《 Part1 》

      ―― 目 次 ――

    § 1−1      § 1−2      § 1−3
    § 1−4      § 1−5      § 1−6
    § 1−7      § 1−8
  以上は、検索用の目次です。ワープロ等で検索できます。
    検索方法: 
       (1)めざす項目(§ 1−7など)を、Ctrl+Cでコピーする。
       (2)検索の画面で、検索したい文字の欄に、Ctrl+Vで貼り付ける。
       (3)検索を実行する。
 なお、このホームページをネットスケープなどで保存したあと、一太郎や MS-Word で、保存し直してください。
   (その方法:MS-Wordの場合
        (1)MS-Wordを起動する。
        (2)「ファイル」→「開く」を選択し、「ファイルの種類」でhtml を選択する。
        (3)このホームページのファイルを選択して、呼び出す。
        (4)「ファイル」→「名前をつけて保存」を選択する。
        (5)MS-Wordの形式(.doc)で、保存する。
        (6)通常画面に戻る。
        (7)1行の文字数を35字にするよう、書式を設定する。(B5、12ポ など)
        (8)上書き保存を実行する。
        (9)印刷を実行する。  )
   (その方法:一般のワープロソフト[一太郎など]の場合
        (1)ネットスケープなどで、このホームページのあるファイルを呼び出す。
        (2)「ファイル」→「名前をつけて保存」を選択し、txt形式で保存する。
        (3)ネットスケープなどを終了する。
        (4)ワープロソフトを起動する。
        (5)「ファイル」→「開く」で、「ファイルの種類」を「すべて」に設定する。
        (6)先に(3)で保存した txt形式文書を呼び出す。
        (7)1行の文字数を35字にするよう、書式を設定する。(B5、12ポ など)
        (8)「ファイル」→「名前を付けて保存」で、そのワープロの形式で保存する。
        (9)印刷を実行する。  )

以下は、本文です。

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 § 1−0 
 中学校や高校で教わる「集合論」は、世間一般では、正しい理論だと思われている。しかしながらそれは、厳密に言えば、間違った理論である。つまり、厳密な数学的観点から見ると正しい理論ではないし、また、将来の大学で学ぶ数学の基礎となるわけでもない。
 にもかかわらず、中学校や高校では、集合論を教える。なぜか? 教師が愚かであるからではない。そこには現代数学の、根本的な困難がひそんでいるのである。すなわち、問題点があるとわかっていながら、なおかつそのような理論を教えざるをえないのである。
 本論では、それらの問題点を指摘し、さらに、それらの問題点を解決する方法を提出する。
 
 § 1−1
 集合論を教える際、次のように言われる。「集合論は数学の基礎である」「現代数学は集合論の上に成り立つ」などと。
 ところで、集合論には、二種類あるのだ。一つは、人々が中学や高校で学ぶもので、「素朴集合論」と呼ばれる。もう一つは、専門家が厳密な数式によって取り扱うもので、「公理的集合論」と呼ばれる。
 この両者について、説明しよう。
 素朴集合論とは、要するに、中学や高校で学ぶ集合論のことだ。たとえば、次のような式で表される。
   a∈{ x|xは偶数 }
  (注。念のために言うと、この式が意味するのは、「 a は偶数全体の
   集合の要素である」ということである。)
 一方、公的理集合論とは、数学の専門家の使う集合論のことだ。それは公理系の上に成り立つ数学理論である。ユークリッド幾何学がその公理系の上に成り立つのと同様に、公理的集合論はその公理系の上に成り立つ。公理的集合論の公理は、複雑な数式で表される。
 では、この二つの集合論は、どういう関係にあるのか? 
 どちらも「集合論」という名前をもっているのだから、どちらも似たようなものだ、と人々は考えやすい。だが、この二つは、似ているように見えるが、まったくの別物なのだ。
 本来は、そうなるはずではなかった。素朴集合論を数学的に厳密に表現すれば、公理的集合論ができるはずだった。実際、20世紀の初めごろ、数学者たちは、そうしようとして努力してきた。
 ところが、その試みは、失敗したのである。素朴集合論を数学的に厳密に表現すれば、矛盾が生じる。(それは「ラッセルのパラドックス」「カントールのパラドックス」と呼ばれる。)
 そこで、これらの矛盾を回避しようとして、公理的集合論は、だんだん少しずつ改良されていった。最終的に改良されてできたものは、ZFと呼ばれる。今日われわれが「公理的集合論」と呼ぶものは、このZFである。
 ZFは、改良された結果、矛盾を生じることはなくなった。だが、その代償として、素朴集合論との関係を断ち、まったく別のものとなったのである。
 ZFと素朴集合論とは、まったく別のものだ。というより、たがいに矛盾するものだ。つまり、どちらかが正しければ、どちらかが間違っていることになる。
 だから、専門家が「集合論」と呼んでいるものと、一般の人々が「集合論」と呼んでいるものと、この二つのうち、少なくともどちらか一方は間違っているわけだ。もし専門家が「集合論」と呼んでいるものが正しいとすれば、われわれが学校で教わる集合論は間違っていることになる。
 そう聞いても、にわかには信じがたいかもしれない。しかし、これは、筆者の個人的見解ではない。数学者の間で広く知られた事実である。ただ、この点を突き詰めていくと、世間が混乱するので、あまり口に出さないだけである。
 そこで、以下では、もう少し詳しく説明する。この二つの集合論が、どのような関係にあり、どのように矛盾しているのかを。
 
