ドーキンス説の問題

 以下の文章のうち、ドーキンス(利己的遺伝子説)について言及した分は、内容が古くなっています。
 核心を突いた新たな内容は、次の文書をご覧ください。
   → 利己的遺伝子とは
   → 血縁淘汰説とは
 重要な点は、前者の文書の、前半部分に書いてあります。
 詳細は、後者の文書に、要点が記してあります。細かな点は、そこからリンク先をたどってください。
 
 なお、本文書(現在見ているこの文書)は、利己的遺伝子説についてはピンボケな点(核心でない点)が多くありますが、それぞれの論点は、進化論の話題の一部として、読むことができます。(ただし、あまり重要な論点ではありません。本文書の全体は、特に重要な話題を述べていません。)



 「ドーキンス説はごく当たり前のことを述べているだけだ」と思い込んでいる人が多い。しかし、実は大きな問題がある。


  【 要点 】
 この文書の要点を示す。
 私の主張について、「ドーキンス説を全否定している」という見解がある。だが、それは誤解である。まず、大方の見解は、こうだ。
 ドーキンス説は、「増えるべき遺伝子が増える」というようなことを言っているだけである。当り前のことを言っているだけだ。ゆえに、ドーキンス説は特に否定するには値しない。(つまり、ドーキンスは言い換えをしただけであって、学問的な業績は何もない。)
 ここから、「ドーキンス説を否定する南堂久史は(トートロジーを否定しているから)トンデモだ」という見解が生じる。だが、これは大いなる誤解である。
 私がドーキンス説を否定しているのは、上記の点ではない。以前の説に対するドーキンス説の独自性を否定しているのではない。むしろ、以前の説もひっくるめて、これまでの進化の原理を否定している。すなわち、次の説だ。
 「有利な遺伝子(増えるべき遺伝子)は増える。だから、進化が起こる
 私は、緑の部分を否定しているのではない。紫の部分を否定しているのだ。(多くの人はそこを誤解する。)
 ここで、緑の部分は、小進化の説明だ。紫の部分は、大進化の説明だ。
 この文の全体を見ると、緑の部分(≒ 小進化)は成立するが、紫の部分(≒ 大進化)は成立しない。つまり、小進化の蓄積が大進化になるわけではない。──それがつまり、私の説だ。
 私は、ドーキンス説に固有な特徴を否定しているのではなく、大進化の原理そのものを否定している。私が何を否定しているか、勘違いしないでほしい。
 「南堂久史はドーキンス説を読んでいない」という批判をよく聞くが、彼らの信じているドーキンス説(緑の部分)と、私の指摘しているドーキンス説(紫の部分)とは、言葉はどちらも「ドーキンス説」であっても、意味するところが異なる。
 また、適用場面も、私は大進化だけに言及しているのであって、小進化には言及していない。この点も誤解しないようにしてほしい。

( ※ なお、南堂説とは何かというと、次のことだ。
    「大進化は、小進化の蓄積ではない。」
    「大進化には、小進化とは別の原理がある。」
   この主張のもとで、新たな進化の原理を提出する。それが南堂説。)


個体と遺伝子


 ドーキンス説については、
 「ドーキンスの利己的遺伝子説は、ただの自然淘汰説と同様である。ダーウィンの自然淘汰説(優勝劣敗)を、個体でなく遺伝子に当てはめただけだ。別におかしいところはない」
 と思い込んでいる人が多い。しかし、これは世間ないし学界によくある誤解である。その勘違いを指摘しよう。

はじめに


 まず、ドーキンス説を解説しよう。
 ドーキンスの利己的遺伝子説は、次の二点からなる。
 (1) 自然淘汰
 (2) 遺伝子主義
 この二点が骨格だ。以下では、この二点について、順に論じよう。


(1) 自然淘汰

 自然淘汰の概念は、ドーキンスもダーウィンも同様である。「優勝劣敗」「適者生存」である。これは、「優者が増え、劣者が減る」ということであるが、結果的に残ったものを「優者」と見なすだけだから、単に、「増えるものは増えて、減るものは減る」と述べているだけだ。ただのトートロジー(同語反覆)にすぎない。
 一応、そう理解される。ただ、それで済むのか?

◆ ふるい

 では、本当は? 正確に言えば、次のようになる。
 「環境のせいで、多様な遺伝子がふるいにかけられる。増えるものと減るものとに分けられる」

 たとえば、大小の豆が混在しているとしよう。これをふるいにかけると、大だけが残り、小がすりぬける。こうして、大小が区別される。……これがつまりは、自然淘汰の概念だ。環境の影響が強ければ、ふるいの効果が高まる。環境の影響が弱ければ、ふるいの効果が弱まる。
 だから、「自然淘汰」というのは、見かけ上は「優勝劣敗」であるのだが、本当は、「ふるいがあること」である。つまり、「優者と劣者の区別のつかない状態のかわりに、優者と劣者の区別のつく状態があること」である。一言で言えば、「選別」「フィルター効果」だ。これが自然淘汰の概念である。

 自然淘汰概念は、一見、トートロジーを述べているように見える。だが、それは、「フィルターがあること」を前提にしているからだ。本当は、この前提が成立することこそが、自然淘汰の概念なのである。
 つまり、「優者が増え、劣者が減る」ということではなくて、「優者が増え、劣者が減る、という状況が成立すること」が、自然淘汰という概念なのだ。
 そういう状況が成立するならば、その状況において、前述のトートロジーが成立する。

◆ トートロジーではない

 さらに詳しく論じよう。
 実は、上のトートロジーは、本当はトートロジーではない。なぜか? 「減るものは減る」ということは、成立しないからだ。

 たとえば、「肥満体型」という形質がある。この形質は、多数派を占めない。多数派になれば、その形質は減少する。つまり、不利な形質である。
 では、この不利な形質は、減るか? 一般的には、次のように言える。
      ( ※ なお、どうしてそうなるか、という理由は、
         後述の「ノイズ効果」からわかる。)

