すでに述べたことの補足を、Q&A形式で示す。
基本編
Q クラス進化論は、自然淘汰説を否定しているのか?
A イエス。この点は、大事なので、注意してほしい。
今まで、さまざまな進化論が登場したが、そのいずれも、ダーウィンの自然淘汰説そのものを否定したわけではなかった。ドーキンスの説は、「個体淘汰」を「遺伝子淘汰」に少し変えただけだった。木村資生の説は、「優勝劣敗」に「中立も」を加えただけだった。グールドの説は、「理論としての漸進的進化」に「事実としての段階的進化」を加えただけだった。そのいずれも、自然淘汰を否定したわけではなかったし、ダーウィンの説の枠内にあった。クラス進化論は、異なる。自然淘汰説を否定している。
Q では、自然淘汰という現象そのものを否定しているのか?
A ノー。この点は、混同しないように、注意してほしい。
クラス進化論が否定しているのは、自然淘汰説、つまり、「自然淘汰による進化」という説である。一方、自然淘汰という現象そのものは、たしかに事実として観測される。
ただし、事実として観測される自然淘汰は、進化としての「種の発生」ではなくて、それとは逆の「種の絶滅」である。史上、数多くの種が絶滅したし、有袋類のほとんども絶滅した。そういう絶滅は、自然淘汰で説明されるだろう。その意味で、「自然淘汰」という現象は、事実である。ただし、それは、「種の絶滅」または「個体の死」を説明するだけであって、「種の誕生」を説明するわけではないのだ。進化とは逆のことを説明することはあっても、進化を説明することはないのだ。この点は、混同しないように、注意してほしい。
( → 「早わかり」の冒頭。)
Q クラス進化論は、どういうふうに、自然淘汰説を否定しているのか?
A 「優者が進化をもたらす」という主張を全面否定し、「劣者が進化をもたらす」という主張を唱える。
Q 劣者が進化をもたらすなんて、信じがたい。
A それは、ダーウィン流の考え方に染まっているから、信じがたいだけだ。
第1に、「劣者」とは、「次善」つまり「最善ではない」という意味であって、「劣悪」や「最悪」という意味ではない。
第2に、「劣者」とは、旧種にとって「劣者」であるにすぎない。それは、新種にとっては、「優者」となる。つまり、「旧種にとって」と「新種にとって」で、「劣者」と「優者」との価値が異なる。そういう逆転が生じる。
Q なぜ、そういう逆転が生じるのか?
A それが「クラス交差」の本質だ。「クラス交差」の意味を思い出してほしい。
Q それじゃ、「劣者が大事だ」というのは、不正確なんじゃないの?
A ある意味では、そうだ。かわりに、「多様性が大事だ」と言い換えてもいい。どっちも同じことである。
なお、ダーウィン説では、「均一性」が結論される。だから、「多様性」と「均一性」の差があるわけで、やはり、クラス進化論は、ダーウィン説とは、まったく正反対である。
Q 「多様性が大事だ」ということなら、中立説も主張しているが。
A 中立説における「多様性」は、形質に変化をもたらさないような多様性だ。つまり、無意味な多様性だ。一方、クラス進化論における「多様性」は、形質に変化をもたらすような多様性だ。つまり、意味のある多様性だ。
なお、その意味は、「旧種にとっては不利」ということである。(だから、「劣者が大事だ」となる。)
Q 中立説は、クラス進化論に、けっこう似ているのでは?
A 中立説は、自然淘汰という概念を拡張しただけであって、あくまで自然淘汰説の枠内にある。一方、クラス進化論は、自然淘汰説を否定している。
さらに、クラス進化論には、「遺伝子の集中」という原理がある。この点が、決定的に異なる。
Q ダーウィン説の「優勝劣敗」も、間違っているとは思えないが。
A 間違いではない。ダーウィン説は、「小進化」には当てはまる。ただし、一つの種の「小進化」には当てはまっても、別の種を生み出すような大規模な進化には当てはまらないのだ。
Q ダーウィン説とクラス進化論との、根本的な違いは?
A 中心が一つか二つか、ということだ。このことから、「劣者と優者の価値の逆転」という現象も起こる。
応用編
Q なぜ、二つの中心が生じるのか?
A 本論の範囲を超える。(つまり、クラス進化論の枠内では説明することができず、その続編の内容によって説明される。続編を読むのが先決。)
Q 「新種の核」とは、何か?
A 本論の範囲を超える。(同上。)
Q 人間とチンパンジーは、なぜこれほどにも別々の種となっているのか? 人間は高度に脳を発達させて、他の哺乳類とはまったく異なった世界を築いている。この点から見ると、人間とチンパンジーの違いは、チンパンジーとハリネズミとの違いよりも、はるかに大きい。にもかかわらず、人間とチンパンジーの遺伝子を比較すると、99%が一致する。この食い違いは、なぜか?