 § 1−2
 「集合とは何か?」
 その質問に、人はどう答えるであろうか? 中学や高校の教科書には、こう書かれてある。
   「集合とは、物の集まりである」
 そして、次のような例が挙げられている。
   「すべての人間の集合」
   「すべてのカラスの集合」
 なるほど、すべての人間にせよ、すべてのカラスにせよ、それらは「物の集まり」である。しかし、公理的集合論では、これらは「集合」とは見なされない。これらは集合とはなりえないのである。
 では、公理的集合論では、集合とは何なのか? 集合とは「物の集まり」ではないのか? ――その通り。公理的集合論では、集合とは「物の集まり」ではない。
 では、公理的集合論における「集合」とは、何なのか? それは、次のように示せる。
   「空集合だけを前提とし、そこから一定の操作により、作り出され
   たもの」
 ここで、空集合とは、カラッポの集合のことだ。形だけあって中身のないもののことだ。いわば、記号上の産物である。この空集合に対して一定の記号的な操作を加えたものだけが、「集合」と見なされる。要するに、記号をいじくることにより作り出された記号的な産物だけが、「集合」と見なされる。それ以外のものは「集合」とはならない。つまり、この現実世界のものは「集合」とはならない。人間も、カラスも、いずれも集合とはならないのだ。
 結局、こういうことだ。素朴集合論は、「物の集まり」を扱う。たとえば、人間やカラスなどを。だが、公理的集合論は、「物の集まり」を扱わない。公理的集合論が扱うのは、「すべての偶数」とか「すべての自然数」などの、数学的な対象だけである。
 このように、公理的集合論が扱うものは、ごく限られたものだけである。一方、素朴集合論は、この世界のほとんどすべてを扱う。この意味で、公理的集合論は素朴集合論よりも、ずっと小さな理論である。
 なのになぜ、数学者は、素朴集合論でなくZFを、選んだのか? わざわざ小さな理論を。それは、公理的集合論が、厳密な理論だからである。素朴集合論は、扱える対象が広いが、そのせいで、矛盾がまぎれこみやすい。数学という厳密な世界を築くには適さない。数学にとって大切なのは、理論の豊かさよりも、理論の厳密さなのだ。
 ともあれ、以上に述べたように、この二つの集合論は決定的に異なる。「物の集まり」を扱うことを、公理的集合論は禁じている。なのに、その禁じていることを、素朴集合論は犯しているのだ。つまり、両者はたがいに矛盾する。もし一方を選ぶならば、他方を捨てねばならない。両方をともに選ぶことはできない。