 ここでは、「不利な形質は減る」とは言えないのだ。「不利な形質は、多数派のときには減るが、いったん減ったら、もはや減らなくなる」というふうになる。
 つまり、「減るものは減る」という認識は、正しくない。むしろ、こう言える。
 「ある形質について、単純に『減るもの』とか『減らないもの』とかいうふうに決めつけることはできない。一つの形質が『減るもの』から『減らないもの』に転じることがある。いわば、白いものが黒いものに転じるように」

 遺伝子の増減については、「白いものは白い」というような単純な認識は、不正確な認識なのだ。正しい認識は、「白いものが黒くなることもある」という認識だ。
 カエデの葉っぱを見て、「緑のものは緑だ。ゆえに、カエデの葉っぱは緑なのだ。これはトートロジーである」という認識は、科学的ではない。むしろ、「緑のものは赤くなることもある。ゆえに、カエデの葉っぱは赤くなることもある。これが事実だ」というふうに、事実を正しく認識することが、科学的な態度だ。

 遺伝子の増減については、「増えるものは増える」「減るものは減る」というような、小学生並みの単純な認識をするべきではない。むしろ、次のように認識するべきだ。
 「フィルター効果(ふるい)が、発現したり発現しなくなったりする」
 「同一の遺伝子についても、自然淘汰の効果が、発現したり発現しなくなったりする」
 「遺伝子の残存率は、一定ではない。集団中における個体数の増減に応じて、残存率が可変的に変動する」

 最後のこと(残存率が可変的に変動すること)が、重要である。この値は、定数ではない。なのに、この値を定数だと見なすのが、従来の認識の誤りだ。定数でないものを、定数だと見なすのだから。


(2) 遺伝子主義

 では、ドーキンス説は、ただの自然淘汰説なのか? いや、違う。そこでは、「遺伝子を単位とした自然淘汰」という発想がある。  この発想は、「個体を単位とした自然淘汰」というダーウィンの発想と対比される。
 前者(ドーキンス説)は、「遺伝子淘汰」という発想である。
 後者(ダーウィン説)は、「個体淘汰」という発想である。

 では、クラス進化論は? そのいずれでもない。次のようになる。
 「複数(2万個以上)の遺伝子をもつ個体を単位とした自然淘汰」
 この発想では、遺伝子が増減するのだが、その差異、一つ一つの遺伝子を単位として増減するのではなくて、複数(2万個以上)の遺伝子をもつ個体がひとまとまりとなって増減する。
 ここでは、「単一の遺伝子」の増減ではなく、「遺伝子セット」の増減がある。

 このように、「単一の遺伝子/遺伝子セット」というふうに、数的な増減の単位が異なる。ここが、利己的遺伝子説とクラス進化論との差だ。
 二つの説の違いに、留意しよう。

 クラス進化論について、「遺伝子の増減という遺伝子淘汰の説を批判するのは、けしからん。増えるものは増えるし、減るものは減るのだから、遺伝子淘汰は正しい」という批判がある。しかし、これは勘違いだ。クラス進化論は「遺伝子の増減」ということを否定しているのではなくて、「遺伝子の増減」の単位を「単一の遺伝子」から「遺伝子セット」に変更しているだけなのだ。

 具体的に説明しよう。
 Aという遺伝子が単独で増減するのではなくて、(道連れにするように)他の遺伝子もいっしょに増減する。
 逆に言えば、Aという遺伝子が増減する際には、(道連れにされるように)他の遺伝子の影響を受けながら増減する。

 さらに具体的に示そう。
 肥満という体型は、形質的には不利な体型である。ここで、「肥満体型」という単一の遺伝子があるのではなくて、「栄養摂取」や「脂肪分解」や「食欲増進」などの、さまざまの遺伝子が同時に関与している。「栄養摂取」が多くても、「脂肪分解」が多ければ、肥満にならない。「栄養摂取」の遺伝子の効果が、「脂肪分解」の遺伝子の効果で、相殺される。……こういうふうに、複数の遺伝子が同時に関与して、たがいに相互影響がある。だから、「単一の遺伝子が、他の遺伝子型とは無関係に、独立的に増減する」ということは、成立しないのだ。

( ※ なお、もっと詳しい説明は、最後の [ 補足 ] を参照。図で説明している。)



 【 参考 】
 最近の実験科学の事情を示そう。
 最近、実験的な遺伝子研究では、「遺伝子がそれ単独で発現する」というふうに見なすことはしない。かわりに、「複数の遺伝子が相互に関連しながら機能を発揮している」というふうに見なす。そして、複数の遺伝子の協同的な活動を、動的に研究する。
 たとえば、性ホルモンを分泌する際にも、特定の一つの遺伝子が機能するのではなく、複数の遺伝子が関連しながら機能している。
 遺伝子は、一つ一つが単独のバラバラのものではなくて、全体として巨大なネットワークのようなものを作っているのだ。(小さなネットワークがたくさんある、と見なすといい。)
 こういう関連性を研究するのが、最新の実験的な遺伝子研究だ。
 ( → google検索



(3) 論点

 上記の「遺伝子主義」の問題について、さらに詳しく論じよう。
 (なお、以下では、「遺伝子セット」という言葉は使わず、かわりに「個体」という言葉を使う。どっちみち、ほとんど同じことである。)

◆ 個体と遺伝子

 ダーウィン説とドーキンス説を比べると、選別されるものが「個体/遺伝子」という差がある。この差は、何を意味するか? こうだ。
  ・ ダーウィン説 …… 個体の差が、選別をもたらす
  ・ ドーキンス説 …… 遺伝子の差が、選別をもたらす

 こうしてみると、ダーウィン説よりはドーキンス説の方がもっともらしい、と感じる人が多いだろう。そして、そこにこそ、陥りやすい落とし穴がある。

◆ ドーキンス説の核心

 仮に、ドーキンス説が成立するとしたら、こうなる。
 「遺伝子の差が、個体の生存率の差となって現れる」

 これが成立するためには、次のことが必要となる。
 「遺伝子の差が、個体の行動の差をもたらす」

 これが成立するためには、次のことが必要となる。
 「遺伝子が、個体の行動を決める」
 「遺伝子が、個体を操作する」

 これがつまりは、「利己的遺伝子説」の核心だ。文学的に言えば、こうだ。
 「個体は、遺伝子の『乗り物』にすぎない」
 これはドーキンス自身の言葉である。かなり有名な言葉だ。

◆ 個体は遺伝子の乗り物か?

