あの日から僕は〜パソコンとの出逢い

95/04/12 23:24


波爛万丈伝はまだ続きます‥‥‥う〜んしかし、ここまでやっていいのだろうか。最近はぷさい宝島でも、折々のゴミ蒔きしか出来ない状態になってるしなぁ‥‥‥

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そういうわけで、授業よりむしろ合唱団での活動に明け暮れる大学生活をしてて、オーディオ関連への就職を希望していた僕にとって、入社直後にパソコン(職場ではホームコンピュータと呼んでいた)の開発を担当する事になったのでビックリ。もっとも研究テーマは画像処理だったから、あまり路線違いでもないのですけど。ま、そういうのも運命でしょうかね。

当時、先進国であるアメリカでも、Commodore 社の「PET」、Tandy RadioShack 社の「TRS-80」、Apple 社の「Apple II」などがそろそろ出始めた段階。1年先輩はBASIC インタプリタを開発していたけど、こちらは入社してから初めて高級言語である BASIC の勉強をする状態。「ホームコンピュータのアプリケーション開発」とは名ばかりで、今から考えると、ちょっと情けない状態だったワケです。国産パソコンの夜明けを告げるマシン「PC-8001」が登場したのは、その少し後でしたね。

その頃、あの 西 和彦 氏や、古川 享 氏とも直接会ってるんですが、多分先方は、当時の駆け出しエンジニアの事など覚えていないでしょうね。

パソコンの次はグラフィック機器の開発。この時にC言語を習得。ハードとソフトの境界のない、いわゆるファームウェアの開発技術ですから、同じソフトと言っても、皆さんが普段接している MS-DOS やアプリケーションソフトとは違って、「いかに素早く直線を描画するか」とか「描画コマンドをどう翻訳するか」とかの世界。ま、専用ハード用の OS の一部を開発してると思ってもらうのが早いでしょうか。

その後突然アナログ回路の開発に転向。配線の引き回しで性能が左右されるので、プリント基板の設計も自前で‥‥‥ははは、何でもやるんです‥‥‥そうかと思うと、その次には***《企業秘密に付き公開不能だよ〜ん》***をやってたし、現在は LSI の開発‥‥‥ですから一応、過去にソフトで飯を食った経験はあっても、いまだに DOS のアプリケーションそのものに関しては、ド素人みたいなものなんです‥‥‥ましてや WINDOWS のアプリケーションなんて、全然作り方も勉強していないし‥‥‥困ったもんですなぁ(^^;

KATOCHAN (from Fujisawa)


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This page was updated on Sunday, April 09, 2000

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