 § 1−3
 にもかかわらず、現代の数学者は、現状にほぼ満足している。彼らは素朴集合論のことなど、念頭にないからだ。ZFのみを使っている限りは、矛盾を生じないからだ。彼らは、こう思っている。
「ZFは、数学的な対象を扱えるだけで、現実世界のものを扱うことはできない。しかし、それでもかまわない。数学は、数学的対象だけを扱えれば十分だ。現実世界のものなど、扱えようが扱えまいが、どちらでもいい」と。
 なるほど、それは一つの見解である。しかし、よく考えてみよう。そもそも公理的集合論は、素朴集合論から生じたのだ。なのに、その源である素朴集合論との関係を、断ってしまっていいのだろうか?
 ZFには、公理がある。その公理は、素朴集合論の考え方を、数学的に形式化したものだ。たとえば、和集合を作ったり、共通集合を作ったり。……こうした操作は、素朴集合論における基本的な操作である。ゆえに「自明なこと」として、ZFは取り入れた。
 しかし、すでに述べたとおり、ZFは、素朴集合論とは別のものなのだ。むしろ、たがいに矛盾するものなのだ。としたら、素朴集合論の操作をZFの公理に取り入れることなど、できないはずである。そんなことをして理論をつくっても、まったく、根拠を欠いている。いわば、砂上の楼閣をつくるようなものである。
 ZFは、このようにしてあやふやな土台の上に、成り立っている。そして、そのようなZFの上に、現代数学は成り立っているのだ。とすれば、現代数学そのものの根拠がぐらついてしまう。
 「それでもいい」と多くの数学者は考えているようだ。「別に深いことは考えなくてもいい。形式の上で、矛盾を生じなければいい。意味よりも、形式が大切だ」と。
 こうした立場は、「形式主義」と呼ばれ、現代数学の主流をなしている。ただし、少数の数学者は、形式だけでなく、物事の本質を深く考えようとしている。しかしながら、深く考えれば深く考えるほど、問題が込み入ってしまうのである。
 一方、視点を現代数学の外に移してみよう。すると、初めの問題が何ら解決されていないことに気づく。
 そもそも、人々は、「すべての人間」や「すべてのカラス」を扱う理論がほしかったのだ。現実世界のものを扱う理論がほしかったのだ。なのに、現代数学が人々に与えてくれたのは、「すべての偶数」などだけを扱うような理論だけなのだ。素朴集合論を「間違っているもの」として捨てることを強要しているくせに、素朴集合論の代わりの品を与えてはくれないのだ。
 これでは、われわれは途方に暮れてしまう。では、いったい、どうしたらいいのか?

 § 1−4
 われわれの望みは何か? それは、はっきりしている。すでに述べたことを思い返せば、明らかだろう。
 (1) 物の集まりを扱うこと。
 (2) 現代数学を矛盾なく構成できるような、厳密な理論体系を築くこと。
 この二つの目的を、同時に達成したいのである。二つの目的のうち、 (1)は素朴集合論が達成したし、 (2)はZFが達成したが、そのどちらか一方ではなく、双方をともに達成したいのである。
 では、そのようなことは、可能だろうか?
 20世紀初めのころ、数学者たちは、それは可能であると信じた。そして、その実現をめざして、多くの数学者が奮闘した。その結果、さまざまな理論が生まれた。よい理論も生まれ、よくない理論も生まれた。そのあげく、最後に残ったのは、ZFだけだった。正確に言えば、他にもいくつかの理論が残ったのだが、それらはいずれも、数学的にまったく同等であることが証明された。つまり、われわれが手に入れた理論は、実質的には、ZFだけなのだ。他には選択肢はないのだ。
 なのにZFは、先の二つの目的のうち、(2)の方を達成しているだけで、(1)の方は達成していない。つまり、(1)と(2)の双方をともに達成するような理論は、いまだ生まれていない。20世紀の末となった現在でも、そうなのだ。
 現在の数学には、上に述べたような困難がある。ただしその困難を、困難として認識していない数学者が多い。今の数学は完成した体系だと信じて、そこにひそむ問題点には目を向けない数学者が多い。実は、公理的集合論には、非常に多くの問題点があるのだが。(そのことについては、《 Part2》で、詳しく示す。「今の数学は正しい」と信じている人は、必ず、《 Part2》を読んでほしい。)
※ さて、以上では、現代数学の問題点のいくつかを、簡単に示した。これ
  らは、数学の世界でよく知られた事実である。
   以下では、私の個人的な見解を述べる。話の筋としては、以上のことか
  ら以下のことへとつながるのだが、他人の個人的見解など読みたくないと
  いう人は、以下のことは飛ばして、《 Part2》へ進んでもよい。以下の
  ことは、またあとで読み直してもよい。 
  ------------------------------------------------------------