 では、「個体は、遺伝子の『乗り物』だ」ということは、成立するのか?
 一般には、「成立する」と見なされている。大半の進化論学者がそう感じている。たとえば、次のように。
「遺伝子が個体を操作する」というふうになる。
遺伝子のうち、育児をしたがる遺伝子を持つ個体は、育児をするので、その結果として、その個体の子孫の細胞に含まれる同種の遺伝子を繁殖させることができるので、結果的にその遺伝子が多数派になる。
Openブログの読者コメントからの引用。)
 ここでは、育児をするという遺伝子があって、そういう遺伝子が親である個体を操作した、というふうになる。つまり、「遺伝子が個体を操作する」というふうになる。

遺伝子のうち、その遺伝子を持つ個体の脳をして「自分の子がかわいい」と思わしめるような脳を構成することに成功した遺伝子は、自分を細胞内に持つ個体が、まさに自分の子をかわいいと思うがゆえに、自分の子を安全に育成し、子孫を残しやすくなるので、その結果として、その個体の子孫の細胞に含まれる「自分と大変よく似た遺伝子」を繁殖させることができるので、結果的に遺伝子としての多数派になる。
Openブログの読者コメントからの引用。)
 ここでは、「わが子はかわいい」と思うような遺伝子があって、そういう遺伝子が個体を操作した、というふうになる。つまり、「遺伝子が個体を操作する」というふうになる。

 いずれの場合でも、「遺伝子が個体を操作する」というふうになる。つまり、(2) の「遺伝子主義」が成立する。
 そして、そのこと( (2) の成立)をあらかじめ前提とすれば、(1) の「自然淘汰」のことゆえに、「ドーキンス説は当り前のことを述べているだけだ」というふうに結論するようになる。

◆ 複数の遺伝子

 しかし、問題は、(2) の遺伝子主義なのだ。これをあらかじめ前提としていいのか?
 実は、そうではない。遺伝子主義は、実は正しくはないのだ。このことについては、クラス進化論で述べた。次の箇所を参照。
   → http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_01.htm#05

 そのうちの一つは、こうだ。
 「一つの個体の行動を決めるために、複数の遺伝子があって対立するので、遺伝子同士に対立ないし矛盾が生じる」
 言い換えれば、こうだ。
 「たくさんある利己的な遺伝子が別々の行動を促すので、一つの個体の行動に相反が生じる。」
 たとえば、次の例がある。
 つまり、「父親としての意識」は、育児の負担を考えるが、「スケベ男としての意識」は、育児の負担を考えない。この二つは、矛盾する。それぞれの意識を決める遺伝子があるとして、複数の遺伝子が対立する。ゆえに、「遺伝子が個体を操作する」という発想は、成立しがたい。(ブレーキとアクセルを同時に踏むのと同じ。決定不能。)

◆ 複数の遺伝子の競合

 一般に、個体には、複数の遺伝子(2万以上の遺伝子)が同時に併存する。これらの遺伝子がたがいに独自の方向に進もうとする。そのなかには、矛盾する方向に進もうとするものもある。一例が、上記のように、「妊娠を認める/妊娠を認めない」という二つの方向だ。
 他にもいろいろな例がある。目前の子供が熊に襲われようとしているときに、親である獣(狼・鹿など)は、自分を犠牲にしても子を守ることがある。ここでは、個体としての損害と、次世代の子を守ることの利益とが、矛盾する。とすれば、複数の遺伝子の利害が矛盾する。
 ここで、「個体の行動は個体が決める(脳が決める)」という生物学的な発想を取れば、何も問題はない。しかし、「個体の行動は遺伝子が決める」という進化論的な発想を取れば、複数の遺伝子の利害が競合するので、個体はどんな行動も取れなくなってしまう。その場合は、「行動できなくなって親も子も熊に食われる」という結果になる。最悪。

 要するに、「個体の行動は遺伝子が決める」という進化論的な発想を取るならば、複数の遺伝子の競合のせいで、個体はどんな行動を取るか決まらなくなる。ある遺伝子は「右が有利だ」と主張し、他の遺伝子は「左が有利だ」と主張する。その他、前だの後ろだの、上だの下だの、あちこちあって、行動は決まらない。
 かくて、利己的遺伝子説は、論理的に破綻する。

◆ 利己的遺伝子説の錯誤

 利己的遺伝子説が成立するのは、「一つの個体には一つの遺伝子しかない」という場合だけだ。そういう場合ならば、遺伝子の利害と個体の利害が一致するから、利己的遺伝子説は成立する。
 しかるに、現実には、「一つの個体には複数(数万)の遺伝子がある」というふうになる。その場合には、「一つの個体には複数(数万)の遺伝子がある」ということを前提として、新たに別の理論を構築する必要がある。利己的遺伝子説とは異なる理論を。
 そうしてできた理論が、「クラス進化論」だ。クラス進化論の発想は、「マトリックス淘汰」という概念で説明される。

 クラス進化論と他の理論との差は、何か? 自然淘汰における選別の際に、次の原理の差がある。

  ・ ダーウィン説 …… 個体が行動を決めて、個体が選別される。
  ・ ドーキンス説 …… 遺伝子が行動を決めて、個体が選別される。
  ・ クラス進化論 …… 複数の遺伝子が行動を決めて、複数の個体が選別される。

 ダーウィン説では、一つ一つの個体が選別される原理を考える。そこでは、一つ一つの個体が理由となる。
 ドーキンス説では、一つ一つの個体が選別される原理を考える。そこでは、一つ一つの遺伝子が理由となる。
 クラス進化論では、複数の個体が個体が選別される原理を考える。そこでは、複数の遺伝子が理由となる。

◆ モデル的な説明

 モデル的・比喩的に言おう。
 ドーキンス説では、一つのコップに一つの遺伝子が入っている。そういう状況を複数のコップで考慮している。
 この場合、一つの遺伝子の優劣が、コップの優劣につながる。すると、
 「(一つの)遺伝子が個体を操作する」
 「個体は遺伝子の乗り物である」
 という結論が生じる。

