優勝劣敗とは


 優勝劣敗とは何か? その概念について、簡単に説明しておこう。


概念


 優勝劣敗という概念がある。(適者生存 survival of the fittest ともいう。)
 これは、「環境において有利なものが生き延びる」という意味である。よく知られた通り。いちいち説明するまでもないだろう。「当り前のことだ」と思われていることも多い。
(歴史的な由来などは、Wikipedia を参照にするといい。)


同語反覆か


 優勝劣敗という概念について、「この概念は無意味だ」という主張がある。次のように。
 環境において結果的に生き延びてきたものが「優者」「適者」と見なされるだけだ。だから、この概念は単に「生き延びてきたものは生き延びてきた」という同語反覆(トートロジー)を意味するにすぎない。
この主張は、一見、もっともらしい。なるほど、「環境が進化をもたらす」という概念を取る限りは、その通りだろう。しかしながら、厳密に考えれば、上記のことは成立しない。


時間の差


 厳密に論理的に考えるならば、「適者生存」という概念においては、時間の違いに着目するべきだ。
  ・ 「適者」 …… (過去において)生き延びてきた
  ・ 「生存」 …… (未来において)生き延びる

 このように区別した方がいい。
 前者における「適者」とは、過去のことだけだ。未来のことは含まない。
 後者における「生存」とは、未来のことを含む。(過去のことは、含まないだろう。ただし、含むと見ても問題はない。)


固定的か否か


 上の解釈は、ちょっと極端すぎるかもしれない。もうちょっと変動の余地があるかもしれない。ただし、基本的には、次のことが言える。
「優勝劣敗」ないし「適者生存」という概念では、「優者」「適者」というものが固定的なものだと考えられている。
 ここにおいて問題なのは、「優者」「適者」というものが変動するかもしれない、という発想が欠落していることだ。

 たとえば、次の文章を見よう。
 「馬鹿は馬鹿だ」
 これは一見、同語反覆(トートロジー)のように見える。ゆえに絶対的に正しい命題だと思われる。しかしながら、現実の人間には、当てはまらない。
 たとえば、馬鹿だと思われた人が、努力した結果、馬鹿ではなくなることがある。馬鹿だと思えた人もしばらく会わなかったあとで再び会うと、彼が立派な人間になったことに気づいて、驚くことがある。
 「こいつは馬鹿かと思ったら、馬鹿じゃなかったのか」
 と思い直す。
 女でも同様だ。
 「ブスだと思った女が美人になった」
 というふうに思い直すことがある。(「醜いアヒルが白鳥になった」というふうに。)

 人間は変化する。ここでは、
 「馬鹿は馬鹿だ」
 という固定的な表現は成立せず、
 「馬鹿が利口になる」
 という変化する現象が見られる。

 進化論でも同様だ。
 「優者は生き延びる」
 という固定的な表現が成立せず、
 「優者が劣者になる」
 つまり、
 「優者が生き延びない」
 というふうになることがある。(クラス進化論による。)
 つまり、現実には、「優劣の逆転」がある。


優劣の逆転


 逆に言えば、「優勝劣敗」という発想は、そういう「優劣の逆転」を否定する。「優者も劣者も固定的である」というふうに見なす。これがつまりは、「優勝劣敗」「適者生存」の真の意味だ。
 そして、現実には、それが成立しないことがある。つまり、「優勝劣敗」が成立しない場合(「優劣の逆転」が起こる場合)がある。
 この意味で、「優勝劣敗」という概念は、「必ず正しいトートロジー」ではなくて、「ときどき不成立になることもある命題」である。つまり、真偽で言えば、厳密には「偽」である。
( ※ たとえば、「カンガルーは茶色い」という命題は、たいていは真実であるが、まれにアルビノが生じることがあるので、絶対的な真実だとは言えない。厳密には「偽」である。)


