるはずだ。)

 (2) VTR
 もう一つ、示しておこう。
 箱のなかの猫を、VTRで撮影して、1万年後に観測したとする。すると猫は、1万年後に、生死が決定することになる。とすれば、猫は、1万年もの間、長生きできたことになる。(これは、「並行宇宙」という説でも同様。)
 
 以上の (1) (2) の問題には、何らかの解釈ができるかもしれない。しかし、やはり、とうてい納得しがたい不自然な解釈となるだろう。量子力学の外の世界のことを、量子力学で説明しようとすれば、しょせん、おかしな結論を避けられないのである。

 たとえば、「シュレーディンガーの猫」のシステムを設置して、猫のかわりに人間を入れて、0時以降の1時間の間に人間を毒殺するようにしておく。そして1時に、発見者が観測する。すると、被害者はすでに死んでいた。
 物理学者は「被害者は1時に死んだのだ」と判定した。そのあと殺人者は、「1時には、おれは別のところにいた。つまり、アリバイがある。ゆえにおれは、犯人ではない」と主張する。また、「観測したことで死が確定したのだから、監獄に行くべきは、おれではなく、発見者である」と主張する。
 物理学者は、「なるほど」と認めた。「観測されるまでは、被害者は半分生きて半分死んでいたのである。被害者を殺したのは、発見者である。ゆえに発見者を監獄にぶち込め」と。
 かくてこの国では、殺人はやり放題となった。逮捕されるのは、殺人者ではなくて、発見者なのだから。

 「生死を決定するのは、毒や銃ではなくて、観測である!」と物理学者は叫んだ。
 「目で殺すのよ!」と、糸屋の娘も叫んだ。
 「やってられんね」と、私はぼやいた。




ミクロとマクロの関係



 ミクロとマクロの関係について、解説しておこう。( 2003-10-27 )

 物理学者の勘違いの多くは、こうだ。
 「シュレーディンガーの猫とは、量子に対する観測問題である。量子における数値を、コードによって現実の猫に結びつけただけだ。当然、どちらの数値も、同じである。かくて、量子に対する観測の影響と、猫に対する観測の影響が、一致する」

 彼らはこのように素朴に信じている。コードで結びつけたことで、コードの最初と最後の値が同じ値だと思い込む。しかし、そこにこそ、論理的な間違いがあるわけだ。
 なぜか? 0.5 なら 0.5 でいいが、その値は、確率ではなくて、真偽値なのである。 0.5 という数字自体は同じでも、その意味が異なるのだ。
 ここでは、確率がいったん真偽値となり、その真偽値が確信度となる。もちろん、確率と確信度は、同じではない。ここに、論理的なトリックがあるわけだ。しかし、たいていの人は、それにコロリとだまされてしまうわけだ。「どっちも 0.5 じゃないか。だったら、どっちも同じだ」と。

 正解を言おう。
 たとえ 0.5 という数字という数字は同じでも、「確率」「真偽値」「確信度」というふうに、数字の意味が異なる。数字が同じだからといって、同じことを意味するわけではないのだ。
( ※ なお、このように三通りの意味になるのは、何らかの意味変換機能がコードに備わっているせいではない。一つの数字が、ある一通りにしか解釈されないのである。その理由は、この文書の前半に書いてある。たとえば、「猫の数は自然数になる」ということなどだ。)

 量子に対する観測問題は、量子の世界だけの話だ。一方、猫に対する観測問題は、量子の世界ではなく、現実の世界の話だ。そこでは、観測の影響などは、ありえない。
 「量子に対する観測問題は、猫に対する観測問題だ」と思い込む物理学者が多い。「コードで結びつけたのだから、両者は等価であるはずだ」と思い込むわけだ。しかし、コードに伝わるのは、電気信号だけである。そこに伝わるのは、真偽値だけであって、真偽値以外のものは、伝わらない。かくて、量子の世界と、現実の世界とは、断絶される。

 結局、コードで結びつけたとしても、量子の世界と、現実の世界とは、別のことなのである。量子に対する観測問題は、猫に対する観測問題とは、関係がないのだ。
 この関係がない二つを、等価であるように思い込ませる論理トリックが、「シュレーディンガーの猫」という問題である。