 クラス進化論では、一つのコップに一つの遺伝子が入っている。通常、2万個以上入っている。この場合、一つの遺伝子の優劣が、コップの優劣につながらない。したがって、
 「(一つの)遺伝子が個体を操作しない」
 「個体は遺伝子の乗り物ではない」
 という結論が生じる。

 こうして、ドーキンス説の「個体は遺伝子の乗り物である」という結論が否定される。

( ※ なお、ここでは、自然選択を否定しているのではなく、「(一つの)遺伝子が個体を操作する」ということを否定している。勘違いしないように。)

◆ ミクロとマクロ

 ダーウィン説やドーキンス説では、あくまで、物事を一つ一つ個別に見るだけだ。経済学用語で言えば、ミクロ的な視点だ、と言える。
 クラス進化論では、物事を一挙に全部を見る。経済学用語で言えば、マクロ的な視点だ、と言える。
 このように「ミクロ/マクロ」という発想の違いがある。この発想の違いに留意しよう。

( ※ さらに詳しい話は、「クラス進化論の概要」 を参照 )
( ※ 「ミクロ/マクロ」という発想については、 Open ブログ 「個人と全体」 を参照 )



【 参考 】  集団遺伝学という概念もある。
 集団遺伝学は、ドーキンス説の「一つ一つ」という発想を、集団全体に当てはめたものだ。原則的には「一つ一つ」の遺伝子を見るのだが、その際、多くの個体についてまとめて、「一つ一つ」を見る。たとえば、「好色」の遺伝子について、集団全体を見る。
 ここでは、個体については集団全体を見る。しかし、遺伝子については「種(たとえば人間)の遺伝子全体」を見るわけではない。「好色」の遺伝子を見るだけであり、「責任感」の遺伝子を見るわけではない。つまり、複数の遺伝子を同時に見ることがない。それゆえ、複数の遺伝子の相互的な干渉(つまり競合)を、見ることがない。

 わかりやすく説明すると、こうだ。
  ・ 集団遺伝学  …… ( 1 in 1 )× m
  ・ クラス進化論  …… ( k in 1 )× m

 前者は、一つの個体に一つの遺伝子がある。それが m 個の個体からなる集団で考えられる。
 後者は、一つの個体に k 個の遺伝子がある。それが m 個の個体からなる集団で考えられる。


不適者残存


 「適者生存」という自然淘汰の原理は、無制限に成立するだろうか?
 もし「適者生存」という原理が無制限に成立するならば、人は誰しも、容姿秀麗であり、体力頑強であり、知能優秀であるはずだ。なぜなら、そういう遺伝子ばかりが残るはずだからだ。
 しかし現実には、そうではない。人は誰しも、どこか不完全な形質をもつ。いわば、「不適者残存」という状態だ。これは、「適者生存」という原理に反する。
 では、なぜ、こういうことが起こるのか?

はじめに


 簡単に答えを言おう。「適者生存」という自然淘汰の原理は、無制限に成立することはない。この原理は、誤りではないが、あらゆる局面で無制限に成立するわけではない。つまり、部分的に制約を受ける。
 要するに、この原理は、ある種の補正を施される必要がある。

 一般に、どんな学問でも、同様のことが起こる。物理学でも化学でも天文学でも、何らかの原理が提出されたあとで、やがては、その原理が部分的に補正を受けるものだ。そういう補正を探ることが、科学的であるということだ。「現状の科学は完璧であって補正の必要はない」と思い込むのは、非科学的な態度である。他人の批判を聞かないところには、進歩はない。

 以上の前置きをしたあとで、「適者生存」という原理について難点を示そう。

自然淘汰の部分的不成立

 利己的遺伝子説によるならば、レイプであれ何であれ、残った形質は優れた形質ばかりになるはずだ。(遺伝子の適者生存)……レイプが有利ならレイプをするはずだし、レイプをしないのが有利ならレイプをしないはずだ。同様に、背が高いのが有利なら背が高いはずだし、背が低いのが有利なら背が低いはずだ。……こうして、あらゆる個体は、いずれも有利な形質だけを備えて、均質化されるはずだ。たとえば、全員がレイプをしたり、全員が背が高くなる。
 現実には、そうではない。現実の個体は、有利な形質をもつものと、有利でない形質をもつものが、混在する。(不適者の部分残存)……つまり、自然淘汰が(部分的に)成立しない。自然淘汰が不完全になる。

理由の説明

 このこと(自然淘汰が不完全になること)は、問題だ。では、このことは、なぜ起こるのか?
 現代進化論(ドーキンス説など)では、残念ながら、このことを説明できない。強いて言えば、「背が高いのも背が低いのもどちらも有利だからだ」というような、牽強付会(けんきょうふかい)の説が出ることになる。

 一方、クラス進化論では、説明できる。次のように。
 「一つの個体に、複数の遺伝子がある。ゆえに、個体の優劣の発現の際に、遺伝子の優劣が直接的には現れない。個体の優劣と、遺伝子の優劣は、同じでない。個体は、Aという遺伝子では有利でも、Bという遺伝子では不利だ、ということがある」

 簡単に言えば、こうだ。
 「現代進化論では、個別の遺伝子の評価だけを考えるので、あらゆる遺伝子はすべて優者たる遺伝子ばかりになる。ゆえに、あらゆる人間は、すべての遺伝子が優秀になる。あらゆる人間はみな容姿秀麗であり、体力頑強であり、知能優秀で、完全なスーパーマンばかりになる」
 「クラス進化論では、複数の遺伝子の評価を考える(つまり、複数の遺伝子の組み合わせの優劣を考える。) すると、いくつかの遺伝子が部分的に劣っていても、他の人もまた同様であれば、その個体は特に不利にはならない。なぜなら他者もまた不完全であるからだ。かくて、あらゆる人間は、誰もが不完全である。『すべての遺伝子が優秀である』ということはない。たとえば、容貌が優れない人もいるし、体力が優れない人もいるし、知能が優れない人もいる。あらゆる人間はみな不完全である」