A 本論の範囲を超える。(同上。)
Q 単孔類は、なぜ、哺乳類なのに卵生なのか?
A 本論の範囲を超える。(同上。)
Q 鳥はなぜ抱卵するのか?
A 本論の範囲を超える。(同上。)
Q あれもこれも、わからないことばかりだな。
A その通り。クラス進化論は、あくまで、進化論の「基礎原理」を示すだけだ。進化の全貌を示すわけではない。たとえて言えば、建物の基礎部分を作るだけであって、建物の全体を作るわけではない。この点は、重要なので、よく理解してほしい。
進化の全貌を示すのは、続編においてなされる。
Q カンブリア紀の爆発(進化の急激な進行)は、なぜ起こったのか?
A これは、説明ができる。クラス交差があったからだ。
カンブリア紀の時点で、無性生殖から有性生殖に移行したが、それにともない、クラス交差が起こるようになったので、進化が急速に進むようになった。
従来の説では、無性生殖と有性生殖を区別しなかったので、カンブリア紀の爆発を説明できない。逆に言えば、クラス交差というものがいかに重要であるかが、カンブリア紀の爆発からわかる。
Q カンブリア紀の爆発とは?
A 5億数千万年前に起こった、進化の急激な進行のことだ。
地球が誕生したのは、46億年前。最初の生物が誕生したのは、40億年前。その生物は、アメーバのような単細胞生物だった。そのあと、約6億年前まで、つまり34億年間、無性生殖の時代が続いた。その間、進化はほとんど起こらなかった。初期の原核生物から、真核生物へという進化はあったし、細胞の巨大化という進化もあったが、あくまで単細胞生物が登場しているだけだった。その間、突然変異は多量にあったはずだったが、神経をもつような生物らしい生物はついぞ登場しなかった。
約6億年前(5億7千万年前〜5億9千万年前?)に、有性生殖をする最初の生物が登場した、と推定されている。それはまだ、単細胞生物とほとんど変わらない形態をしていただろうが、進化の可能性を獲得した。
その後、進化は、驚くべき速度で進行した。ごく短期間のうちに、今日の生物の原型となる生物が登場した。すなわち、二つの目と、一つの口と、まっすぐな体と、体を貫く神経をもつ、という生物だ。(それとは別のタイプの生物も誕生した。)
このあと、原索動物を経て、5億6千万年前には、脊椎動物が誕生した。(2003年10月23日の読売新聞夕刊で、新たに最古の脊椎動物の化石が発見されたと報道された。これは、ピカイアのような形態をしているが、体長が65センチもある。)
その後、わずか3千万年後にあたる5億3千万年前には、原始的な魚類が登場している。(中国で化石が見つかっている。)
以上を比喩的に言えば、こうだ。進化を登山にたとえると、34億年かけて、たったの十歩ほどしか進めなかった。ところが、約6億年前に有性生殖をする生物が誕生すると、あれよあれよというまに、急激に登山を開始した。その後は、一瀉千里である。驚くべき速度で進化をなしていった。そして現時点では、頂点としての人間という段階に達した。
進化の歴史は、こういうふうに、「無性生殖時代」と「有性生殖時代」に、はっきりと区別される。そして、有性生殖時代の最初にあった急激な進化を、「カンブリア紀の爆発」という。
要するに、「突然変異」という偶然まかせでは、進化はほとんど起こらないのだが、「性」という生命の本質を獲得したとたんに、進化は非常に急激に進んでいったのだ。
出版編
Q インターネットで公開してくれないの?
A 推敲には莫大な手数が必要です。ゆえに、無償奉仕の仕事となると、優先順位が下がります。私としては、この仕事はすでに完成済みの仕事です。これ以上、時間をかけることに、興味はあまりありません。どうせ時間をかけるなら、「推敲」という事務的なレベルの仕事に時間をかけるよりは、別の創造的なことに時間をかける予定です。
Q お金を払って本を買うのはイヤだ。タダでほしい。
A 無料にふさわしい情報なら、インターネットに下らない情報がいっぱいあふれているので、それで暇つぶしをしていてください。若干のお金を払っても、その金をはるかに上回る価値の真実を知りたい、と思うのであれば、若干のお金を払ってください。無料で粗大ゴミ置き場の中古家電を入手するか、千円台で貴重な新製品を大バーゲンで買うか、という違いです。
Q 宣伝ばかりしやがって。正直に言えば、本を売って、金が欲しいだけだろ?
A 済みません。貧乏なので。貧乏だと、霞ばかり食っているわけには行かないんです。
でもまあ、ソフトなどのページでは、ずいぶん、無償奉仕をしましたから、あんまり「守銭奴!」と罵らないでくださいね。 ( → 南堂トップページ )
Q 本当に貧乏なの? 騙してない?
