進化論の初歩
クラス進化論を説明する前に、従来の進化論を含めて、進化論全体について概説しておく。初心者向け。
( ※ 「自分は初心者じゃないぞ」と思う人も、なるべく目を通しておいてほしい。「クラス進化論はトンデモだ」と主張する人がとても多いのだが、それらの人は、たいてい勘違いしているからだだ。)
進化論の歴史は、おおむね、次のようになる。
まずは、さまざまな説がある。
「神があらゆる生物を創造した」というキリスト教の説。旧約聖書に依拠するものであり、ユダヤ教にも共通する。
また、日本でも、天照大神の神話などもある。
いずれにせよ、宗教的な神話である。
これらは、「非科学的だ」と切り捨てるよりは、「自分たちはどこから来たのか」という疑問を古代人も抱いていたのだ、と共感した方がいい。
( ※ 皮肉を言おう。実は、創造説の古代と、ダーウィン説の現代とでは、あまりさは大きくないのだ。どっちみち、真実とは異なる神話を信じているからだ。……こんなことを言うと、生物学者や進化論学者は怒り狂うだろうが、自分の誤りを指摘された人ほど、怒るものである。)
「環境に適する形で生物は進化する」という説。(「合目的説」とも言える。つまり、「目的」に「合わせて」ちょうどうまく進化が起こる、という説だ。ほとんどご都合主義であるが。)
この説は、正確に言えば、「用不用説」と「獲得形質遺伝説」というふうに分けられる。そのうち、問題となるのは、「用不用説」の方である。「役立つ形質だけが遺伝する」というものだ。
本当は、こういうことはありえないのだが、どういうわけか、進化の歴史を見ると、そういうふうになっているとしか思えない。まったく不思議である。……このことを詳しく論じたのが、ノーベル賞学者のモノーの著書「偶然と必然」という有名な書物だ。進化論学者には必読。(しかしこれさえも読んでいない自称専門家が多い。困ったことだ。基礎文献すら読まない、自称専門家たち。)
ラマルク説は、のちに、別の科学者(ワイスマン)によって、実証的に否定された。つまり、ネズミの尻尾を何代にも渡ってちょん切っても、シッポのないネズミは生まれてこない。シッポのないネズミの方が有利なのだから、環境に合わせて、シッポのないネズミが生まれた方がいいはずなのだが。……こうして、ラマルク説は、実証的に否定された。
今日ではこれは、「後天的な影響は、遺伝子には影響しないから」というふうに説明される。そのことはまったく正しい。ただしそれは、「獲得形質遺伝説」の否定でしかない。「用不用説」は、簡単に否定されたわけではない。
実際、今日の進化論学者は、ラマルク説(用不用説)から、逃れきっていない。このことは、しばしば指摘される。「現代の進化論は用不用説の色合いを残している」というふうに。
たとえば、たいていの進化論学者は、次のように説明する。
・ 人間のシッポがないのは、シッポがない方が環境で有利だからである。
・ 人間が直立したのは、直立した方が環境で有利だからである。
・ 両生類が足をもつのは、陸上ではヒレよりも足の方が有利だからである。
・ 鳥が翼をもつのは、鳥が陸上から空中に進出したからである。(空中では翼が有利。)
たいていの進化論学者はこういうふうに説明する。一般的には、次の形の文章の形を取る。
「新しい環境に進出すると、その環境に適するように、新たな形質が備わる」
(新しい環境への進出が、進化をもたらす。)
しかしこれは、ラマルク説(用不用説)とほとんど同じである。彼ら自身は自覚していないようだが、無意識的にラマルク説を取っているのだ。
では、そのどこが問題なのか? 「不利な形質が失われる」という点は、問題ない。問題は、「有利な形質が発生する」という点だ。たとえば、こうだ。
・ シッポがない方が環境で有利だから、ちょうどうまくそういう遺伝子が発生した。
・ 直立した方が環境で有利だから、ちょうどうまくそういう遺伝子が発生した。
・ 陸上ではヒレよりも足の方が有利だから、ちょうどうまくそういう遺伝子が発生した。
・ 空中では翼が有利だから、ちょうどうまくそういう遺伝子が発生した。
