《 Part2 》
―― 目 次 ――
§ 2−1 § 2−2 § 2−3
§ 2−4 § 2−5 § 2−6
§ 2−7
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以下は、本文です。
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§ 2−0
《 Part1》では、わかりやすく説明した。《 Part2》では、もっと数学的に詳しく説明しよう。
まず初めに、集合論の問題点を示す。そのあとで、区体論を数学的に厳密に示す。
§ 2−1 素朴集合論の問題点
すでに示したように、素朴集合論はパラドックスを生じる。では、それは、どんなパラドックスなのだろうか?
素朴集合論は、「物の集まり」を扱う。そして、「物の集まり」を扱う限りは、パラドックスを生じない。ところが、「物の集まり」のほか、「集合の集まり」を扱うと、パラドックスを生じるようになるのだ。
第一に、「カントールのパラドックス」がある。「集合の集まり」すなわち「集合の集合」が存在するなら、「あらゆる集合を含む集合」が存在してもいいはずだ。しかし、そのような集合が存在すると仮定すると、矛盾が生じるのだ。(数学の専門用語を必要とするので、ここでは詳しい説明は省く。)
第二に、「ラッセルのパラドックス」がある。「集合の集合」が存在するなら、次のような集合も存在していいはずだ。
R≡{X|¬(X∈X)} ……(1)
(注。 ¬ という記号は、否定を表す。つまり、そのあとのカッコ内の式
が成立しないことを示す。だから、上の式で示された R は、
¬(X∈X)
という式が成立しないようなすべての X を集めてできた集合であ
る。要するに、 R とは、自分自身を含まないような集合をすべて集
めてできた集合である。)
さて、このような R が存在していいはずだ。しかし、そのような集合が存在すると仮定すると、矛盾が生じるのだ。そのことを、以下に示そう。
今ここで、 R が R 自身の要素である場合を考える。つまり、
R∈R ……(2)
という式を考える。この式が成立するかどうかは、わかっていない。とはいえ、成立するか、成立しないか、いずれかである。では、成立するのか、成立しないのか。
もし、(2)が成立すると仮定すれば、この仮定と(1)から、
¬(R∈R)
が成立する。これは仮定に矛盾する。ゆえに仮定は正しくない。
一方、(2)が成立しないと仮定すれば、この仮定と(1)から、
¬(¬(R∈R))
つまり、
R∈R
が成立する。これは仮定に矛盾する。ゆえに仮定は正しくない。
要するに、(2)の式を考えると、それが成立するという仮定も、それが成立しないという仮定も、どちらも正しくないことになる。これはおかしい。
以上が「ラッセルのパラドックス」である。
さて、「カントールのパラドックス」と「ラッセルのパラドックス」を、すでに示した。この二つの意味するところは、こういうことだ。すなわち、「集合の集合」というものを扱うと、素朴集合論は、根本的な矛盾を生じるのである。
では、「集合の集合」を扱わなければいいのか? 「集合の集合」については一切考えず、「物の集合」だけを考えていればいいのか?
そうかもしれない。それならば、矛盾は生じない。しかし、矛盾を生じないかわり、理論が貧弱になってしまうのである。
現代数学では、自然数や実数などのさまざまな数学的対象は、すべて集合と見なされる。もし「集合の集合」を扱えないとしたら、同時に、一切の数学的対象を扱えなくなってしまう。自然数も実数も、扱えなくなる。そのような理論は、あまりに貧弱で、とても数学の体系を築くことはできない。
結局、「集合の集合」を、扱うにしても扱わないにしても、いずれにせよ、素朴集合論は、困難にぶつかるのだ。
§ 2−2
公理的集合論は、その問題を、一応解決した。新しい公理を導入するによって。その公理は、「正則性の公理」という。
正則性の公理の具体的な数式は、ここでは示さない。公理的集合論の本には必ず書いてあるので、そちらを参照してほしい。また、この公理の意味については、講談社ブル−バックスB298の「集合とは何か」(竹内外史著)の121頁を参照してほしい。
正則性公理は、「集合」を、ある一定範囲のものに限定する。すると、先に述べた二つのパラドックスは回避される。
なぜか? 先の二つのパラドックスにおいては、ある特別な集合が現れた。すなわち、「すべての集合からなる集合」とか「自分自身を含まないようなすべての集合からなる集合」とかいう集合が。このような集合は、正則性公理のもとでは、集合であるものの範囲には入らないのだ。つまり、これらのものは集合としては存在しない。だからパラドックスも生じないわけだ。
正則性公理は、このようにして、矛盾を回避するために、不都合をもたらすような特別な集合を、体系の外に押しやった。しかし同時に、現実世界のものをも、体系の外に押しやったのである。
そうだ。人間とかカラスといった、現実世界のものは、正則性公理のもとでは、扱えなくなってしまったのだ。もはや「すべての人間」や「すべてのカラス」を、扱うことはできなくなってしまったのだ。
では、正則性公理を導入するのを、やめればいいのか? その場合は、もちろん、パラドックスを回避できなくなる。