A 金儲けに熱中している人間が、学術的な研究なんか、するはずがないでしょう。
Q いつ出版するの?
A 出版できる見込みが立ったとき。とりあえずは、「概要」の内容が世間で認知されて、出版された本が売れる見込みが立ったとき。逆に言えば、「概要」の内容が世間で認知されない限りは、本を出しても売れないので、出版しません。
Q いつごろ、出版できる見込みが立つの?
A それは、このページを見ているあなた次第です。「もっと読みたいな」と思って、世間を騒がせれば、すぐに出版されるようになります。「くだらん、トンデモだ」と思って無視していれば、何も変わりません。
Q 世間が何も言わなければ?
A 私も推敲をしないので、いつまでたっても、出版されません。
Q 世間が黙っていても、出版すればいいんじゃないの?
A 売れ残りの山が出来るだけですから、無理でしょう。(もともと貧乏ですし。……)
Q ダーウィンは、すぐに出版したよ。
A あの人は、お金持ちですから。
Q ダーウィンは、出版して、世間と戦った。偉いな。それにひきかえ、南堂ってのは、出版もしないで、軟弱な腑抜けだな。
A 世間と戦ったのは、ダーウィンではなく、少数の支持者(ハックスレーなど)でした。彼ら支持者が、論争を引き受けて、普及活動をしたのです。
その間、ダーウィンは、何をしていたか? ずっと半療養生活を送っていました。神経のノイローゼにかかっていたせいです。当時、宗教界からは、ダーウィンに向かって、ものすごい攻撃が襲いかかっていましたが、そのせいかもしれません。私も何だか、文句を言われて、頭が痛くなってきた。……
Q 出版しないと、いつまでたっても、クラス進化論は世間に広まらないよ。
A 「概要」さえ理解できない世間が、はるかに難解な「本論」を理解できるはずがありません。同じことです。
Q いつごろ、世間で認知されそうなの?
A 私にもわかりません。一般に、まったく新しい理論というものが世間で理解されるには、十年以上の時間がかかります。私としても、二十年後に理解されれば、それで十分です。
Q 二十年、待てということ?
A ま、そうですね。そのころには、私も暇が出来て、推敲を済ませて、インターネットで「本論」を無償公開しているかもしれません。
Q そんなに待てない。
A 時間がかかったのは、私じゃなくて、世間です。私に文句を言っても、仕方ないでしょ。
ガリレオが地動説を唱えたとき、それを押しつぶしたのは世間です。世間が天動説を信じているときに、いくら地動説を唱えても、反発を食うだけです。地動説の本を出版できるようになるのは、地動説を世間で受け入れることが出来るようになったあとのことです。ガリレオに文句を言っても仕方ありません。
結局、世間が天動説のしがらみを捨てるのが先決です。ただし、それには、通常、長い年月がかかります。一般に、革新的な真実というものは、発見されてから、世間に広まるまで、かなり長い年月がかかります。
(数学の世界では、そういう例は、枚挙に暇がありません。通常、「死後の認知」です。だから、まあ、数十年後に、あなたの死んだあとでは、クラス進化論は、世間で認知されているでしょう。そのころまで、お待ちください。)
Q 学会誌に投稿すれば?
A 学会誌というものは、既存の学会を発展させるためにあるのであって、既存の学会を全否定するためにあるのではありません。そんな論文は、ボツです。(「おまえらみんな間違っているぞ」と言われたら、誰だって、怒り狂うでしょう。)
「天動説」学会に、「地動説」の論文を提出しても、ボツは確実です。ガリレオの場合、猛烈な批判を浴びて、吊し上げでした。宗教裁判。彼はひどい実害を受けました。
( ※ なお、たとえボツにならなくても、原稿用紙で千枚の論文を受理してくれる学会誌は、ありません。)
Q 学会には、最高の知性がそろっている。正しい理論ならば、必ず学会の認知を得るはずだ。
A メンデルの法則は、そうではありませんでした。1865年に発表されたあと、ずっと無視され、1900年の再発見まで、メンデルの法則は学会で認知されませんでした。
メンデルは実験結果を学会に認知してほしいと働きかけました。しかし、当時の学界の重鎮たちは、断固として、メンデルの発見を押しつぶしました。「新しい事実を発見したって? そんなことは、何の意味もない。大事なのは、事実ではなく、理念だよ」と言って、会長を含む重鎮たちは、学会で認知することに反対しました。
では、メンデルの法則には、理念がなかったのか? そうではない。「遺伝子」というまったく新しい概念は、メンデルの法則に含まれていたのです。
しかし、それは、まったく新しい概念であるゆえに、当時の主流の思想からは逸脱していました。だからこそ、かえって、認知を得られなかったのです。メンデルの実験は、事実に基づく実験であるがゆえに、事実としては否定のしようがありません。そこで、無理やり、理屈にもならない理屈を付けて、識者たちは認知を拒否したのです。