これらは、たとえて言うと、「お金が必要だから、ちょうどうまくお金が空から降ってくる」というようなものである。ラマルクの発想に近い。
( ※ 次の箇所を参照。 → Q&A 「用不用説」)
やがて、ダーウィン説が登場した。これは、ダーウィンだけが単独で出したわけではなく、ダーウィンとウォーレスの双方による説なのだが。(この点からして、世間では誤解が多い。)
ダーウィン説そのものは、今日でも広く知られているとおりである。「環境において有利なものが生き延びる」という説だ。ただし、より正確に言えば、「環境において不利なものが滅びる(減る)」という説だ。(有利なものが新たに出現するメカニズムについては、自然淘汰説は何も説明しない。せいぜい、用不用説に頼るぐらいだ。)
ダーウィン説の根幹である「自然淘汰」という概念は、今日では、あらゆる進化論に共通する。創造説とはまったく異なる。この意味で、ダーウィン以前と以後とで分かれる。
ただし、細かな点の違いを見ると、いくつかの流派が生じる。次項参照。
進化論には、おおまかに分けて、次の三つがある。
・ 個体淘汰
・ 遺伝子淘汰
・ クラス淘汰 (マトリックス淘汰)
(1) 個体淘汰
個体淘汰は、ダーウィン説そのものだ。環境において有利な個体が生き延びる、という説。たとえば、首の長いキリン(個体)は有利だから、首の長いキリン(個体)は増える。……これが「個体淘汰」の考え方だ。
ここでは、増えるのは、親としての、首の長いキリンの親だ。首の長いキリンが、親として増える。その親から、子が親の数に比例して増える。
しかしながら、この説は、のちに矛盾が発見された。それは生物に「利他的行動」が見られることだ。
(2) 遺伝子淘汰
遺伝子淘汰は、ダーウィン説の「個体」を「遺伝子」に読み替えたものだ。優者が増えて、劣者が減る、というダーウィン説の原理はそのままだが、「優者/劣者」を「遺伝子としての 優者/劣者」と読み替える。すると、「優れた遺伝子が増えて、劣った遺伝子が減る」というふうになる。……これが「遺伝子淘汰」の考え方だ。(この立場は、今日では「ネオ・ダーウィニズム」ともいわれる。)
この考え方は、生物の「利他的行動」をうまく説明する。そこで、一躍、有名になった。
ドーキンスの「利己的遺伝子」という説は、この点を特に強調して擬人的に表現したものだ。
この立場の発想は、理論的にも、「集団遺伝学」という形で、定式化されている。
この分野では、木村資生の「中立説」が有名だ。「優者/劣者」という二項分類のほかに、「優者/中立/劣者」という三項分類が成立する。しかも、突然変異で圧倒的に多いのは、「中立」なのだ。
さらに、木村資生の弟子の太田朋子は、注目すべき事実を発見した。「優者/中立/弱劣者/劣者」というふうに四項分類をすると、「弱劣者」が圧倒的に多いのだ。
この件は、次項で述べる。
(3) クラス淘汰(マトリックス淘汰)
クラス淘汰は、個体淘汰とも遺伝子淘汰とも異なる。どちらかと言えば、遺伝子淘汰の一種であるが、「遺伝子を単独のもの」と見なさずに、「個体の上にのっかている遺伝子」と見なす。
たとえば、対立遺伝子を Aとa および Bとb というふうに書くことにしよう。
遺伝子淘汰では、Aとaが競合し、Bとbが競合する。Aとaが競合するときにはBとbは無関係であり、また、Bとbが競合するときには、Aとaは無関係である。
クラス淘汰では、遺伝子は単独では競合しないで、遺伝子の組み合わせ同士が競合する。たとえば、Aとaが競合するときには、Bをもつ(A,B)と(a,B)が競合し、また、bをもつ(A,b)と(a,b)が競合する。遺伝子は単独では競合せず、必ず、他の遺伝子との組み合わせで競合する。
ここでは、「遺伝子の組み合わせ」という概念が重要である。
( ※ 上の例では、遺伝子の組み合わせは二つだけだったが、これは話を簡略化している。実際には、数万もの遺伝子の組み合わせとなる。)
前項の三つの説のうち、(1) の個体淘汰は、今日では見捨てられている。(2) の遺伝子淘汰が優勢である。ただし、本サイトでは、(3) のクラス淘汰を提出している。
問題は、(2) と (3) の違いだ。両者は、どう違うか?