では、正則性公理以外の、別の公理はないのか? すなわち、先の二つのパラドックスを回避し、同時に、現実世界のものを扱えるような公理は。
そうした公理は、あるかもしれないが、少なくともこれまでのところ、見つかっていない。20世紀初め以来、多くの数学者が何十年も考えつづけて、見つかっていないのだ。おそらく、今後も、見つかることはないと思える。
とはいえ、取って代わるようなものが見つからないからといって、正則性公理が正しいということにはならない。正則性公理の正しさについて、疑ってみれば、疑えなくもない。
そもそも、正則性公理は、誕生の過程がきわめて不自然だった。正則性公理に相当するものは、素朴集合論には見当たらない。だから、公理的集合論が初めて登場した時点では、正則性公理は導入されていなかった。(E・ツェロメロ。)ところが、のち、先に述べた二つのパラドックスが発生することがわかった。そこであわてて、正則性公理が付け加えられたのである。(フォン・ノイマン。)つまり、初めから体系の一部として組み込まれていたのではなく、あとからオマケのように付け足されたのである。
そしてまた、置換公理というものも、あとからオマケのように付け足されたのである。
こうした歴史的経過から、集合論学者の多くは、こう考えている。
「集合論には、今後もさらに次々と、新しい公理を付加することができるだろう。そうすれば、それだけいっそう、理論が豊かになるだろう。ちょうど、正則性公理を加えたことによって、理論が豊かになったように。」
そうだろうか。次々と改良されていくことがあらかじめ予想されている理論。本質的に未完成であることが前提されている理論。今後もまたいつか別のパラドックスが生じるかもしれず、そうしたパラドックスが生じるたびに、新しい公理によって修正されねばならない理論。いわば、自分自身のうちに矛盾の芽が含まれている理論。
そのような理論を、私自身は、とても信じる気にはなれない。工学上の便宜的な理論としてならともかく、数学を基礎づける理論としてはとても信じられない。真実とは、もっと単純で、簡潔で、美しいものであるべきだ。
§ 2−3
公理的集合論の成立過程をめぐる問題を、すでに指摘した。そこでは、あらかじめ用意された体系によって問題を原理的に解決するのではなく、問題が現れるたびに新たに公理を加えるという応急処理的な方法で、問題を解決しようとしてきた。
こういったやり方。原理に戻って考えるのでなく、形の上で何とか取りつくろえばいいというやり方。その場しのぎで、いいかげんなやり方。――こういったやり方は、実は、他にもあちこちに見られる。
以下では、集合論のいいかげんさの例を、いくつか示そう。
[1] クラス
公理的集合論における正則性公理は、集合を、一定範囲のものに限定した。つまり、「すべての集合の集合」とか、「自分自身を含まないようなすべての集合」とかは、あまりにも大きすぎてもはや集合ではない、と判定したのである。
では、これらのものは、集合ではないとしたら、何なのか? その問いに対して、公理的集合論はこう答える。
「これらは、クラスだ。」
では、クラスとは、何なのか? 集合とクラスの境界は、いったい、どこにあるのか? どのへんからどのへんまでが「集合」であり、どのへんからどのへんまでが「クラス」であるのか?
このことは、実は、集合論の最大の難問である。20世紀の初め以来、今日まで、その解答を求めて、多くの集合論学者が頭を悩ませてきたにもかかわらず、いまだ解決していない。
もちろん、それが解決しないからといって、集合論がただちにぐらつくわけではない。とはいえ、そこには、大きな問題があるのだ。
どのへんからどのへんまでが「集合」となるかは、わかっていない。つまり、体系の空間全体が確定していない。なのに、それにもかかわらず、集合論では、体系の空間全体が確定しているものと見なす。
それは、「任意の」を意味する ∀ という記号の場合だ。
集合論では ∀ という記号が現れる。たとえば、空集合の公理は、次のように表現される。
(∀X) ¬(X∈φ )
この式の意味は、こうだ。
「体系の空間内のあらゆる X について
¬(X∈φ )
が成立する」
このように「体系の空間内のあらゆる X について……である」と言う。しかし、そう言えるには、体系の空間内のすべての集合が、あらかじめわかっていなくてはならないはずだ。なぜなら、一つでもあいまいなものが残っていれば、その命題は崩壊してしまうからだ。
例を挙げよう。
(1) 「すべてのカラスは、黒い」
という命題がある。この命題を証明するためには、
(2) 「すべての黒くないものは、カラスでない」
という命題を証明してもよい。両者は同等な命題である。
そこで、ある学者は、(1) を証明しようとして、身近なものを一つ一つ調べはじめた。「この紙は黒くない」「この花は黒くない」「この消しゴムは黒くない」……というふうに。こうして黒くないものを次々と調べていけば、やがていつか、「すべてのカラスは、黒い」と証明することができるはずだ、と信じて。
彼はそしてまた、カラスについての命題を証明するために、ゴミ箱をあさりはじめた。……
この学者のやり方は、おかしい。では、どこがおかしいのだろうか?