彼らはなぜ、メンデルの法則をやたらと否定したがったか? それは、彼らが愚かであったからか? いや、逆に、賢明であったからです。メンデルの法則を受け入れれば、これまで信じていた体系が一挙に瓦解してしまいます。とすれば、自分たちが一挙に素人になってしまって、これまでの知識の蓄積が無になるわけです。重役が一挙に平社員になるようなものです。だからこそ、賢明な彼らは、「遺伝子」というわけのわからない新しい概念を受け入れないで済むように、メンデルの業績を否定したのです。
メンデルの法則が35年間も埋もれていたのは、学会が認知を拒否したからです。こういうことは、あらゆる学問分野で、しばしば起こっています。過去においても何度も起こったし、今後もまた何度も起こるでしょう。
学問の世界で受け入れやすいのは、既存の体系を少し進歩させる業績であり、既存の体系を全否定する業績ではないのです。メンデルの業績には、「遺伝子」というまったく新しい概念が含まれていました。時代がメンデルに追いつくには、35年かかったのです。
われわれは今日、「人類は遺伝子を発見した。人類は素晴らしい!」などと浮かれていますが、とんでもない勘違いでしょう。メンデルが遺伝子という概念を提出したとき、人類は、その概念を認知したのではなくて、逆に、否定したのです。
( → Q&A2 「メンデルの実験」 )
Q クラス進化論(本論・続編)の原稿は、どのくらいの分量になるのか?
A 現時点では、未推敲ですが、原稿用紙換算で、約千枚です。書籍だと、薄いので3冊。
Q 本の内容は?
A 1冊目は、クラス進化論の原理。2冊目は、分子生物学や個体発生との関連。および具体的な進化の全貌。3冊目は、集団における利他的行動や、性の問題。
結語編
Q でもねえ。結局、何だか、疑わしい気がする。クラス進化論は正しいと言えるのか?
A 正しいかどうかは、頭ごなしに決めつけるべきことではなくて、検証するべきことです。
あなたが研究者ならば、「正しいと判明したあとで、検討しよう」という態度を取るべきではありません。研究とは、まだ判明していない問題を扱うことなのです。すでに「正しい」と判明したことを、あとで二番煎じで研究しても、何の意味もありません。
あなたが小学校の生徒ならば、「正しいの?」と質問してもいいでしょう。しかし、あなたが研究者ならば、「正しいの?」と質問する前に、「正しいかどうかを検証しよう」という態度を取るべきです。
ところが、残念なことに、今の日本の研究者は、「欧米人が正しいと言ったことだけを、日本でも研究しよう」という態度です。そして、そういう人々ばかりだから、自分の頭で検討する前に、「正しいの?」と質問するのです。小学校の生徒のように。
Q 提唱者である南堂本人は、クラス進化論を信じているのか?
A 宗教ではないのだから、信じるかどうかの問題ではありません。私としては、信じているとも信じていないとも、言えません。
では、何を言えるか? それは、こうです。
私は、クラス進化論というものを、天下り的に提出したわけではありません。ダーウィンやドーキンスならば、彼らの思いつきを、天下り的に提出したのでしょう。しかし、私は違います。
私は、どうしたか? 思いつきは、何もありませんでした。初めは、空白でした。空白のまま、進化というものを考えました。そのとき、あらゆる可能性を考慮しました。ほとんど無限とも言えるほどの、さまざまな可能性を、一つ一つ考慮しました。そして、最終的には、そのほとんどの可能性が捨てられ、たった一つの可能性だけが、生き残りました。(まるで自然淘汰を生き残るように。)
クラス進化論とは、そのようにして生き残った、たった一つの理論なのです。だから、「この理論は正しい」とは信じることはできなくとも、「この理論以外の理論は正しくない」とは信じることができます。
もちろん、この理論が完璧ではなくて、微修正を受けることは、あるでしょう。そういう可能性は十分にあります。そして、完璧でない理論に微修正を施すということは、「検証する」ことによってなされるのです。
Q クラス進化論は、南堂が考案したものか?
A 違います。クラス進化論は、私の頭が生み出した思想ではありません。この世界に初めから存在していて、発見されることを待っていた思想なのです。
真実は、人によって創造されるものではなくて、人によって発見されるものです。私がクラス進化論を選んだのではなくて、クラス進化論が私を選んだのです。ちょうど、アラジンの魔法のランプが、たまたまアラジンを選んだように。
題 名 進化論 Q&A
著者名 南堂久史
Eメール nando@js2.so-net.ne.jp
URL http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/