 最後に一言、述べておこう。
 量子の世界の観測問題は、現実の猫の観測問題とは、異なる。にもかかわらず、この二つを同じことだと主張する物理学者がいれば、彼は、そのことを論証するべきだろう。
 しかるに、そんな論証など、できるわけがない。できるとすれば、「コードで結びついているから、きっと同じことだ」と安易に思い込むことだけだ。そこには、精密な論理などはなくて、粗っぽい思い込みがあるだけだ。「 0.5 は 0.5 だぞ」というふうに。
 そして、人々の粗っぽい思い込みこそ、手品を「不思議だ」と思わせるコツなのである。

( ※ 量子の世界における観測問題は、量子の世界のことであるから、量子力学によって解決ができる。そこには、パラドックスなどは存在しない。しかるに、量子力学を理解しない人々が、「量子の世界の観測問題は、現実の猫の観測問題だ」と勝手に思い込む。あげく、「量子力学には難点がある」と主張して、量子力学という学問体系を破壊しようとする。……そんなに量子力学を否定したければ、勝手に「量子力学には難点がある」と唱えて、量子力学を否定すればいいのである。彼らが何を主張しようと、私の関知するところではない。)



並行宇宙


 量子力学の世界では、「並行宇宙」というものが言われている。(「多世界解釈」または「エヴェレット解釈」ともいう。)
 この説は、こう主張する。
  「われわれの存在する現実の世界とは別に、他の宇宙も存在する。そこでは、われわれの現実とは別の現実がある。われわれの世界では、当の猫は死んでいても、別の宇宙では、当の猫は生きている。同様に、別の宇宙では、もう一人のあなたも存在する。」
 まったく奇妙な話であるが、こうしたことが、量子力学の研究者の間では、堂々と論じられている。 ( 参考ページ

 これはもちろん、間違いである。
 この「並行宇宙」というのは、先の話で、
  「死んでいる猫と生きている猫が(別々の宇宙に)共存する」
 というのと同じだ。このような解釈が、確率の解釈としては根本的に間違いであるということは、先に示したことからもわかるだろう。
(詳しくは英文版のページ[上記]を参照。)




 【 コメント 】
 「並行宇宙」について、少しコメントしておこう。
 「並行宇宙が存在する」という考え方は、いかにも奇妙である。では、なぜ、こういう発想が誕生したのか? 実は、理由がある。
 猫について、生死という状態が半々であることはありえない。とすれば、命題の真偽値が半々であることになる。そこで、「猫が生きている」および「猫が死んでいる」という二つの命題が半々で成立する状況として、「二つの宇宙が存在する」と解釈するわけだ。
 このようなことは、奇妙きわまりない。もちろん、こんなことがあるはずがない。では、この考え方の問題点は、どこにあるのか? その本質を示そう。
 「猫が生きている」および「猫が死んでいる」という二つの命題が半々で成立する、というのは、正しい。ただし、それを「現実の世界で成立する」と見なしたところに、根源的な誤りがある。正しくは、「現実の世界で成立する」のではなくて、「頭のなかの世界で成立する」のである。
 「頭のなかの世界」とは、「想像された世界」であり、「思考された世界」である。そこでは、「猫が生きている」および「猫が死んでいる」という二つの命題が半々で成立する。ここでは、「猫は生きているかもしれないし、猫は死んでいるかもしれない」というふうに、「……かもしれない」という形で、命題が半分成立しているのである。ただし、それはあくまで、その人の頭のなかでのことだ。「命題が半分成立している」というのは、事実ではなくて、頭のなかの世界でのことだ。
 これは、第三者から見れば、「命題が半分成立している」のではなくて、「『命題が成立している』と彼は半分思っている」という状態だ。(「思っている」という程度が、前述の「確信度」である。)
 こういうふうに、事実の世界と、頭のなかの世界とは、別々のことである。頭のなかの世界には、並行宇宙がある。頭のなかでは、「猫が生きている」という宇宙と、「猫が死んでいる」という宇宙が、どちらも半々の可能性によって信じられる。しかし、その二つの宇宙は、あくまで、頭のなかの宇宙であり、現実の宇宙ではない。なのに、そのことを理解しない人々が、「並行宇宙は現実に存在する」と勘違いしてしまうのである。
 彼らの主張は、論理的に間違っているのではなくて、現実と虚構とを区別できなくなってしまっているのだ。その点では、狂人と同様かもしれない。正常な人は、「自分は鳥だ」と想像することはあっても、それを想像の世界だとわきまえている。しかし狂人は、「自分は鳥だ」と信じると、現実に自分が鳥だと見なして、現実と想像との区別がつかなくなる。
 そういう狂人に似ているのが、「並行宇宙」ということを主張する人々だ。彼らを「奇妙だ」と思うのは、当然だろう。「彼らの主張にも一理ある」と思う物理学者は、現実と想像との区別がつかなくなっているからだ。