まず、共通するのは、次のことだ。
「進化は遺伝子の淘汰によって起こる」
つまり、どちらも、ダーウィンの「自然淘汰」という概念を基礎としている。その意味では、どちらも「自然淘汰」という概念の上に構築された理論である。
ただし、違いもある。次のことだ。
「進化で競合するのは、単独の遺伝子か、遺伝子の組み合わせか」
この違いから、次の重要な違いが出る。
(2) の原理 …… 「大進化は小進化の蓄積として生じる」
(3) の原理 …… 「大進化は少進化とはまったく異なる原理で生じる」
この違いは重要である。この違いは、二つの立場が根本的に違う、ということを示す。
なお、化石から判明した事実は、(3) に合致する。つまり、次のことだ。
「非常に巨視的に見れば、進化は連続的に見える。たとえば、百万年単位で見るなら、進化はほとんど連続している。しかし、細かく見ると、進化は断続的である。たとえば、ホモ・サピエンス(新人)は、この20万年間、種としては同一である。その一方で、ネアンデルタール人(旧人)は、クロマニョン人と大きな差がある。両者の間の差はあまりにも大きくて、途中の中間種などは存在しない。」
図式で書くと、次の違いとなる。(縦軸が進化、横軸が時間)
(2)
/
(3)
↓新人多数
....
....
↑旧人多数
(2)の図では、なめらかに続くから、旧人と新人の間には中間的な化石がたくさんあるはずだ。
(3)の図では、階段状になるから、旧人と新人の間には中間的な化石は皆無であり、その一方で、旧人の化石や新人の化石もたくさん見つかるはずだ。
というわけで、ここでは、次の結論の違いが出る。
(2) の結論 …… 「進化は必ず連続的に(斜面状に)起こる」(連続進化説)
(3) の結論 …… 「進化は必ず断続的に(階段状に)起こる」(断続進化説)
【 追記 】
誤解を避けるために注記しておこう。
「連続進化説」という説に対して、「断続進化説」というのがあるが、これはもちろん、従来からある。ちゃんと「断続進化説」という名前もできている。
ただし、この説は、(化石的事実を見て)実証的に提唱されたものである。(グールドなど)
一方、クラス進化論は、「断続進化説」と同等のことを、理論的に(原理から演繹する形で)提唱する。
グールドの説と、クラス進化論の説は、結論は同じだが、出発点が異なる。前者は事実。後者は理論。……この違いに留意。
この文書に書いてあるのは、「クラス進化論だけが、断続進化説を主張している」ということではなくて、単に「クラス進化論は断続進化説を理論的に主張している」ということだ。
わかりやすく言えば、「グールドなどが実証的に唱えた断続進化説を、クラス進化論は原理的・理論的に説明している」ということだ。両者の関係を混同しないように注意しよう。
※ グールドの用語では、「断続平衡説」という。他に、単に「断続説」ともいう。
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進化の意味を考える。
さまざまな説があるが、それらの説を比べると、「進化」という概念についても、異なる解釈が出る。
(2)[従来の説]の解釈 …… 「進化とは種内の改善である」
(3)[新しい説] の解釈 …… 「進化とは新種の追加である」
たとえば、人間という種がある。これに対して、未来における「人間の進化」とは、次のことを意味する。
(2) の解釈 …… 「今の人間が少しずつ改善して、未来においては進化した人間になる。古臭い人間は淘汰されて、ただちに絶滅する。」
(3) の解釈 …… 「今の人間はいつまでたっても今の人間のままである。多少の小進化によって亜種の違いぐらいは出るだろうが、種としては何も変わらない。その後、突発的に、今の人間とはまったく別の新種が発生する。ただし、その新種が、現在の人間を絶滅させるわけではない。両者は原則として共存する」
過去の例に当てはめれば、次のようになる。
(2) の解釈 …… 「旧人が少しずつ改善して、新人(クロマニョン人)になった。旧人は淘汰されて、ただちに絶滅した。」
(3) の解釈 …… 「旧人はいつまでたっても今の旧人のままだった。多少の小進化によって亜種の違いぐらいは出ただろうが、種としては何も変わらなかった。その後、突発的に、旧人とはまったく別の新種が発生した。ただし、その新種が、旧人を絶滅させたわけではない。両者はしばらく共存した」