論理的帰結

 二つの立場から、異なる論理的帰結が出る。
 ドーキンス説(などの現代進化論)が正しいのであれば、不完全な遺伝子をもつ人は、すべて死んでしまうのが当然だ。たとえば、「容姿秀麗であり、体力頑強であり、知能優秀だ」というのでなければ、その人は死んでしまうのが当然だ。そうすれば、人類はみな、「容姿秀麗であり、体力頑強であり、知能優秀だ」というふうになるので、とても好ましいことだ。
 クラス進化論が正しいのであれば、不完全な遺伝子をもつ人は、すべて生存するのが当然だ。たとえば、「容姿秀麗が劣る」「体力が劣る」「知能が劣る」という形質のいずれかをもつ人は、(その形質が致命的でない限りは)生きる権利がある。なぜなら、人は誰もが不完全だからだ。人は誰もが、複数の遺伝子をもち、複数の遺伝子のなかには不完全な遺伝子も含まれるからだ。誰もが不完全であれば、不完全さがことさら不利になることはありない。

 ドーキンス説を信じるのであれば、「種のなかには不利な遺伝子が残存するべきではない」と考えるべきだ。そして、人類の進歩のために、不完全な遺伝子をもつ人をすべて、断種・不妊にするべきだろう。そうすれば人類は進歩する。(ヒトラー並みの優生思想。)
 クラス進化論を信じるのであれば、人類の生存のために、真実を直視するべきだ。「人は誰もが不完全なのだ」「種のなかには不利な遺伝子が多様に残存するのが当然なのだ」と、真実を直視するべきだ。そして、真実を直視すれば、たがいに思いやりをもてるだろう。……人が思いやりをもてるのは、思いやりのある遺伝子があるからではなくて、真実を直視するからだ。どんな遺伝子をもとうが、真実を直視せずに、「優れた遺伝子が残るのだ」という妄想ばかりを信じていれば、ユダヤ人を皆殺しにしようとしたヒトラーと同じことになる。


 【 参考 】別の表現
      ( ※ すぐ上で述べたことを、別の形で表現する。特に読まなくてもよい。)
      ( ※ 古い文書から移転したもの。)

 従来の説と新しい説とでは、次のような違いが生じる。
  •  従来の説 …… 「人間は誰しも最優秀の遺伝子をもつ。すなわち、人間は誰しも、容貌は美しく、知能は優秀で、体力は強健である。誰もが最優秀の資質を持ちながら、あらゆる人間はほとんど均質になる。仮に、劣った遺伝子をもつ個体が存在すれば、その個体は淘汰される
  •  新しい説 …… 「人間は誰しも最優秀でない遺伝子をもつ。すなわち、人間は誰しも、やや劣者である形質の遺伝子をもつ。容貌は美しくなくてよく、知能は優秀でなくてよく、体力は強健なくていい。誰もがいくらか劣った形質を持ちながら、その一方で、何らかの優れた形質をもつ。頭が悪くても体力の強い人もいるし、体力がなくても知力の強い人もいるし、性格は悪いが美貌の人もいる。つまり、さまざまな個性が存在する。これらのさまざまな個性のうち、どれが特に有利だということもない。人はそれぞれ、長所も短所ももつ。そうして、人間全体は、非常に多様になる。(均質にならない)。仮に、ある面でだけ劣った遺伝子をもつ個体が存在しても、その個体は淘汰されない
 また、次のような違いも生じる。
  •  従来の説 ……「われわれはみんな、知力も体力も容貌も最高である。どれかが劣っている人間は、人類にとって有害であるから、子供を生まずに滅びてしまえばいい。……種の本質は、弱肉強食であり、優勝劣敗である。人々は、自分が完全な人間であると自惚れて、劣っている個体を蹴散らかしてしまえ。
  •  新しい説 …… 「われわれはみんな、知力も体力も容貌もどれかが劣っている。誰もが劣っているのだから、誰もが個性を認めて、おたがいに仲良く助け合うべきだ。知力のある人は知力を発揮すればよく、体力のある人は体力を発揮すればいい。誰もが自分の長所を発揮すればいい。その一方で、自分には足りないものを、他者から受け取ればいい。……種の本質は、多様性である。人々は、自分が不完全な存在であると認めて、たがいに助け合って生きるべきだ。
 

ノイズ効果

 ドーキンス説からは、どうして、おかしな論理的帰結が出るのか? その理由を探ろう。
 実は、ドーキンス説は、「遺伝子の優勝劣敗で進化が起こる」ということだけを唱えた、一種の妄想なのだ。
 この説では「一つの個体には複数の遺伝子がある」ということが忘れられている。そのせいで、「遺伝子の優劣と、遺伝子の増減とは、必ずしも一致しない」ということが忘れられている。

 遺伝子の優劣は、遺伝子の増減とは、必ずしも一致しない。多くの人が少しずつ不利な形質をもてば、多くの人がみな不利な形質を少しずつ残したまま、種全体における不利な形質を消滅させないのだ。遺伝子の不利な形質が、遺伝子の残存に反映しないのだ。──このことをクラス進化論では「ノイズ効果」という。

( ※ 比喩的に、次のことを思い浮かべてほしい。静かな部屋では、小さな音が聞こえる。しかし、さまざまな音が入り交じっている雑音だらけの部屋では、小さな音は聞こえない。小さな音は、雑音のなかにまぎれてしまって、判別できなくなる。……たとえば、「わいせつ語を言った人を処罰する」という規則をつくったとしよう。静かな部屋であれば、語った一人だけが判明して、処罰される。しかし、大勢の人がいっせいに「ちんぽこ」「きんたま」「ふぁっく」などとしゃべれば、誰が何を言ったか、さっぱりわからなくなる。不利なことを言った人の不利さが判明しなくなる。かくて、誰をも処罰できなくなる。[≒ 淘汰されない])
( ※ 同様に、多くの人がそれぞれ別の不利さをもてば、各人の不利さは大勢の不利さのなかに埋没してしまう。かくて、致命的でないような不利な遺伝子は淘汰されずに残る。つまり、自然淘汰説が部分的に不成立になる。……これがノイズ効果だ。)

 