たしかに、(1)と(2)は同等である。(1)を証明することと(2)を証明することは同等である。ただし、このような証明を現実に実行することは、無意味なのだ。なぜなら、紙や消しゴムなどについて、それらが黒くないことを一つ一つ確認していっても、(2)が真であることを証明したことにはならないからだ。そもそも、(2)を証明するには、世界中の黒くないものについて、すべてすっかり調べつくさなくてはならない。一つも漏らさず調べつくさなくてはならない。すべての黒くないもののうちの、最後の一個について調べ終えたとき、ようやく、(2)は証明される。仮に、黒くないものが一つでも未確認なまま残っていれば、(2)が真か偽は、いまだ不明である。なぜなら、黒くないもののうち、未確認なまま残った最後の一つが、カラスであれば、「すべてのカラスは黒い」という命題は成立しないからだ。
集合論も、同様だ。体系の空間内のすべての集合について、それがどんなものであるか、あらかじめわかっていなくてはならない。集合かどうかわからないようなものは、一つも混じっていてはならない。
なのに、集合論では、集合となるものの範囲がはっきりとわかっていないのだ。それでいて、「すべての集合について……である」などという命題を立てているのだ。ここに、集合論のいいかげんさがある。(矛盾と言うほどではないが。)
[2] べき集合公理
一つの集合には、多くの部分集合が含まれている。これらの部分集合の一つ一つを要素として含むような集合 P を、新たに作ることができる。こうして作られた集合 P を「べき集合」と呼ぶ。
公理的集合論は、任意の集合について、そのべき集合が存在することを主張する。(これを「べき集合公理」と呼ぶ。)
ところで、べき集合公理を認めると、奇妙なことが生じるのだ。
元の集合に比べ、べき集合は、要素の数が圧倒的に多い。有限の場合には、それでもいいが、無限の場合には、問題が生じる。無限が次々と増殖してしまうのである。
われわれは、現代数学において、次のことを知っている。
(1) 有限に比べ、自然数無限は、圧倒的に大きい。有限をどれほど足して
も掛けても、自然数無限にはならない。
(2) 自然数無限に比べ、実数無限は、圧倒的に大きい。自然数無限をどれ
ほど足しても掛けても、実数無限にはならない。
(注。「自然数無限」「実数無限」は、数学の専門用語では、「可算」
「連続」と呼ばれる。)
ところで、自然数無限を「第一無限」と呼び、実数無限を「第二無限」と呼ぶことにしよう。(この場限りの話だが。)
すると、べき集合公理により、「第三無限」「第四無限」……というふうに、次々と高次の無限が発生することになる。「発生してもよい」のではなく、「発生しなければならない」のだ。それらの高次の無限は、第一無限や第二無限と同等の資格で、集合論の世界のなかに存在する。
ところが、われわれの世界は、異なる。われわれの世界には、有限も、第一無限も、第二無限も存在する。(たとえば、一本の直線上には、第二無限の量だけの点が存在する。)しかし、われわれの世界には、第三無限や第四無限などの高次の無限は、存在しない。というより、存在してはならない。われわれの世界に収まるのは、最大でも第二無限であって、それより大きな無限はとうてい収まらないのだ。たとえば、第三無限を、一本の直線上に並べることはできない。もちろん、直線でなく、平面や立体空間のなかに並べることもできない。
つまり、集合論の示す世界と、われわれの世界とは、全然別のものなのだ。いわば、集合論とは、五次元世界のための理論のようなものだ。「この世界は五次元だ」ということを主張する理論は、三次元の世界に住むわれわれには無意味だ。同様に、「この世界には高次無限が存在しなければならない」ということを主張する理論は、実数無限の世界に住むわれわれには無意味だ。
要するに、五次元世界の理論も、公理的集合論も、それらは、どこか別の宇宙のための理論であって、われわれのいる宇宙のための理論ではないのだ。
[3] 他の問題
以上の[1] [2]の他にも、集合論には、いくつかの問題がある。それらを、次の(1)〜(5)に示す。
(1) 中間濃度の問題。第一無限と第二無限の間に、中間の無限はあるだろうか? この問題は、「連続体仮説」として知られている。そしてすでに、解答が得られている。「その仮説は集合論の公理系とは独立している」つまり「集合論の世界では解決できない」というのが、その解答である。つまり、中間濃度は、集合論を前提とする限り、なくてもいいし、あってもいい。
しかし、あってもいいのなら、集合論の世界では、なぜそれが容易に現れないのか。また、われわれの現実世界には、なぜそれが容易に現れないのか? ――このことは、問題として残る。