( ※ 現実の化石的事実は、(3) に合致する。)
以上のことを原理的に言えば、次のようになる。
(2) の解釈 …… 「人間という一つの種が、その一つ種を保ったまま、少しずつ連続的に新しい人間に改善していく。これが進化だ。旧種と新種との間には、明確な断裂はない。また、旧種が減って新種が増えるのであって、両者は混在しないで交替する」
(3) の解釈 …… 「人間という種のなかに、新たに別の種が発生する。つまり、旧種があるところへ、新種が新たに追加される。ここには『種の追加』がある。つまり、一つの種から二つの種へ、種の総数が増える。これが進化だ。旧種と新種との間には、明確な断裂がある。また、旧種が減って新種が増えるのではなくて、両者は混在する。混在したあとで、共存することもあり、旧種が絶滅することもある。ただし、旧種が絶滅するのは、新種が発生してからしばらくたったあとである。それまでは混在が続く。」
ともあれ、二つの説には、次の差がある。
従来の説[(2)] …… 「進化とは種内の改善である」
新しい説[(3)] …… 「進化とは新種の追加である」
このように、二つの説は、「進化とは何か」について、 まったく異なる見解を出す。これは本質的な違いだ。はっきりと理解しよう。
たとえば、しばしば、「猿が進化して人間になった」という表現がなされる。従来の解釈では、そういう認識がなされるのだろう。しかし新しい解釈では、そういう表現は許されない。「猿が進化して人間になった」ということはない。「猿を元にして、進化が起こって、新たに人間が誕生した(追加された)」のである。
前項の解釈では、旧種から新種へという「交替」または「変化」があるのではなくて、旧種とは別に新種が加わるという「追加」があるわけだ。下図を参照。
(1) 連続的進化
│
│ /
│ /
│ /
│/
└──────────→ 時間
(2) 断続的進化(種の交替)
│
│ ┏━
│ ┏━┛
│ ┏━┛
│━┛
└─────────────→ 時間
(3) 断続的進化(種の追加)
│
│ ┏━(存続):種4
│ ┏━┻━(存続):種3
│ ┏━┻━……(絶滅):種2
│━┻━…………(絶滅):種1
└────────────→ 時間
上の三通りを比較しよう。
(1)(2) では、一つの種だけが残る。新種が現れ、旧種が消える。
(3) では、複数の種が残る。新種が現れても、旧種は(すぐには)消えない。残った多くの種(さまざまな段階の旧種)のうち、あるものは絶滅し、あるものは存続する。
前項で述べたことは、現実の世界に見て取れる。
この世界には、下等な生物がたくさんいる。細菌もいるし、節足動物もいるし、魚類もいるし、両生類もいるし、爬虫類もいるし、哺乳類もいる。では、なぜ、古い種が絶滅しないでいるのか? なぜ古い種が新しい種に交替しないのか?
この問題に対して、従来の説では、こう答えた。
「いずれも環境に適したものが残ったのだ。魚類は水中では人間よりも環境に適している。だから残ったのだ」
この説によれば、今の魚類は人間と同じぐらい進化した生物だ、ということになる。生存している環境が異なるだけで、魚類も人間も同じぐらい進化した生物だ、と。当然、節足動物も、細菌も、人間と同じぐらい進化していることになる。
しかし、新しい解釈では、そういう見解は取らない。かわりに、こういう見解を取る。
「既存の種は、すべて、大進化が止まった種である。進化はすべて、『新種の追加』という形で生じた。ただし、その新種が発生した時点が異なる。新人(クロマニョン人)が誕生したのは二十万年前だった。初期の人類である猿人が誕生したのは、五百年ぐらい前だった。魚類が誕生したのは3億〜5億年ぐらい前だった。細菌が誕生したのは、十億年以上前だった。……これらの種が同じぐらい進化している、ということはない。新種は既存の種の上に、積み上げられる形で、追加された。既存の種がだんだん変化したのではない」
たとえば、人間という種は、細菌が長い時間をかけて少しずつ変化したことで生じたものではない。細菌を一段目として、その後、二段目、三段目、というふうに、多大な「種の追加」を蓄積した上に、頂点のあたりに追加されたものだ。そして、その追加があったとしても、一段目、二段目、三段目……などの段が消滅する(淘汰される)わけではないのだ。「追加」は「交替」ではないのだから。