環境の変化による影響


 なお、通常の発想でも、次のような解釈はある。
 「環境が変化することで、優劣の逆転が生じることがある」
 しかし、これは、妥当ではない。この解釈では、単に環境に応じて「優劣の交替」があるだけだ。たとえば、人間では、毛の薄い肌が熱帯では有利で、毛深い肌が寒帯では有利だ。しかしながら、環境が変化して、気温が上がったり下がったりすると、有利・不利が交替することがある。地球が急に寒冷化したり、地球が急に温暖化したりすれば、それまでの優者が劣者になり、それまでの劣者が優者になることがある。……ただし、こういうのは、単に優者と劣者の定義が交替したというだけだ。「優勝劣敗」という原理そのものが揺らぐわけではない。


クラス交差


 クラス進化論が言う「優劣の逆転」は、まったく別のものだ。
 環境はまったく変わらないのに、優劣が逆転することがある。ここでは、個体レベルや遺伝子レベルでは、何ら逆転は起こらない。ただし、「遺伝子の組み合わせ」では、逆転が起こることがある。
 たとえば、有利である(優者である)遺伝子A,Bがあり、不利である(劣者である)遺伝子 a,bがあったとしよう。
   A > a
   B > b
 通常は、遺伝子の単体レベルで見て、A,Bが増えて、a,bが減る。
 ただし、a,bの組み合わせである(a,b)を見ると、いずれよりも強くなる場合もある。次のように。
  (a,b) > (A,B) > (A,b) or (a,B)

 ここでは「劣者連合」が最強となる。ポーカーで言えば、弱いカードの2枚揃い(ワンペア)のようなものだ。一般的に言えば、ゲーム理論における「囚人のジレンマ」のようなタイプ。
 ここでは、環境は一定でも、遺伝子の組み合わせだけで、劣者が強者に転じる。単一の劣者は劣者のままだが、劣者同士の組み合わせによって、劣者が強者に転じる。
 具体的に言えば、a,bという遺伝子は、通常は減るばかりなのだが、(a,b)というペアでもっている個体に限って、a,bという遺伝子はどんどん増えていく。

 ここでは、「優者は増える」という原理は成立しないのだ。── 優者はAとBだが、これらは増えるどころか減る。劣者はaとbだが、これらは、単体では減るが、組み合わさったときには増える。
 以上のことは、クラス進化論では、「クラス交差」という概念で説明される。
 ともあれ、以上のようにして、「優勝劣敗」という固定的な概念は否定される。


数理的な説明


 以上に述べたことを、数理的に示すと、次のようになる。
 従来の解釈では、「優勝劣敗」という概念は、単に「増えるものは増える」ということを意味するだけだと思われてきた。しかし、その命題が意味するのは、「増えるものも減るものもある」というだけのことで、意味はまったくない。しかしながら、そんな無意味なことが、「優勝劣敗」という言葉の意味であるわけではあるまい。
 では、正しくは? 
 「優勝劣敗」という言葉の意味は、「優者や劣者という概念が、環境だけに依存する性質だ」ということだ。
 数理的に言うと、「増減率 f ( χ ) という値を決める変数  χ  は、環境だけに依存する量だ」ということだ。
 具体的に言えば、ある個体または遺伝子が「有利だから増える」というとき、その「有利さ」(増減率)は、「環境だけに依存して決まる値だ」ということだ。

 そして、ここでは、無視されているものがある。何か? 環境以外のものだ。すなわち、個体の外部にあるものではなくて、個体の内部にあるものだ。具体的に言えば、「遺伝子の組み合わせ」だ。
 たとえ環境が同じであっても、遺伝子の組み合わせが異なると、増減率 f ( χ ) は変動する。── このことが、クラス進化論の主張だ。
 しかるに、「有利さ(増減率)は、環境だけに依存して決まる」というふうに見なすと、遺伝子の組み合わせによる違いが無視されてしまう。
 遺伝子の組み合わせを示す値 μ があるとしよう。(これは組み合わせを示す値であり、実数でなく自然数で示される。)この μ を用いると、増減率は
   f ( χ , μ)
 のように書かれるはずだ。しかるに、「有利さ(増減率)は、環境だけに依存して決まる」というふうに見なすと、この値は、
   f ( χ )
 というふうに書かれる。そのせいで、 μ の違いによる f ( χ , μ) の変動が、見えなくなってしまう。
 