(2) 選択公理の位置の問題。選択公理という公理がある。(説明は省くが。)選択公理は、現在数学において、一応、必要なものとして受け入れられている。しかし、「必要だから受け入れる」というのでは、あまりに御都合主義だ。
選択公理は、どのような原理からもたらされ、現代数学のなかでどのような位置を占めるのか? こういったことは、はっきりとは説明されていない。選択公理の位置は、いまだに不安定なのである。だから、選択公理というものを本当に受け入れていいのか、多くの数学者が、いまだに不安に感じている。
(3) 超準解析との整合性。超準解析は、理論の簡潔さや美しさから、真実の一面をつかんでいると考えられる。しかし、今の集合論を前提とする限り、超準解析を正統的な理論として取り扱うことはできない。(そのことは超準解析の英語名 non-standard analysis からもわかる。)つまり、集合論という美しくない理論を正統視し、美しい簡潔な理論をキワモノ扱いする。ここには、不自然さがある。
(4) 「1.00000・・・」という実数と「0.99999・・・」という実数は、別の表現を取るが、同じ実数である。では、どうして、これらの場合だけ、二つの表現を取るのか? はっきりとした説明は、なされていない。集合論のなかでは、説明できない。
(5) 個物の問題。素朴集合論では、物の集まりを「一つのもの」にまとめる。「一つのもの」とは、個物である。では、個物とは、何なのか? それがよくわかっていない。
そもそも、公理的集合論が前提とする述語論理において、個物とは何なのかが、あいまいなままである。たとえば、鶏( a chicken )は個物であるが、鶏肉( chicken )は個物ではない。角砂糖は個物だが、角砂糖を水に溶かしたものは個物ではない。
では、どのようなものが個物と呼べるのか? それについては、何も説明されていない。ただ直感的に理解するだけである。つまり、最も基本的なところをあいまいにしたまま、以後の理論を組み立てているのである。
【注】集合論の問題についての説明は、いったん終える。もし《 Part1》の
後半を読まずにここまで来た場合は、あらためて§1−5へ戻ってほし
い。さもないと、以下のことは理解できない。
§ 2−4
素朴集合論においても、公理的集合論においても、いくつかの問題が生じる。そのことはすでに示した通りである。しかし、区体論においては、これらの問題は、一切生じないのだ。あらためて修正の用意しなくとも、そもそも原理的に矛盾が生じないのだ。
まず、「ラッセルのパラドックス」と「カントールのパラドックス」の場合について、区体論ではどうなるかを示そう。(なお、《 Part1》の §1−8 の[公理8]以降においても、簡単な説明を示した。参照のこと。)
[1] カントールのパラドックス
カントールのパラドックスについては、大略を説明する。(数式を用いると 難解になりすぎるからだ。)
カントールのパラドックスでは、べき集合を考える。そして、無限個の要素をもつ集合について、次々と高次の無限を考えたあげく、最大の高次の無限を考えると、そこには矛盾が生じる。――これが、カントールのパラドックスである。
ところで、区体論では、このような矛盾は生じない。
第一に、区体論では、べき集合に相当するものはないからだ。集合論では、ある集合の部分集合は、それ自体、別の大きな集合の要素となりえた。一方、区体論では、部分集合に相当する部分区体は、アトムとはならない。つまり、部分区体をアトムとするような、別の大きな区体が生じることはありえない。(なお、べき集合公理に相当する区体は、作れないことはないが、そのためには、特別な操作ないし定義を必要とする。)
第二に、集合論では、「あらゆる集合をあつめてつくったもの」は、集合であるか、クラスであるか、いずれかであった。区体論では、「あらゆるアトムを集めてつくったもの」は、区体とはなるが、アトムとはならない。
以上の第一と第二の点ゆえに、区体論では、カントールのパラドックスは生じないのだ。そもそも原理的に、生じようがないのだ。
[2] ラッセルのパラドックス
ラッセルのパラドックスとは、すでに §2−1 で示した通りのものだが、ここに再掲しよう。
R≡{X|¬(X∈X)}
なる集合 R について、
R∈R
という式を考えると、この式が成立するとしても成立しないとしても、矛盾が生じる。これがラッセルのパラドックスだった。
さて、区体論では、同じことを考えても、パラドックスは生じない。そのことを、以下に示そう。
今ここで、集合論の R に相当するものとして、
Q≡{X|¬(X@X)}
なる区体 Q を考える。これは、
¬(X@X)
という式が成立するあらゆるアトムを集めてつくった区体である。つまり、自分自身を含むアトムすべてを集めてつくった区体である。この区体 Q について、
Q@Q ……(1)