 § 1−5
 私はここで、新しい理論を提出する。
 この理論は、先の(1)(2)の目的を、ともに達成するものである。すなわち、物の集まりを扱うことができて、しかも、現代数学を厳密に構成することができる。
 この新しい理論は素朴集合論を、考え方の基礎としている。その点ではZFとは変わらない。ただしZFとは、形式化の手順がまったく異なる。
 ZFは、素朴集合論を単にそのまま形式化した。ZFの基本的な考え方は、素朴集合論と同じである。その意味で、ZFはまさしく集合論と呼べる。
 私の示す新しい理論は、素朴集合論を考え方の基礎としているが、素朴集合論を単にそのまま形式化したわけではなく、ある重要な変更を加えている。その意味で、私の示す新しい理論は、集合論によく似てはいるが、もはや「集合論」と呼ぶことはできない。
 そこで、この理論を、「区体論」と呼ぶことにしよう。集合論と区体論は、兄弟のように似ているが、異なる理論である。いわば、異母兄弟のようなものである。
 以下では、区体論について、解説する。
    (注)なお、読み方と英訳は、次の通り。
      区体 : くたい   : ward
      区体論 : くたいろん  : ward theory
      集合 : しゅうごう  : set
      集合論 : しゅうごうろん : set theory

 § 1−6
 区体論は集合論とは、どう異なるのか? 
 まず、集合とは何かを、考えてみよう。集合とは、「物の集まり」それ自体ではなく、「物の集まりを一つにまとめたもの」である。
 例を挙げよう。たとえばここに三つのリンゴがあるとしよう。それらを A,B,C と記すことにする。 
 この三つは、リンゴであって、集合ではない。しかし、これら三つを一つにまとめたものは、集合である。
 では、一つにまとめるとは、いったいどういうことか? それら三つのもの示す記号(つまり A,B,C という記号)を、カッコでくくることだ。
   { A,B,C } 
 このように記号をカッコでくくって、物の集まりを一つにまとめること。それが集合論の本質的な点だ。
 では、区体論はどうか? 区体論では、物の集まりを一つにまとめたりはしない。とすれば、どうやって、物の包含を考えるのか?
 あらためて例を挙げよう。今、二つのリンゴ B,C があったとする。1個のリンゴは2個のリンゴに含まれる。この場合の考え方を、集合論と区体論とで、比較してみよう。
 集合論では、次のように表現する。
     B ∈{B}∪{C}
    {B}⊂{B}∪{C}
 それぞれの式の意味は、明らかだと思うが、念のため、解説しておこう。第一の式では、 ∈ という記号によって、要素と集合の関係を述べている。第二の式では、 ⊂ という記号によって、部分集合と集合の関係を述べている。
 集合論では、このように、 ∈ と ⊂ という二種類の記号が現れる。いずれも、日常語における「含まれる」ということを意味する。だから、単に「 X は Y に含まれる」と言っても、その含まれ方には、2種類あるわけだ。
 なお一般に、 B∈X と書かれるとき、 X は B よりもレベルが1段階上だと見なされる。(このレベルを集合論では「階型」と言う。)
 一方、区体論では、含まれ方は、1種類しかない。たとえば上の二つに相当することは、区体論では、次のように書かれる。
     B@B∪C
     B⊂B∪C
 さて、区体論では必ず、
     B@X ⇒ B⊂X
 が成立する。つまり、@という記号(集合論の ∈ に相当する)と、 ⊂ という記号(集合論の ⊂ に相当する)とは、同種のものなのだ。そして、
     B@X
 と書かれるとき、 Bと X は同じレベルにあるのだ。
 では、区体論における @ と ⊂ という記号は、そもそも、どのような意味を持つのだろうか? それについては、次に記す。
 (注)なお、注意せよ。区体論では、 ⊂ とか ∪ とか、集合論と同じ形の記号を用いているが、厳密に言えば、区体論の記号は、集合論の記号とは、別のものである。(意味するところはほとんど同じであるが。)
 