 だからこそ μ の違いを見よ(遺伝子の組み合わせの違いに着目せよ)(環境以外の変数にも目を向けよ)というのが、クラス進化論の発想だ。

( ※ では、目を向けると、どうなるか? 大進化の理由として、「小進化の蓄積」という理由のほかに、別の原理が提出される。それは、「種の(なだらかな)変化」や「種の交替」にかわる、「種の追加」という概念だ。)


付録


 本文となる話の後で、付録となる話を付け加えておこう。(特に読まなくてもよい。)


[ 補足 ] (弁証法)


 ここに述べた認識の仕方は、「弁証法的」とも言える。
 物事を認識する際、固定的に考えず、変化するものと考える。対立するものが、一つの段階で対立しつづけるだけでなく、さらに高い段階へ移ることで対立が解消される。
 たとえば、最初のうちは、Aとaが対立し、Bとbが対立している。しかしあるとき急に、(a,b)という組み合わせが出現すると、これが圧倒的な強みを発揮して、他のものを急速に駆逐していく。そのせいで、すべてが(a,b)になってしまう。旧種における対立は消えて、新種という一段上のものができる。
 こういう認識は、弁証法的である。


[ 付記 ] (ESS)


 「環境が同じでも優劣が逆転する」ということは、別の例でも見られる。それは「ESS理論」の例だ。
 ESS理論によれば、ハトの集団とタカの集団があるとき、ハトとタカの比率には一定の均衡点がある。これは飽和点である。(進化的に安定的な状態)
 たとえば、その比率が
     ハト:タカ= 60:40
 であったとしよう。すると、最初にハトばかりがいたときに、タカがまぎれこむと、タカはどんどん増えていく。この過程では、タカが優者である。
 しかしながら、タカが増えすぎて50%ぐらいにまで増えてしまうと、今度は増えすぎたタカが減る。
 以上では、環境は何も変わっていない。単に優劣が逆転するだけだ。ここでも「優者は優者だ」という固定的な発想は否定される。

 なお、具体的な例としては、B型遺伝子が考えられる。B型遺伝子は、既存の遺伝子(A型ないしO型の遺伝子)が突然変異して生じたものだ、と考えられる。最初は稀に生じたものであるにすぎない。それが極東地方では非常に多大に増えた。日本人では20%ぐらいがB型遺伝子だ。
 では、B型遺伝子は、それほど急速に増えたとすれば、非常にすばらしい形質(優者)であるのか?
 従来の「優勝劣敗」の発想を取るならば、「B型遺伝子は優秀だから増えた」という発想になるだろう。
 しかし、クラス進化論の発想を取るならば、ESS理論を応用して、「B型遺伝子は飽和点までは優者のように見えるだけだ」というふうに見なされる。B型遺伝子は、数が少ないうちは、優者のように見なされて、どんどん増える。しかし飽和点に達すると、もはやそれ以上は増えない。もし増えれば、劣者のように見なされて、かえって減ってしまう。
 結局、B型遺伝子が急速に増えたのは、B型遺伝子が他を圧して有利な形質をもっているからではなくて、単に飽和点まで増えていくだけのことだったのだ。
( ※ 従来の発想との違いに注意。)


[ 余談 ] (B型遺伝子)


 すぐ上のことは、俗っぽく言えば、次のように言える。
 「協調性がなくてマイペースな性格のB型の遺伝子は、数が少ないときには自分にとって有利なのでどんどん増えていくが、あまりにもB型遺伝子が増えると、B型の連中がA型の連中からお目こぼしをされずに嫌われてしまうので、疎んじられて、不利になり、増えなくなってしまう」
 これはまあ、あまりにも俗っぽい解釈ではあるが、直感的には、納得できるだろう。このことは、生物学的に正しいかどうかではなく、「面白い寓話」として理解してほしい。(間違っても学術的に批判などをしないように。ただの文学的な小話なんですから。)


[ 参考 ] (関連情報)


 参考として、関連情報を示す。「優勝劣敗」の原理を、人間社会に適用すると、どういう間違いが起こるか、という話。(社会科学の話。)

  → Open ブログ 「社会問題と利己的遺伝子」





 表紙ページ   http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/

[ END. ]