という式を考えてみよう。そして、この式が成立するか成立しないかが、問題となる。
さて、あらゆるアトムは、公理1により、自分自身に含まれる。つまり、あらゆるアトムについて、
X@X
は成立する。すなわち、あらゆるアトムについて、
¬(X@X)
は成立しない。したがって、そのようなアトムをすべて集めてつくった区体 である Q は、 φ である。そこで、(1)の Q に φ を代入すれば、(1)は、
φ @φ ……(2)
となる。ところで、公理8によれば、 φ はアトムではない。だから、(2)は成立しない。これが事実である。
ここで、集合論の場合と同様に、(2)が成立する場合と成立しない場合とを、仮定してみよう。(§2−1 を参照)
もし(2)が成立すると仮定すれば、上の事実に矛盾するので、この仮定は正しくない。
一方、もし(2)が成立しないと仮定すれば、この仮定と Q の定義から、
¬(¬(φ @φ )) ……(3)
となりそうに思える。しかし、そうはならない。なぜなら Q の定義における X は、アトムに限られるからだ。( X という文字が @ という記号の左にもあることに注意せよ。)アトムでない φ は、先の Q の定義における X には該当しない。だから、(3)は成立しない。つまり、仮定には反しない。したがって、矛盾は生じないのだ。
結局、以上の要点を言えば、こうだ。
集合論では、ある性質をもつ集合を集めてつくったものは、それもまた集合であった。これが元の集合にまぎれこんで、矛盾を生んだ。
区体論では、ある性質をもつアトムを集めてつくったものは、アトムではない。それはただの区体である。その区体がアトムとなって元のアトムにまぎれこむことはない。こうして、矛盾は回避されるのだ。
(注)ただし区体論でも、ある性質をもつアトムを集めてつくった区体
Z が、アトムとなることもある。それは、集められた区体が、ただ
1個のアトムしかない場合である。その場合はその場合で、別に、
問題はない。
結局、ラッセルのパラドックスが生じたのも、カントールのパラドックスが生じたのも、集合論の基本的な考え方による。集合論では、複数のものの集まりを一つにまとめて、単数のものとして扱う。こうした特殊な操作を加えるゆえに、矛盾が生じるのである。一方、区体論では、複数のものは複数のままで扱う。複数のものと単数のものを、同格に扱うことはない。だから、矛盾を生じることもないのだ。(§1−7でも述べた通り。)
[付記]「ラッセルのパラドックス」では、新たに作られた集合 R が、そ
れ自身の要素となって、元の集合の要素にまぎれこむ。これは、一
種の循環構造である。
ところで、「ウソつきのパラドックス」というものがある。
「私の言っていることはウソだ」
という文は、真か偽か? 真だと仮定しても、偽だと仮定しても、
いずれにせよ、矛盾が生じる、……というパラドックスだ。
このパラドックスは、よく考えると、ラッセルのパラドックスと
同じ循環構造を持っていることがわかる。つまり、複数の語からな
る文全体が、実質的に単数である一部分に回帰しているのだ。また、
循環構造の中に否定を含むゆえに矛盾が生じる、という点も同じで
ある。
結局、「ラッセルのパラドックス」と「ウソつきのパラドックス
は、本質的には、同じものであるのだ。
§ 2−5
素朴集合論で生じる二つのパラドックスが、区体論では発生しないということを、すでに示した。
次に、公理的集合論で生じる多くの問題(§2−3を参照)が、区体論では発生しないということを、ここで示したいのだが、しかしながら、それはできない。それをなすには、厳密な数学的表現が必要なのだが、すでに得たような《 Part1》の知識では、不十分だからである。
そこで、区体論を厳密に数学的表現を、行なうことにしよう。
以下では、区体論の公理系を、示すことにする。そして、この公理系があれば、集合論と同様に、数学を厳密に体系化することができる。
ただ、公理を示す前に、次のことを述べておく。
区体論は、数学を厳密に体系化することができるが、とはいえ、そのやり方は、集合論のやり方とは、やや異なるところがある。それは無限の取り扱い方である。無限を取り扱うには、無限公理が必要だが、これを、どうするか。
集合論では、無限公理は、集合論の公理系のうちに含まれる。
区体論では、そうではない。区体論の力の及ぶ範囲は、素朴集合論の力の及ぶ範囲とほぼ同じで、包含関係のみである。だから、無限を取り扱う際には、区体論と無限公理を、ともに用いる必要がある。
とはいえ、以上のことは、単に、やり方の違いであって、本質的な違いではない。
ただ、このことに関連して、一つの重要な事柄を示せる。