ノイズ効果の図式的説明

 「ノイズ効果」について、図式的に説明しよう。

 従来の発想(個体には遺伝子が一つだけ)では、こうなる。
  ・ Aという遺伝子では、9点よりも10点の遺伝子が有利だ。
  ・ Bという遺伝子では、9点よりも10点の遺伝子が有利だ。
  ・ Cという遺伝子では、9点よりも10点の遺伝子が有利だ。
 → ゆえに、A、B、Cのいずれの遺伝子も、10点の遺伝子になるはずだ。

 新しい発想(個体には遺伝子が複数)では、こうなる。
  ・ Aという遺伝子だけ 10点なら、合計で 10 + 9 + 9 = 28点。
  ・ Bという遺伝子だけ 10点なら、合計で 9 + 10 + 9 = 28点。
  ・ Cという遺伝子だけ 10点なら、合計で 9 + 9 + 10 = 28点。
 → ゆえに、どの個体も 28点で差が付かないから、どの個体も特に有利ではない。

の根拠は、以下の通り。

 (2)[従来の説] の結論 …… 「現存の個体は、いずれも最優秀の遺伝子をもつ」
 (3)[新しい説] の結論   …… 「現存の個体は、いずれも何か劣る遺伝子をもつ」

 最後のことは、次のように説明される。
 「遺伝子がたがいに《 単独の遺伝子 》として競合するのであれば、優者が残り、劣者が消える。ゆえに、どの遺伝子も必ず最優秀のものになる。」
 「しかし遺伝子がたがいに《 遺伝子の組み合わせ》として競合するのであれば、優者ではない遺伝子もたくさん残る。なぜなら、あらゆる個体がどれもこれも少しずつ劣る遺伝子をもつのであれば、どの個体も特に有利ではないからだ」


根源

 ノイズ効果は、なぜ起こるか? そのことは、クラス進化論からわかる。
 「一つの個体には複数の遺伝子がある」
 ということ。ここから、
 「遺伝子の優劣と個体の増減とは必ずしも一致しない」
 ということが判明する。(前述のように、一つの個体にそれぞれ異なる不利な形質が備わる。そのせいで、小さな不利さが、ノイズに埋もれてしまう。)

 ここでは、「一つの個体には複数の遺伝子がある」ということが重要だ。そして、このことを基本とすると、クラス進化論の発想(マトリックス淘汰の発想)に到達する。
 そして、マトリックス淘汰の発想を取るならば、もはや「個体は(一つの)遺伝子の乗り物である」という発想を捨てなくてはならない。つまり、ドーキンス説を否定しなくてはならない。

結論

 結論を述べよう。
 遺伝子の優劣が遺伝子の増減に直結するとは限らない。つまり、「不適者残存」ということが起こる。
 そして、それを説明するには、「遺伝子の優劣が遺伝子の増減に直結する」ということを否定する必要がある。つまり、「個体は遺伝子の乗り物だ」という発想(ドーキンスの発想)を捨てる必要がある。

 個体は(一つの)遺伝子の乗り物ではない。個体は複数の遺伝子が発現して形成されたものだ。個体の増減を決めるのは、一つ一つの遺伝子の有利・不利ではなく、複数の遺伝子の全体としての有利・不利なのだ。かくて、「有利な遺伝子が増え、不利な遺伝子が減る」とは言えなくなる。つまり、例外・限界が生じる。

 「有利な遺伝子が残存する」ということは、おおまかには正しいが、無制限に成立するわけではない。部分的に不成立となることがある。つまり、従来の説には限界があるのだ。その限界に着目するべきだ。

 どんな学説であれ、限界がある。その限界を知ることで、その先へ進むことができる。なのに、その限界を知らなくては、いつまでもその限界を超えることができない。
 学問を進歩させるために必要なのは、現時点における学問の限界を知ることなのだ。おのれの欠点を理解した人だけが、おのれを進歩させることができる。


補足


利己的遺伝子説とクラス進化論の違いについて、補足的な説明を加えておく。

補足1  次のように単純に発想する人もいるだろう。
 「個体には、一つの遺伝子でなく複数の遺伝子がある、ということか。だが、それなら、ドーキンス説で遺伝子を単数から複数にすればいいだけだ」
 これは正しくない。個体の遺伝子の数を単数から複数にすると、まったく異なる原理が生じる。その原理が「クラス交差」だ。この件については、クラス進化論の説明文書を参照。
( ※ クラス交差は、クラス進化論において最重要の基礎概念。)


補足2  ドーキンス説とクラス進化論は、どう違うか? このことをわかりやすく説明しよう。(図を使う。)
 ドーキンス説とクラス進化論は、「個体には複数の遺伝子がある」ということを認める点では、どちらも同じである。(理論以前の立場では。)

 ただし、ドーキンス説では、次のように仮定している。
 「ある遺伝子の増減については、他の遺伝子の影響は無視していい」
 この仮定が成立する場合には、ドーキンス説は正しいと見なしてもいい。

 しかし、この仮定が成立しない場合がある。つまり、こうだ。
 「ある遺伝子の増減については、他の遺伝子の影響がある」
 こういうことは、しばしば起こる。その一例が、前述の「ノイズ効果」だ。
 また、これが特に典型的に現れるのが、「クラス交差」だ。
 「ノイズ効果」や「クラス交差」は、「複数の遺伝子の相互的な影響」というのが出る場合だ。

 以上のことを、図で説明しよう。

遺伝子inコップ
(1) では、それぞれの遺伝子は、独立している。たがいに相互的な影響がない。それぞれの遺伝子の有利・不利だけを、独立的に考えればいい。



(2) では、それぞれの遺伝子は、関連している。たがいに相互的な影響がある。それぞれの遺伝子の有利・不利だけでなく、他の遺伝子からの影響をも、考慮する必要がある。

 (1) では、有利な遺伝子が増え、不利な遺伝子が減る。
 (2) では、有利な遺伝子が増えるとは限らず、不利な遺伝子が減るとは限らない。特定の遺伝子が有利または不利であっても、複数の遺伝子の全体である個体としては、各遺伝子の有利・不利が相殺しあうことがある。たとえば、青の遺伝子が不利であっても、他の遺伝子が有利であれば、全体としては、その個体は特に不利ではない。