 § 1−7
 区体論の概要を、以下に記すこととしよう。区体論はだいたいのところ、集合論によく似ている。区体とはカッコのない集合のことだ、と考えてもよい。あくまで直感的なとらえ方だが。
 では、区体論について記すこととしよう。区体論では、以下のような記号を用いて、包含関係を示す。
 (1) ⊂
 包含関係は ⊂ という記号で表される。たとえば、
     B⊂R
 という式がそうである。この式の意味は「BはRに含まれる」ということである。
 (2) ∩
 二つの区体の共通部分は、 ∩ という記号で表される。たとえば、
     R∩S
 という式がそうである。(これは集合論と同様である。)
 (3) ∪
 二つの区体の和は、 ∪ という記号を用いて表される。たとえば、
     R∪S
 という式がそうである。(これも集合論と同様である。)
 以上の(1)(2)(3)について、例を示してみよう。今ここで、
     P=a∪b
     Q=b∪c
 と定義する。この場合、共通部分を考えると、次のようになる。
     P∩Q=b
 また、和を考えると、次のようになる。
     P∪Q=a∪b∪c
 以上の意味は明らかであろう。カッコのないことを除けば、集合論の場合と同様である。なお、次の図を参照のこと。
      P  ……  a b
      Q  ……   b c
     P∩Q ……   b
     P∪Q ……  a b c
 (4) @
 さて、区体論には、もう一つ、 @ という記号が出てくる。本当は別の形の記号だが、インターネットではうまく記号が表示できないので、この記号を用いる)
 たとえば、次のような式で書ける。
     a@R
 この式の意味は、次のことである。 
 [1] aはRに含まれる。(つまりa⊂R)
 [2] aに含まれるものは、aだけであリ、他には何もない。
 この[1][2]の意味することを、わかりやすく言えば、こうだ。
  「aは、Rに含まれるあらゆる区体のうちで、最小のものである」
 なぜかと言えば、[1] により、aはRに含まれ、[2]により、aに含まれるものは a 以外には何もないからだ。なお、このような a を「アトム」と呼ぶ。具体的には、点をイメージするとわかりやすい。
 さて、この @ という記号によって表される式は、何を意味するか? それは、集合論における ∈ という記号によって表される式と、ほぼ同様である。たとえば、「 a は P に含まれる点である」ということは、集合論では、
     a∈P
 と書かれ、区体論では、
     a@P
 と書かれるが、この二つの式は、ほぼ同等の意味をもつ。実際、集合論における式の ∈ を、区体論の @ に置き換えれば、その翻訳された式は、たいていの場合、区体論でも成立する。
 とはいえ、 ∈ という記号と @ という記号は、まったく同様ではないはずだ。では、どこが異なっているのか?
 それは、記号の左側に来るものではなく、記号の右側に来るものである。(上の例で言えば a でなく P である。) ∈ という記号の右側に来るものは、集合論では、集合という「一つのもの」であった。区体論では、異なる。 @ という記号の左側に来るものが「一つのもの」であるのに対し、右側に来るものは、「一つのものの集まり」つまり「複数のもの」である。
 集合論と区体論では、このような違いがある。それにともなって、次のような違いも生じる。
 集合論では、集合を含むものは「一つのもの」であったので、それを含むような集合も存在し得た。しかし、区体論では、アトムを含むものは「一つのもの」ではないので、それをアトムとして含むようなものは存在しえない。
 つまり、区体論では、単数のものと複数のものを、厳格に区別するわけだ。複数のものをまとめて一つのものとして扱うというような操作を、頑として拒むわけだ。 
 区体論の考え方は、このように、素直で自然である。単数のものは単数として扱い、複数のものは複数のものとして扱うという、それだけのことだ。
 一方、集合論では、異なっている。「複数のものを一つのものにまとめる」という、特別な操作を施す。そして、この特別な操作が、さまざまな不自然な問題や矛盾を引き起こすのだ。なぜなら、複数のものを単数のものに変形するというのは、人為的で勝手な操作であり、あるがままの真実に反することだからである。――集合論の矛盾の理由を、私は、そのように推測する。