区体論の公理系には、無限公理は含まれない。区体論は無限については、何も言わない。そこで、無限を含まないような区体空間、つまり、有限の区体空間を、作ることもできる。そのなかで特に、アトムが1個しかないような区体空間を、作ることもできる。これは、アトムが1個あるだけで、他には φ しかないような体系である。このような体系をモデルとしてみよう。
すると、このモデルにおいては、公理1から公理8までの公理が、いずれも満たされているとわかる。
つまり、区体論の公理系をすべて満たすようなモデルが、現実に存在する。だから区体論という理論は、無矛盾なのである。すなわち、区体論という理論の無矛盾性は、簡単に証明されうる。
ゆえに、読者は、以下の面倒くさい数式を読むにあたって、徒労ではないかと心配することはない。以下に示す理論は、矛盾のない、正しい理論なのである。
§ 2−6
では、いよいよ、区体論の理論体系について、厳密な数学的表現を述べることとする。
区体論 (仮表示形)
[前提]
述語論理を前提とする。そして、次のような記号を用いる。
¬ ∀ ∃ ∧ ∨ ⇒ ⇔ ≡
否定 任意 存在 かつ または ならば 同値 定義
なお、∧ という記号は , という記号で代用することもある。
また、すべての束縛記号が ∀ であるとき、この束縛変項の部分を、省略する。たとえば、
(∀B)(∀C) B∪C
であるとき、これを単に、
B∪C
と記す。ただしこのような省略は、定理や定義の場合のみであり、公理においては、省略はしない。
なお、上の8個の記号のうち、左側にあるものほど、結びつきが強いものとする。
[無定義語]
無定義語として、次の二つの記号を取る。
Ω ⊂
この Ω を 「区体空間」または「全空間」と呼ぶ。
[定義1]
B⊂Ω
となるような B を「区体」と呼ぶ。
(注)以下では、 B,C,D などのアルファベットで示されるものはす
べて、区体であるとする。つまり、
B⊂Ω
などの式が成立するものとする。このことは、いちいち断らないの
で、注意せよ。
たとえば、公理1は、
(∀B) B⊂B
と記すが、厳密にいえば、その意味は、
(∀B⊂Ω) B⊂B
すなわち、
(∀B)[ B⊂Ω ⇒ B⊂B ]
である。
ただし、このような書き方では煩わしいので、「 B が区体で
あること」はいちいち記さないわけだ。
では、次に、公理を述べる。
[公理1]
(∀B) B⊂B
(つまり、いずれの区体も、自分自身に含まれる。)
[公理2]
(∀B)(∀C)(∀D)
B⊂C ∧ C⊂D ⇒ B⊂D
(つまり、 B が C に含まれ、 C が D に含まれるならば、 B は
D に含まれる。)
[公理3]
(∃φ ) (∀X)
φ ⊂X
(つまり、 φ が存在する。 φ とは、任意の X に含まれるような区
体である。なお、この φ を「空区体」と呼ぶ。[定義11])
(注。上の式は、《 Part1》で示した公理3の式とは、形が異なる。
だが同値であることが証明される。だから、ここでは、より簡単な形
の式を用いた。)
[公理4]
Ω⊂Ω
(つまり、 Ω もまた、区体である。公理4は、 Ω があらゆる区体の
うちで最大の区体であることを示している。なぜなら、定義1により、
任意の区体 X について、
X⊂Ω
が成立するからである。)
(なお、公理4においては、束縛変項が現れないことに注意せよ)
[公理5]
(∀B)(∀C)(∃R)(∀X)
X⊂R ⇔ X⊂B ∧ X⊂C
[定義12]
(この R をB∩C と書き、「BとCの共通部分」または「BとCの交わり」と呼ぶ。集合論における「共通部分」と同様のものである。)
[公理6]
(∀B)(∀C)(∃R)(∀X)
R⊂X ⇔ B⊂X ∧ C⊂X
[定義13]
この R を B∪C と書き、「BとCの和区体」または「BとCの結び」と呼ぶ。集合論における「和集合」と同様のものである。
ここで、解説を述べる。
公理5と公理6は、対称的な形をしている。そのことに、まず注意せよ。
また、公理5と公理6は、実際に「BとCに共通する部分」「BとCを合わせた部分」を意味することを、理解せよ。
ちなみに、公理5の X に R を代入してみよ。すると左辺は、
R⊂R
となるが、この式は、公理1により成立する。ゆえに右辺の
R⊂B ∧ R⊂C
も成立する。ところで、この式は定義12により、
B∩C⊂B ∧ B∩C⊂C
と同じである。だから、結局、
B∩C⊂B
B∩C⊂C
という二つの式が証明されたことになる。(この二つの式は、定理。)
区体論では、証明は、以上のように進める。以下では、多くの定理が出現するが、それらも同様にして証明できる。
[定義15]
B=C ≡ B⊂C ∧ C⊂B
(つまり、BとCが等しいとは、BがCに含まれ、CがBに含まれること
である。)
(この定義においては、束縛記号が現れないことに注意せよ。BとCが等
しいことを言うには、BとCの関係さえわかっていればよい。第三のも
のが現れる必要はない。一方、集合論の場合は、そうではない。第三の