進化とは、「種の追加」であって、「種の交替」ではないのだ。
これが進化についての、新しい説からの解釈だ。
進化論には、さまざまな解釈が存在する。
まず、(1) の「個体淘汰」という概念が生じた。
さらに、(2) の「遺伝子淘汰」という概念が生じた。そのなかには、「集団遺伝学」、「利己的遺伝子説」、「中立説」などもある。
その後、(3) の「クラス淘汰」という概念も生じた。(本サイト)
これらのうち、どれが正しいかは、現実との照合(検証)によって判明する。だから、あとは、検証すればいい。
なお、次のように解釈するのは、誤りである。
「進化論は、(2) の遺伝子淘汰説だけが絶対的に正しい。これによって進化のすべては完全に解明されている。これに異を唱える学説はトンデモである。」
このような解釈は、初心者にはありがちだが、専門家の間では認められていない。どの学問分野であれ、標準的な解釈のほかに、非標準的な解釈もある。なぜなら、どの学問分野も、いずれも未解決の問題を抱えているからだ。そして、未解決の問題を解決するためには、標準的な解釈のほかに、何らかの新しい説を待たなくてはならない。……物理学であれ、数学であれ、天文学であれ、生物学であれ、未解明の問題はいまだにたくさんあるし、それらの問題を解決するために新しい説が待たれている。進化論もまた、同様である。
[ 付記 ]
ただし、超初心者だけは、標準的な説を覚えておくだけでいい。超初心者は、学問の最先端の領域には、足を踏み入れる必要はない。非主流派の説をいちいち勉強する必要はない。教科書ふうの基礎的常識だけを理解しておけばいい。それ以外の最先端の説には、目をふさぎ、耳を閉じていてよい。超初心者というのは、そういうものだ。
もう少し、話を追加しておこう。たいした話ではないが。
前述の (2)[従来の説] と(3)[新しい説] には、次の違いも生じる。
「従来の説では、自然淘汰ゆえに、あらゆる個体から『劣る遺伝子』が消失して、優秀な遺伝子ばかりをもつようになるはずだ。しかし新しい説では、『劣る遺伝子』が消失しないで、いつまでも残るのが普通だ」
このことは、「ノイズ効果」という言葉で説明される。詳しい話は、(もともとは本文書のこの箇所にあったのだが)次の箇所に移転した。
→ 参考(別の表現)
→ ノイズ効果の図式的説明
補足
以下は、補足としての説明だ。細かな話なので、特に読まなくてもよい。
(前述の話に納得ができたのなら、以下の話は読まなくてもよい。前述の話に納得できない人のために、以下では補足的な説明を加える。)
進化の断続性について説明しておく。
「小進化の蓄積によって大進化が起こる」
という説がある。漸進的進化を唱える説である。これは断続的進化を唱える説とは逆だ。
クラス進化論は、漸進的進化を否定し、断続的進化を肯定する。この件について説明しよう。
「進化の断続性」は、「必ず断続している」というふうに説明されるのではなく、「進化の連続性は否定される(肯定されない)」という形で説明される。
つまり、「連続していると仮定すると矛盾が生じる」という形で説明される。直接的な説明ではなく、「反対の説の矛盾をつく」という形だ。換言すれば、「進化の連続性は根拠不十分」というふうに述べる。
では、どうして、「進化の連続性は根拠不十分」と言えるのか? それは、次のことからわかる。
「(旧種と新種の)中間種が見つからないから」
ここで、注意しよう。この表現は、あまり正確ではない。なぜなら、「まだ見つかっていないだけ」という弁明が成立するからだ。だから、より正確に言えば、次のようになる。
「(旧種と新種の)中間種でないものばかりが見つかるから」
数が少なければ「まだ見つかっていない」で済むが、数が多くなると、「まだ見つかっていない」では済まない。
このことは、次の比喩からわかるだろう。
例。福引きで、福引き器のガラガラ(というらしい)を回す。
五回引いたら、赤と白だけが出てきた。この中には、赤と白だけがあるのかもしれないし、他の色もあるのかもしれない。他の色はまだ見つかっていないだけかもしれない。五回だけなら、何とも言えない。
しかし、百回引いても、赤と白だけなら、「赤と白のほかには、たぶんないのだろう」と強く推定できる。少なくとも、「無数の色が連続的に分布している」という仮説は、ほぼ完璧に否定できる。
例。
光の波長の分布は、連続的か断続的か?