 § 1−8
 区体論の概要については、すでに説明した。
 次に、区体論の公理系を示すことにしよう。厳密な数式を用いて書くのは、《 Part2》以降で行うことにして、ここでは公理系のあらましを示す。
 区体論の公理は簡単である。数学の得意な高校生なら、誰でも容易に理解できる。ひるがえって、公理的集合論の公理は難解である。一般の高校生が理解することはほとんど不可能である。 
 両者のこのような違いは、それぞれの体系の構造自体に由来する。区体論の理論体系は、シンプルである。集合論の理論体系は、非常に複雑である。だから、前者はわかりやすく、後者はわかりにくい。そしてまた、前者は対称性をもって美しいが、後者はあちこちにデコボコがある。
 ともあれ、以下で、区体論の公理系を示すこととする。
 
 [ 前提 ]
 以下において、 A,B,C などのアルファベットで示されるものは、区体であるとする。そのことをいちいち断らないので、注意すること。
 [ 公理1 ] 
   A⊂A
 という式が、任意の A について成立する。
 (その意味は:「どの区体も、自分自身に含まれる。」)
 [ 公理2 ] 
   A⊂B かつ B⊂C ならば A⊂C
 ということが、任意の A,B,C について成立する。
 (その意味は:「AがBに含まれ、BがCに含まれるならば、AはCに含
  まれる」)
 [ 公理5 ] 
  任意の B,C に 対し、それらの共通部分が存在する。
 (なお、この共通部分を B∩C と書く。これは、集合論の共通部分と、  ほぼ同等のものである。) 
 [ 公理6 ] 
  任意の B,C に対し、それらの和が存在する。
 (なお、この和を B∪C と書く。これは、集合論の和集合と、ほぼ同等
  のものである。)
 [ 公理3 ]
  φ という区体が存在する。そして、任意の B に対して、
   B∪φ =B
  が成立する。
 (つまり、どんなBに φ を加えても、Bは少しも増えない、というよう
  な φ が存在する。これは、集合論の空集合と同等のものである。)
 ( φ は「空区体」と呼ばれる。)
 [ 公理7 ] 
 任意の R,S に対して、 T が存在して、次のことが成立する。
   「 S⊂R
   が成立するならば、次の二つの式がともに成立する。
    S∪T=R
    S∩T=φ     」
 (この T を S の「補区体」と呼ぶ。これは集合論の補集合と同等のも
  のである。)
 (なお、補区体を考えるときは、それを含む元の区体を考えねばならない。
  上の例でいえば R である。)
 (補区体は、次のように ^ という記号を用いて記す。
   S^(R)
  これは、RのなかのSの補区体である。
 なお、補区体を示すために使う記号 ^ は、この記号よりも、むしろ、小さ
  な c という上付文字を使いたかった。集合論の補集合と同様に。しかし
  ながら、インターネットでは、このような記号は使えないので、 ^ とい
  う記号で代用したわけだ。)
 さて、公理7によれば、任意の R は、 S と T の和の形に書ける。ただしそれには、
     S=R , T=φ 
 である場合も含まれる。一方、
     S≠φ , T≠φ 
 である場合もある。この場合は、RがSとTとに、分割できたことになる。とはいえ、このような分割が一般に可能かどうかは、今この段階では何とも言えない。 
 では、結局、どうなのだろうか? 区体論の世界では、あらゆる区体は、二つの区体に分割できるだろうか?
 そうではない。そうならないような区体が存在するのだ。そのことを、次に示す。
 [ 公理8 ] 
  φ 以外の任意の R について、次の (1)(2)を満たすような a が存在する。
   (1) a⊂R
   (2) a に含まれるものは、 a だけである。
  (つまり、どんな区体 R に対しても、それに含まれる区体のうちで最小
  のものが、存在する。最小のものとは、もはやこれ以上分割できないもの
  である。)
  (なお、このような a を、「Rのアトム」と呼ぶ。「アトム」という用
  語は、もちろん、ギリシア哲学における「アトム atom 」という言葉に由
  来する。)
 ここで、注意してほしい。公理8の R は、「 φ 以外の任意の R について……」となっている。つまり公理8は、 R が φ である場合は、成立しない。直感的に言えば、無のなかに点は存在しない、ということだ。
 さて、もう一つ、注意してほしい。公理8は、アトムが存在することを保証する。とはいえ、特定のアトムを具体的に指示しているわけではない。「Rのアトム」といっても、一般にはたくさんあるのであって、そのうちのどれか特定のアトムが指示されているわけではない。
 こうした事情は、ちょうど、英語の不定冠詞の場合に似ている。たとえば、「the man」で示される人物は特定されるが、「a man」で示される人物は特定されない。
 さて、あらゆる区体のうちで最小のものがアトムであることは、すでに公理8で示された。
 では、あらゆる区体のうちで最大のものは、何だろうか? あるいは、最大のものは、存在しないのだろうか?
 集合論では、「あらゆる集合のうちで最大のもの」つまり「あらゆる集合を含むような集合」は、存在しない。しかし区体論では、事情が異なる。「あらゆる区体のうちで最大のもの」つまり「あらゆる区体を含むような区体」が、存在する。それは区体論の全空間である。
 今、区体論の公理系の成立する空間全体を Ω と書くことにしよう。そうすると、次のことが成立する。
 [ 公理4 ] 
  Ω は区体である。
  (この Ω を「区体空間」または「全空間」と呼ぶ。)
 公理4は、あらゆる区体を含む最大の区体があることを意味している。その区体が Ω である。 Ω は、その空間内におけるすべてのアトムの集まりとして構成されている。逆に言えば、 Ω は数多くのアトムに分割できる。
 ただし、注意せよ。 Ω は、区体ではあるが、アトムではないのだ。このことは大切である。
 集合論では、集合を集めてつくったものも、集合であった。しかし区体論では、アトムを集めてつくったものは、アトムではない。なぜなら、多くのアトムを集めてつくったものは、分割可能であり、公理8の (2) を満たさないからだ。
 (注)このことは、直感的にも明らかだろう。多くの点の集まりは、1個
  の点ではないからだ。多くの点の集まりは、線や平面になることはあ
  っても、点になることはない。
 集合論では、「集合を集めてつくったもの」は、それもまた集合だったので、「あらゆる集合を集めてつくった集合」というものが考えられ、そこに自分自身が含まれるという、一種の循環が生じた。そのあげく、矛盾を生じた。
 しかし、区体論では、上に述べたことゆえに、循環は生じないし、矛盾も生じないのだ。(そのことについて詳しくは、《 Part2》で示す。)