 【 追記 】 ( 2005-05-25 )

 「多観測解釈」と呼ぶべきものについて、追記しておこう。
 「並行宇宙」を主張する解釈は、「多世界解釈」と呼ばれるが、これは、物理学の世界では「エヴェレット解釈」と呼ばれる。
 ところが、この解釈(エヴェレット解釈)を、「複数の宇宙が並行して存在する」という意味で解釈せず、「複数の観測者が宇宙を観測する」というふうに解釈する立場もある。これを「多観測解釈」と呼ぼう。
 多世界解釈も多観測解釈も、根っこでは「エヴェレット解釈」となる。物理学的な定式化は、どちらも同じだ。ただし、それを一般向けに解説するときに、立場が異なる。次のように。
   ・ 多世界解釈 …… 複数の宇宙がまさしく存在する。
   ・ 多観測解釈 …… 複数の宇宙が観測者ごとに観測されるだけだ。
 前者では、A,B,Cという宇宙がまさしく現実に存在することになる。猫で言えば、Aの猫は生きており、Bの猫は死んでる、というふうになる。
 後者では、A,B,Cという宇宙がそれぞれの観測者ごとに観測されるだけだ。現実の宇宙は一つであるが、観測される宇宙が観測者ごとに異なる。一つの宇宙に対し、ある観測者はAという宇宙を観測し、ある観測者はBという宇宙を観測する。猫で言えば、ある観測者は「猫は生きている」と観測し、ある観測者は「猫は死んでいる」と観測する。

 この二つは、どちらにせよ、論理的な矛盾は含まない。ただし、難点の意味合いは異なる。
   ・ 多世界解釈 …… 狂気的。
   ・ 多観測解釈 …… 非科学的。

 前者(多世界解釈)は、「複数の宇宙が存在する」と見なす。これは、狂気的である。頭のなかで複数の宇宙があると見なすのはいいが、現実に複数の宇宙があると見なすのは、正気の沙汰ではない。(すぐ前に述べたとおり。)
 後者(多観測解釈)は、「観測者ごとに異なる宇宙が観測される」と見なす。これは、狂気的ではないが、非科学的である。そもそも、科学とは、何か? 「客観的に実証されること」が大前提となる。客観的というのは、「観測者によらず、誰もが同じ結果を得る」ということだ。それを否定したら、もはや科学とは言えない。

 非科学的な判断の例としては、宗教や感情がある。
 たとえば、宗教だ。ある人は「神は存在する」と主張し、ある人は「神は存在しない」と主張する。どちらが正しいか? どちらも客観的に実証できないから、その問題はもはや科学の問題ではない。また、かつて「常温核融合」というものが報告されたことがあったが、再現性がほとんど皆無であったために、科学とは見なされなかった。「常温核融合」というものがあると信じた人は、それを信じているのだろうが、客観性がないせいで、科学とは見なされなかったのだ。ただし、「絶対にありえない」と実証されたわけでもない。
 また、感情もそうだ。一人の女性を観測して、ある男は「美しい」と判断し、ある男は「美しくない」と判断する。観測結果が、人ごとに異なる。そのどちらが正しいか? そんなことを考えても、無駄である。観測結果が人ごとに異なるような事柄は、もはや科学の扱う分野ではないのだ。その女性が美しいか美しくないかは、科学の問題ではなくて感情や趣味の問題である。「勝手にすれば」と言えばいい。