太陽の光線のスペクトルを取ると、連続的に分布していた。これは明白に連続的だ。( → 画像 )
水素原子のスペクトルを取ると、断続的に分布していた。これはバルマー系列という。( → 画像 )
水素原子のスペクトルは、数回だけの観測なら、「途中の波長は見つかってないだけだ」と片付けることもできる。しかし、何回観測しても、「途中の波長は見つからない」という結果が得られるなら、「断続的に分布している」と強く推定される。少なくとも、「無数の波長が連続的に分布している」という仮説は、ほぼ完璧に否定できる。
例。
人類の化石を過去五十万年間の地層から掘り出した。初めは、旧人の化石が2体と、新人の化石が2体見つかった。これだけなら、「中間種はまだ見つかっていないだけだ」という可能性もある。しかし、もっと多数を掘り出しても、いずれも旧人か新人か、そのどちらかであった。
仮に、中間種が連続的に分布していたとすれば、そういうこと(どちらかだけに限られること)は、確率的にありえない。かくて「連続的に分布する」という仮説は、確率的に強く否定される。(確率的推定。)
以上に基づいて、さらに図で示そう。
数百万年の単位で見て、次のような図が書けたとする。( ・ は化石。)
│
│ ・ 種4
│ ・ 種3
│ ・ 種2
│ ・ 種1
└──────────→ 時間
この図の場合には、二つの点の途中に、新たに中間点が発見される可能性はある。(なぜなら、発見されたものの総数は非常に少ないから。)
一方、数十万年ぐらいの単位で見て、次の図も考えられる。
│
│ ………… 新種
│
│ ………… 旧種
│
└──────────→ 時間
この図では、ある時点(t2 )までは旧種ばかりが発見され、ある時点(t1 )以後では新種ばかりが発見される。その途中では両者がともに発見される。
では、今後、新たに発見されるとしたら、どんなものが発見されるだろうか? 当然ながら、それは、旧種または新種だろう。中間種が発見される可能性は非常に小さい。(もし中間種があるなら、とっくに見つかっていたはずだからだ。見つからない確率は非常に小さい。なぜなら、すでにたくさんのものが発見されているから。)
( ※ 上記の話は、南堂の独自の解説である。ただし、これとは別に、次の [ 付記 ] の論拠も、広く知られている。こちらは南堂の独自の解説ではない。)
[ 付記 ]
上記では、漸進的進化を主張する説(連続説)に対する反証として、
「(旧種と新種の)中間種が見つからない」
ということを述べた。このことは、
「進化には跳躍がある」
というふうに述べることもできる。跳躍の部分では、中間種なしに、一挙に跳躍するわけだ。(数字でいえば、2から3に跳躍して、中間点の 2.5 のような値がない。)
一方、漸進的進化を主張する説(連続説)に対する反証としては、別の論拠もある。それは、
「進化には停滞がある」
ということだ。旧種なら旧種のまま停滞し、新種なら新種のまま停滞する。(数字でいえば、2の状態がしばらく続き、その後、3の状態が続く。つまり、「2.1 → 2.2 → 2.3 → 2.4」というふうに連続的に変化しない。)
たとえば、ネアンデルタール人はどれも同じような同一種であり、クロマニョン人はどれも同じような同一種である。せいぜい肌の色や鼻の形が違うぐらいで、しょせんは同一種である。
また、恐竜でも同様で、ティラノサウルスはどれも同じような同一種であり、ステゴサウルスはどれも同じような同一種である。
仮に、漸進的進化を主張する説(連続説)が正しいとしたら、こういうことはありえない。時間の経過に連れて、どれもが少しずつ異なっていていいはずだ。
以上のことは、人間だけに当てはまるわけでもなく、恐竜だけに当てはまるわけでもなく、あらゆる種に当てはまる。哺乳類でも爬虫類でも両生類でも魚類でも、あらゆる生物のどんな種にも当てはまる。種というものは常に一定の状態を保っているのであって、時間につれてどんどん変化したりしないのだ。とすれば、
「進化には停滞がある」
ということになる。
( ※ 以上のようにして、「進化には停滞がある」ということと、「進化には跳躍がある」ということが、ともに示されたことになる。この二つのことから、漸進的進化を主張する説には、しっかりとした反証があることになる。)
題 名 進化論の初歩
著者名 南堂久史
Eメール nando@js2.so-net.ne.jp
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/
[ END. ]