 クラス進化論では (2) の発想を取る。ここでは複数の遺伝子を想定した上で、それらの遺伝子の相互的な影響(相殺関係など)を考慮する。
 こういう発想を取ると、「個体の増減と遺伝子の優劣は必ずしも一致しない」という新たな原理を導入することとなる。

 逆に言えば、従来の発想にとらわれている限りは、「ノイズ効果」や「クラス交差」という概念を理解できない。そのせいで、進化の真実を理解できなくなる。あげく、ヒトラーの優生思想のような馬鹿げた結論にたどり着く。

 【 注釈 】
 ついでだが、注釈しておこう。
 相互影響を無視した場合には、クラス進化論は利己的遺伝子説と同等になる。この意味で、クラス進化論は利己的遺伝子説を全否定しているわけではない。クラス進化論は利己的遺伝子説を拡張したものなのだ。
 物理学で言うと、相対性理論において、光速度を無限大と仮定すると(あるいは物体速度を光速度に比べてゼロ同然だと見なすと)、相対性理論はニュートン力学に一致する。この意味で、「物体の速度を無視すれば、相対性理論はニュートン力学に一致する」というふうに言える。相対性理論は、ニュートン力学を拡張したもの、というふうに位置づけられる。
 同様のことは、進化論にも当てはまる。
   ニュートン力学 : 相対性理論 = 利己的遺伝子説 : クラス進化論
 後者は、前者を拡張したものだ。
 後者は、前者を部分否定しているのであって、前者を全否定しているのではない。

余談


 利己的遺伝子説を信じる進化論学者は、こう主張することが多い。
 「男はみんな浮気をするのが当然だ。そうすればたくさんの遺伝子を残せて有利だからだ」
 こう主張するとき、彼らは自説のどこが間違っているか、わからないのだろう。


  【 注記 】

 ここで「浮気」というのは、通俗的な例である。話をわかりやすくするために、簡易的に比喩的に表現した。現実には「浮気の遺伝子」という単独の遺伝子はない。
 学術的に言うなら、「ミツバチが自分の妹を育てるという本能の遺伝子」という例を取る方がいい。ただし、そういう言い方だと、厳密ではあるが、頭に入りにくい。「浮気の遺伝子」という話の方が、頭にすぐ入る。
 だからここではあえて、不正確ではあるが「浮気の遺伝子」という言葉で説明した。学問的に考えるときには、「ミツバチが自分の妹を育てるという本能の遺伝子」というふうに、いちいち置き換えて読み直してほしい。

( ※ 「そんなことは、いちいち言われなくてもわかっている」と思う人が多いだろう。しかし世の中、読解力のない人が多いので、ここに念のために注記しておいた。)



 自分の遺伝子を多く残すことが生物の目的なのではない。そういう発想は、利己的遺伝子説の根源的に間違っているところだ。生物の目的は、自分の遺伝子を多く残すことではないのだ。このことをはっきりと理解する必要がある。

 仮に、その説が正しいとすれば、こうなる。
 「自分の遺伝子を多く残すことができるのは、細菌やウィルスである。ゆえに、人間は、自分の遺伝子を多く残せるように、細菌やウィルスになるべきだ。それが進化である。さあ、人類を進歩させるために、人類を細菌やウィルスに改造しよう」
 利己的遺伝子説を唱える人は、「自分の遺伝子を多く残すことが有利だ」と唱えているとき、「細菌やウィルスになるのが有利だ」と唱えていることになる。つまり、細菌やウィルスに退化することを進化だと見なしている。理想的な生物である細菌やウィルスに退化することこそ進化だ、と見なすわけだ。
 つまり、「退化 = 進化」だ。自己矛盾。


 【 打ち明け話 】
 実は、生物は、「無性生殖」から「有性生殖」に転じたとき、生物の目的を「量の増加」から「質の向上」へと転じた。「量の増加」を切り捨てて、「質の向上」に専念した。そのことで、以後、急激に進化が進んだ。……こういうことが、クラス進化論からわかる。
 とはいえ、「生物の目的は(遺伝子の)量の増加だ」「遺伝子の目的は数を増やすことだ」という発想を取っている限り、真実はいつまでたっても手の届かないところにあるのだ。
 なぜなら、その発想は、無性生殖の真実ではあっても、有性生殖の真実ではないから。利己的遺伝子説は、無性生殖のための理論であって、有性生殖のための理論ではないのだ。……そのことにたいていの人々は気づいていない。
( ※ 詳しくは、「Q&A 2」の「有性生殖編」などを参照。)


【 テスト 】

 この文書の意図を、はっきり理解できただろうか? 理解できたかどうか、チェックするために、最後に、テストをしよう。
 次の問題に答えよ。


 《 問題 》
 次の文章の ○○ ,△△,□□ には、適当な単語が当てはまる。その単語は何か? (字数は2字とは限らない。)

 「この文書で訴えていることは、ダーウィン説やドーキンス説を批判するクラス進化論である。この三つの説は、いずれも自然淘汰という概念を基礎に据えるが、自然淘汰で選別される対象が異なる。その選別される対象の違いによって、次のように区別される。
 (a) ダーウィン説は、○○淘汰という説である。(環境のなかで一つ一つの ○○ が選別される。)
 (b) ドーキンス説は、△△淘汰という説である。(環境のなかで一つ一つの △△ が選別される。)
 (c) クラス進化論は、□□淘汰という説である。(環境のなかで一つ一つの ○○ が選別されるが、一つ一つの ○○は複数の△△をもつ。○○と△△は行列の表で関係を示される。)
 この三つの説の違いを理解することが大切だ。一方、三つの説の共通性(自然淘汰という概念)もあるが、この共通性自体は、あまり問題ではない。」

 《 解答欄 》
   ○○ = 個体
   △△ = 遺伝子
   □□ = マトリックス


 正解は? 解答欄を範囲選択すると、文字が見えます。
 (だけど、すぐに解答を見たら、カンニングと同じで、読者の負け。
  自分で考えた解答が、正解と同じなら、読者の勝ち。)


 【 注釈 】
 一部の読者は、こう批判するかもしれない。
 「一つの個体に複数の遺伝子があるというのは、当り前だ。そんなことは、普通の現代進化論でも考えている。もちろん、ドーキンス説でも考慮している」
 この批判は誤りである。なぜか? そのことは、すぐ上の問題からわかる。