 要するに、観測結果が客観的に一致しないことは、客観的ではないがゆえに、科学の扱う分野ではない。とすれば、多観測世界を主張する人々は、「量子力学は科学ではない」と主張していることになる。なるほど、その主張によれば、シュレーディンガーの猫のパラドックス(特にコペンハーゲン派の矛盾)を回避することができる。短所を消すことができる。しかし、そのかわり、長所までも消してしまうのだ。なぜなら、多観測解釈によれば、量子力学はもはや科学ではないからだ。
 たとえば、量子力学が「これこれのことが予想される」と厳密に結論しても、そのことには何の意味もない。なぜなら、その予想が当たるかどうかは、まったく意味がないからだ。その予想は、ある人には「当たり」となるが、ある人には「はずれ」となる。人ごとに異なる結果が観測される。だったら、何が観測されても、その観測には何の意味もない。量子力学というのは、ただの占いみたいなもので、ゴミと同然になってしまう。

 多観測解釈は、量子力学にひそむ難点を消し去るが、同時に、量子力学そのものの価値をも消し去ってしまうのだ。
 多観測解釈を主張する人は、多世界解釈について「俗説だ」と批判する。しかし、そう批判する自分自身が、非科学主義に陥ってしまっている。多観測解釈は、俗説というより、珍説なのである。非科学主義に陥った多観測解釈は、たとえ矛盾を含まなくても、価値がゼロだ。

( ※ エヴェレット解釈は、多世界解釈であれ、多観測解釈であれ、どっちみち、無意味である。では、なぜ? 理由は、その前提にある。「シュレーディンガー方程式は、ミクロの世界もマクロの世界も扱える」というのが、エヴェレット解釈の前提だ。しかし、その前提は、まったく成立しないのだ。詳しくは、次の[ 補足 ]などを参照。)

   *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

  《 補足1 》

 「では真実は?」と読者は疑問に思うだろう。そこで真実を、簡単に示しておこう。
 まず、あらかじめ、ここまでの全体を読み通しておいてほしい。それを前提とした上で、以下のように説明する。
 エヴェレット解釈では、「複数の状態が混合している」というふうに見なす。詳しくは、こうだ。
   ・ 多世界解釈 …… 複数の「実際の世界」が混合している。
   ・ 多観測解釈 …… 複数の「観測された世界」が混合している。
 そして、シュレーディンガー方程式は、この混合している状態を示す、と見なす。しかし、その解釈が、根源的に狂っているのだ。観測されていない状態とは、複数の状態が混合している状態ではない。では、正しくは? 次のように言える。
 「観測されていない状態とは、未確定の状態である。観測された状態とは、一つの世界における一つの状態でもなく、複数の世界におけるそれぞれの(各一つの)状態のことでもなくて、確定した状態である。」
 要するに、観測とは、「未確定の状態から、確定した状態へ」というふうに、確定の有無が変わることだ。
 わかりやすく言おう。未確定状態とは、白か黒かはっきりしない状態である。そこでは、白と黒とが混合して灰色になっているのではなく、白の状態と黒の状態が並存しているのでもなく、白と黒のどちらにも決まっていないのである。

 観測との関連でいえば、こうだ。
 観測したから「未確定から確定へ」と変わったのではない。むしろ、「未確定から確定へ」と変わったから観測できた、というだけのことだ。── ここでは、因果関係を逆に理解してはならない。注意。

 以上の問題は、二重スリットで考えると、よくわかる。
 二重スリットでは、真空中では波の状態であり、到達点(乾板)では粒子の状態である。

     電子銃  波   乾板
      ━  )))  |

 波の状態では未確定状態であり、粒子の状態では確定状態である。
 ここでは、観測したから波が粒子になったのではない。逆に、波が粒子になったから観測されたのだ。
 そして途中で、波の状態では、「複数の粒子状態が混合している」のではなくて、「粒子になっていない」(確定していない)のである。

 この件は、「細々とした周辺的な話題」のうちの「波動関数の収束」の項目を参照。原理的な話もあるので、ぜひ読んでほしい。






  以上で、この論考を終えます。








    URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja2.htm  (本ページ)
          http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm (猫の表紙)

[ THE END ]