ものである X が現れ、「あらゆる X について」を意味する (∀X)
という部分が登場する。
[定義16]
B≠C ≡ ¬(B=C)
[公理7]
(∀D)(∀B)(∃C)
B⊂D ⇒ D=B∪C ∧ B∩C=φ
(つまり、 BがDに含まれるならば、Dは、BとC とに分けることがで
きる。このCを、Bの「補区体」と呼ぶ。[定義18])
(なお、公理7には、
B=D , C=φ
となる場合も含まれている。そのことに注意せよ。)
[定義20]
a@A ≡ [a⊂A]∧[a≠φ ]∧
(∀X)[ X⊂a ⇒ X=φ ∨ X=a]
(つまり、こういうことだ。
a@A
という式は、次の三つがともに成立することを意味する。
(1) a⊂A
(2) a≠φ
(3) a に含まれるものは、φ か a かのいずれかである。
ここで、解説を述べる。
公理7により、あらゆる区体は、二つに分けることができる。特に、BがDよりも真に小さければ、DはBとCに真に分割できる。しかし、定義20で示されたような a は、もはやこれ以上分割できないのである。なぜなら、そこには a よりも真に小さなものは含まれないからだ。
このような a を、「Aのアトム」または「Aの最小区体」と呼ぶことにする。[定義21]
なお、このような a が、任意の A のなかに存在するか否かは、今この段階ではわからない。そこで、次の公理が登場する。
[公理8]
(∀A)(∃a)
A≠φ ⇒ a@A
(つまり φ 以外のいずれの区体のなかにも、必ずアトムが存在する)
ここで、解説を述べる。
公理8で示されることは、どんな区体のなかにも、アトムが少なくとも一つは含まれる、ということだ。
ところで、公理8と公理7を組み合わせてみよう。
a@A
となるときには、定義20より、
a⊂A
という式が成立する。これに公理7を適用すれば、 A は、 a とその補区体 A’とに分割できる。
そしてまた、この A’も、一つのアトムとその補区体とに分割できる。
以上のことを繰り返せば、任意の区体に対し、そこから次々とアトムを取り出して、最後に一つのアトムが残るだけのところまで、行き着く。
だから、結局、 A は数多くのアトムの集まりとして表現できる。要するに、どのような区体を取っても、それは、数多くのアトムだけから構成されているのだ。これは重要な結論である。
区体論の公理は、以上で終わりである。以上の公理さえあれば、以下のさまざまな定理を証明できる。少なくとも包含関係を示すのに、他に公理は必要ない。
ただ、数学を構成するためには、以上の公理だけでは不足する。たとえば、無限公理などが、別途必要である。それについては、先に§2−5で述べたとおりである。
では、次に、区体論の定理を示すことにしよう。これらはいずれも、すでに証明済みである。
----------- 区 体 論 の 諸 定 理 -----------------
[定理31A]
X=X
(証明)公理1と、等号の定義から、ただちに得る。
[定理31B]
X=Y ⇒ Y=X
(証明)等号の定義から、ただちに得る。
[定理31C]
X=Y, Y=Z ⇒ X=Z
(証明)公理2と、等号の定義より。
〈注〉以上の三つの定理により、等号について、同値関係が成立するとわ
かる。
[定理32A]
X=Y, Y⊂A ⇒ X⊂A
[定理32B]
X=Y, B⊂Y ⇒ B⊂X
〈注〉以上の二つの定理により、等号の成り立つ X,Y について、置き
換えが可能であるとわかる。
[定理33]
〔(∃A)(∀X) A⊂X〕 ⇒ A=φ
〈注〉つまり、空区体は一意的である。
(証明)上の式の左辺より A⊂φ
公理3より φ ⊂A
等号の定義より A=φ
[定理34]
(∀X)〔 X⊂φ ⇒ X=φ 〕
〈注〉つまり、 φ のなかに含まれるようなものは φ しかない。
(証明)上の式の左辺より X⊂φ
公理4より φ ⊂X
等号の定義より X=φ
[定理35]
(∀X)〔 Ω⊂X ⇒ X=Ω 〕
〈注〉つまり、 Ω を含むものは Ω しかない。
(証明)上の式の左辺より Ω⊂X
定義1より X⊂Ω
等号の定義より X=Ω
[定理36]
A∩B = B∩A
(証明)公理5の対称性より、ただちに得る。
[定理37]
A∪B = B∪A
(証明)公理6の対称性より、ただちに得る。
〈注〉上の二つの定理を、交換法則という。
[定理38]
(A∩B)∩C=A∩(B∩C)
[定理39]
(A∪B)∪C=A∪(B∪C)
〈注〉上の二つの定理を、結合法則という。
証明は、論理記号の ∧ や ∨ についての結合法則を利用する。
〈注〉上の二つの定理から、単に次のように書くこともできるとわかる。
これは定義である。
A∩B∩C
A∪B∪C
[仮定理40]
(A∪B)∩C=(A∩C)∪(B∩C)
[仮定理41]