 仮に、その批判が正しいとしよう。つまり、普通の現代進化論もまた、「一つの個体に複数の遺伝子がある」ということを考慮しているとしよう。すると、その場合には、「遺伝子淘汰」という説を捨てて、「マトリックス淘汰」という説を取らなくてはならない。「遺伝子淘汰」という発想の根本を、全面変更する必要がある。
 逆に言えば、「マトリックス淘汰」という説を取らずに、「遺伝子淘汰」という説を取っている限りは、「一つの個体に複数の遺伝子がある」ということを考慮していることにはならないのだ。いくら本人は考慮しているつもりでも、実際には考慮していないのだ。なぜなら、「マトリックス淘汰」という説を取らずにいるからだ。
 「マトリックス淘汰という説を取れ」というのが、この文書の言いたいことだ。そして、マトリックス淘汰という説を(公理のような)原理とすると、そこから、「ノイズ効果」や「クラス交差」などの概念が(定理のように)導き出される。
 根源は、マトリックス淘汰という説なのだ。そして、そのためには、遺伝子淘汰という説を捨てる必要がある。つまり、従来の進化論の基礎原理を捨てる必要がある。


二つの説の違いの核心


 ドーキンス説とクラス進化論は、どこが違うか? ── その本質的な違いを、以下で示そう。


小進化/大進化


 「ドーキンス説/クラス進化論」という違いは、おおざっぱに言うと、「小進化/大進化」という違いに相当する。
 より正確に記すなら、次のようになる。
 ドーキンス説では、小進化をうまく説明する。その点は、問題がない。このことは、クラス進化論は、まったく批判していない。
 ドーキンス説を支持してクラス進化論を批判する人は、「クラス進化論はドーキンス説による小進化の説明を否定している」と思い込んでいる。しかしそれは、まったくの勘違いだ。
 ドーキンス説は小進化をうまく説明している。このことを、クラス進化論はまったく批判しない。ここを誤解しないように。
 しかるに、「クラス進化論はドーキンス説への批判だ」という説の多くは、ここを誤解している。


大進化の説明


 小進化の説明については、ドーキンス説もクラス進化論も、実質的には同等である。(なぜかというと、遺伝子間の相互影響がないからだ。これを無視できるので、二つの説は実質的に等価になる。)

 しかしながら、大進化の説明については、ドーキンス説とクラス進化論は、大差が出る。
 ここで、クラス進化論では、「小進化とは異なる原理」として、「クラス交差」という原理を提出する。
 結果的に、二つの説は、次の異なる結論を出す。
 こういうふうに、大進化については、異なる結論が出るのだ。このことが核心的なことだ。


二つの説の異同


 ドーキンス説とクラス進化論は、小進化については、同等であるが、大進化についてはまったく異なる。── このことが重要だ。
 なお、クラス進化論は、ドーキンス説の拡張となっている。クラス進化論は、ドーキンス説を全否定しているのではなくて、小進化についてはドーキンス説を踏襲している。ただし、小進化については同じでも、そのあとで、「小進化の蓄積で大進化が起こる」という発想を取らずに、「クラス交差で大進化が起こる」という発想を取る。

 比喩的に言えば、ロケットだ。
 ドーキンス説というロケットも、クラス進化論というロケットも、同じ一段目を使う。それは「遺伝子淘汰」という一段目だ。
  ・ ドーキンス説は、二段目として、「小進化の蓄積で大進化」という説を取る。
  ・ クラス進化論は、二段目として、「クラス交差」という説を取る。
 このような「二段目の違い」がある。

 すると、両者の到達する到着点もまた異なる。
  ・ ドーキンス説は、「漸進的な大進化」という到着点に至る。
  ・ クラス進化論は、「突発的な大進化」という到着点に至る。

       ドーキンス・ロケット
 [1段目:遺伝子淘汰] [2段目:小進化の蓄積]  ──────→ 漸進的な大進化

       クラス進化論・ロケット
 [1段目:遺伝子淘汰] [2段目: クラス 交差 ]  ──────→ 突発的な大進化

 ドーキンス説とクラス進化論は、共通している部分と共通していない部分がある。

 1段目(小進化の原理)について見る限りは、両者は同じだ。この意味で、「遺伝子の増減」や[遺伝子淘汰」というドーキンス説をいくら肯定しても、それはクラス進化論への批判とならない。どちらも1段目は共通しているからだ。
 2段目(大進化の原理)を見ると、両者は異なる。ここでは、クラス進化論は、ドーキンス説にはない新しい発想を示している。つまり、拡張を示している。その拡張は、ドーキンス説への否定ではなくて、「小進化の蓄積」という発想への否定である。

 クラス進化論の独自性は、大進化の原理にある。
 小進化の原理を説明するドーキンス説を、いくら肯定しても、それはクラス進化論の是非を論じたことにならない。論じる対象がまったく異なるからだ。話の範囲外。
 「クラス進化論はドーキンス説(本体)を批判している」という主張は、まったくの見当違いである。上記の図を見れば、明らかだろう。なぜなら、ドーキンス説(本体)は、二つの説に共通するからだ。

 クラス進化論が批判しているのは、ドーキンス説本体(ドーキンス説そのもの)ではなくて、ドーキンス説の発想だ。その発想からは、ロケットの2段目が採用される。そういう発想を否定しているのだ。ここでは、実際に否定されるのは 、ロケットの2段目であって、ロケットの1段目(ドーキンス説)ではない。

 クラス進化論へ批判者の多くが、この点を勘違いしている。クラス進化論がドーキンス説のどこを否定しているか、まったく理解していないのだ。そのせいで、「クラス進化論はドーキンス説を否定している」というふうに勘違いの主張をする。

 単純に言えば、ドーキンス説とクラス進化論について論じるとき、小進化の話をいくらやっても無意味なのである。なぜなら、小進化については、どちらも同じだからだ。(両者の差は、大進化の場合にのみ現れる。)
 というわけで、たいていの批判者の主張は、無意味となる。




 表紙ページ   http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/

[ END. ]