 § 1−9
 区体論の公理について、おおよそ説明してきた。
 あとは、これらの公理を組み合わせるだけで、さまざまな定理を導き出せる。素朴集合論においてよく知られているような、さまざまな定理を。
 たとえば、ド・モルガンの法則がある。
   (A∩B)^ = A^ ∪ B^ 
   (A∪B)^ = A^ ∩ B^ 
 (注。 A^ は A の補区体を表す。先に公理7の説明で示した通り。)
 この式は、素朴集合論では、ベン図などによって直感的に理解するだけだった。その場合、数学な厳密さに欠けていた。
 しかし区体論では、ド・モルガンの法則を、公理から導き出された定理として、厳密な形で得ることができる。
 ド・モルガンの法則のほかにも、さまざまな多くの定理を得られる。実際、公理的集合論の定理として知られているものはすべて、区体論の公理系から導き出される。区体論はこのように、 数学を厳密に体系化できるわけだ。
 一方、区体論は、素朴集合論と同じように、現実世界のものを扱える。公理的集合論のように現実世界のものを排除したりはしない。人間やカラスを一個のアトムとして扱い、それらの包含関係を考えることができる。
 ここで、思い起こしてみよう。先にわれわれは、次の (1)(2) を達成しようとした。[§1−6を参照。]
 (1) 物の集まりを扱うこと。
 (2) 現代数学を矛盾なく構成できるような厳密な理論体系を築くこと。
 そして、区体論はまさしく、上の (1)(2) を達成するような理論となりえたのである。つまり、われわれの望みは、ここに実現したわけである。
             
(区体論について、数学的に厳密な表現を知りたければ、《 Part2》に進んでほしい。もし進みたければ、次の《 Part2》をクリックして。)
     《 表紙 》      《 Part2》