(A∩B)∪C=(A∪C)∩(B∪C)
〈注〉上の二つの仮定理を、分配法則という。
【 訂正・追記 】
分配法則は、実は、定理とは言いがたい。このことは、今井弘一の指摘で判明した。
この文書を最初に公開した時点では、「定理」と記述したが、これは南堂のミスであった。正しくは次の通り。
「公理1〜8からは証明されないので、その意味では定理ではない。ただし、公理10(分出公理)を加えれば、証明されるので、その意味では定理である。」
つまり、「公理1〜8」の区体論では定理ではないが、「公理1〜8,10」の区体論では定理である。
このことがどういう意味をもつかは、研究の結果、いろいろと判明した。かなり面倒な話になる。詳しくは、次の文書を参照。 → 《 発展編 》
[定理42]
A∩B=B ⇔ B⊂A
[定理43]
A∪B=A ⇔ B⊂A
〈注〉上の二つの定理を、吸収律という。
[定理44]
X⊂A ⇒ X∩B⊂A∩B
[定理45〜47] (略)
[定理48]
(∀A)〔A≠φ ⇒
(∃a)(∃A' )〔A=a∪A' ,a∩A' =φ , a@A〕〕
〈注〉つまり、 φ でない任意の区体を、一つのアトムとその他の部分に
分割できる。
[定理49]
a@A, A∩B=φ ⇒ a∩B=φ
[定理50]
a@A, b@B, A∩B=φ ⇒ a≠b
〈注〉これを、隔離の定理という。耳慣れない定理だが、大切な定理なの
で、覚えておくとよい。
[定理51]
A@Ω, B@Ω, A≠B ⇒ A∩B=φ
〈注〉つまり、アトムはたがいに素である。
[定理52]
a@A ⇒ a@Ω
[定理53]
A⊂C, X@C ⇒ X@A ∨ X@A^
[定理54]
X@A, A⊂B ⇒ X@B
[定理55]
X@A∩B ⇔〔 X@A ∧ X@B 〕
[定理56]
X@A∪B ⇔〔 X@A ∨ X@B 〕
[定理57]
A⊂B ⇔(∀X)〔 X@A ⇒ X@B 〕
[定理58]
(A∩B)^ = A^ ∪ B^
[定理59]
(A∪B)^ = A^ ∩ B^
区体論の主な定理は、以上に書き並べた。他にも定理は考えられるが、ここでは、もうこれ以上は、記さない。
なお、これらの定理の証明は、初めの方のごく簡単なものを除けば、記さなかった。ただし、さほど難しくはないので、各自で試みてほしい。大学の数学科の学生なら、十分可能だろう。長くても1頁で証明は終わる。
§ 2−7
さて、これまで、公理と定理をいろいろと記してきた。ただ、数学を構成するためには、以上の公理だけでは不足する。そこで次の公理を加える。
[公理10]
アトムである X に関する任意の命題 Ψ(X) に対して、
(∃P)(∀X)
Ψ(X) ⇔ X@P
つまり、こういうことだ。命題 Ψ(X) が成立することと、 X が P のアトムであることとが同値であるような P が、いかなる命題 Ψ(X) に対しても、存在する。ということは、要するに、全空間 Ω のなかから、 Ψ(X) を満たすような X だけを集めて、 P という一つの区体を作ることができる、というわけだ。)
(注。なお、公理10は、 Ψ(X) という命題が変わるたびに、異なる形を
取る。その意味で、公理10は、一つの公理というよりは、そこから
多くの公理を派生する公理図式である。)
公理10の位置は、無限公理などと同様である。つまり、包含関係を考えるためには必要ないが、数学を築くためには必要である。その意味で、これは、区体論の一部ではないが、数学の一部ではある。(この点は、集合論とは異なっている。)
ここで、区体論の数学における位置づけを、まとめてみよう。
区体論は、包含関係についての理論である。
他に、公理10や、無限公理や、実数公理などもある。これらをあわせて、数学を基礎づける数学基礎論となる。
この点は、集合論とは異なる。集合論では、集合論と数学基礎論は、ほとんど同義だった。区体論は、そうではない。
なお、注意せよ。区体論は、数学基礎論の一部と考えてもよいが、むしろ、別のものと考えた方がよい。区体論はそれだけで成り立つ、独立した理論だ。無限公理なしでも、有限の空間をつくれる。そのときは、そのような数学世界をつくれる。たとえばこの公理系のなかで、有限の群論をつくれる。そのように、区体論と他の公理系を組み合わせて、一つの数学的空間をつくれる。そのような空間は、たとえ小さくとも、無意味ではない。確実さをもつからだ。
集合論は、ある意味では豊かだが、それが無矛盾な体系かどうかは、わかっていない。その一部分だけでも無矛盾となるかも、わかっていない。しかし、区体論が無矛盾なことは、すでにわかっているのだ。
なお、この点について詳しく知りたければ、《 Part3》へ進んでほしい。
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