「核心」の誤解を避けるために  

      by  南堂久史



 ※ この文書は、シュレーディンガーの猫の核心の補足的な解説です。




 シュレーディンガーの猫の核心という文書を読んで、「この文書はトンデモだ」と批判する人が多い。
 そこで、この手の誤解をほぐすために、解説しておく。

 まず、例の文書(シュレーディンガーの猫の核心)は、物理学会の公式見解ではなくて、私なりの私的な解釈である。例の文書を「百科事典だ」「無色で中立的な公的見解だ」というふうに理解するとしたら、それは勘違いである。例の文書はあくまで、署名つきの文書だ。その点は、はっきりとお断りしておく。
 ただし、そのことをもって、「この文書の内容は公的見解に反する」というふうに理解してはならない。なぜなら、「公的見解」というものは存在していないからだ。「シュレーディンガーの猫」の問題は、「パラドックス」として理解されている。つまり、「未解決の問題」である。そして、その「未解決の問題」に対して、私なりに解答を出したのが、例の文書だ。
 例の文書を読んで、納得するか納得しないかは、読者の各人に委ねられる。「なるほど」と思ってもいいし、「納得できないね」と思ってもいい。どう思うかは各人の勝手である。ただし、「この文書の内容は公的見解に反するからトンデモだ」というふうに理解してはならない。それはとんでもない勘違いである。

 結論。「シュレーディンガーの猫」というパラドックスは、存在する。これは現状では、未解決の問題だとされている。つまり、(正しい)公的見解などはない。なのに、「南堂説は(正しい)公的見解に反するから、トンデモである」なんていう批判をする人は、物理学のことを何も理解していないのだ。
 批判をするなら、その前に最低限、量子力学の教科書を開いて、「不確定性原理の証明」(数式がたくさん並んでいる証明)ぐらいは読んでおいてほしい。それも読んでいないようなら、「自分は専門家だ」などと言わないでほしいものだ。
( ※ 例の文書はそもそも初心者向けの文書である。とすれば、例の文書だけを読んで批判する、というのは専門家的ではない。どうせなら、例の文書の先にある「専門家向けの文書」というのをいろいろと読んでから、批判してもらいたいものだ。特に、英語の長い論文があるので、そちらを読んでほしい。)

 【 参考1 】
 なお、多くの批判者は、批判の仕方を知らないようだから、批判の仕方について説明しておこう。
 批判する意見の多くは、こうだ。
 「自分の信じるコペンハーゲン解釈は、絶対的に正しい。絶対的に正しい意見を批判する南堂は、トンデモだ」。
 しかし、これはつまり、「おれは絶対的に正しいから、おれを批判する奴はみんなトンデモだ」というふうに独裁的な立場で、他者の説を弾圧しているだけである。こういうのは、批判になっていない。
 批判をするには、「自分は絶対的に正しいから、自分を批判する奴はトンデモだ」と述べるべきではない。かわりに、「あなたの学説には難点がある」というふうに指摘しなくてはならない。
 つまり、「コペンハーゲン解釈は正しい」というふうにいくら主張してもまったく無効である。かわりに、「『粒子の波』という説には、こういう難点がある」というふうに指摘しなくてはならない。これが正しい批判の仕方だ。
 なのに現実には、論理的に批判するのではなくて、単に「コペンハーゲン解釈を批判するからトンデモだ」と主張しているだけだ。これはあまりにも偏った見解である。
 実際、本ページを批判するサイトがあちこちにできたので、ちょっと覗いてみたが、たいていは「コペンハーゲン解釈は正しい」というふうにしきりに力説しているだけだ。彼らは「量子については、たくさんの解釈があること」つまり「コペンハーゲン解釈は、解釈の一つにすぎない」ということを、理解できていないのだ。
 なるほど、科学の入門書に書いてあるのは、たいていはコペンハーゲン解釈だけだ。だから、自分の習った初歩的な知識だけに従って、「コペンハーゲン解釈だけが正しい」と思い込むのだろう。かくて、「××のひとつ覚え」ならぬ「初心者のひとつ覚え」ゆえに、しきりにその「一つだけの解釈」を絶対的なものとして強調しているわけだ。
( ※ なお、「コペンハーゲン解釈だけが正しい」という説によれば、「エヴェレット解釈もトンデモだ」ということになるだろう。しかし、物理学の専門家の間では、コペンハーゲン解釈を支持する人よりも、エヴェレット解釈を支持する人の方が多いのだが。)

 【 参考2 】
 本ページを誤読している人が多いようだから、さらに注釈しておこう。
 このページで述べていることは、「コペンハーゲン解釈は間違っている」とか「現代物理学は間違っている」とか、そういうことではない。もし読者が、そういうふうに理解しているとしたら、それは一種の被害妄想である。(攻撃されていないのに攻撃されていると感じる被害妄想。)
 本ページが述べているのは、コペンハーゲン解釈の批判ではない。かわりに、新しいモデルを提出することだ。具体的に言えば、こういうふうに並置する。
 「量子とは何かということを示すモデルには、次の五つがある。(1)粒子モデル (2)波モデル (3)ド・ブロイ波モデル (4)ファインマンの解釈 (5)粒子の波モデル」
 この五つのモデルがあると示すのが、本ページの主張だ。そのなかで、5番目を重視しているが、他の四つを全面否定しているわけではない。その点、勘違いしないように。
 本ページは、「モデルは五つある」「解釈は五つある」というふうに述べているのであって、(1) を否定しているわけではない。(軽視してはいるが。なお、コペンハーゲン解釈に難点がある、と主張しているのは、私だけではない。多くの物理学者が、コペンハーゲン解釈の難点を指摘している。)
 なお、(4)と(5)は実質的に等価だから、(5)を「トンデモだ」と批判する場合、(4)を批判することにもなる。

 【 参考3 】
 コペンハーゲン解釈などでは、「量子は粒子でありながら波の性質ももつ」というふうに語られる。しかし、それは、ただの文学的な比喩にすぎない。「青でありながら赤である」というふうな、矛盾的な比喩である。語っている本人はそれで説明したつもりなのだろうが、とうてい科学的ではない。「重ね合わせ」という概念そのものが、ただの文学的比喩にすぎないのだ。特に、前述の「無限大の重ね合わせ」という難点も生じる。 ( → 該当箇所

 なお、上では「文学的な比喩」と述べたが、仮に、文学的な比喩でないとしたら、どうか? つまり、比喩でなく字義通りに(本当に)「重ね合わせ」が成立するとしたら、どうなるか?
 その場合、「Aおよび非A」が同時に成立することになる。マクロにおいては猫の「生と非生」が成立し、ミクロにおいては「状態Aと状態非A」とが成立する。こういう理論体系は、内部に矛盾を含むので、理論体系が崩壊してしまう。
 つまり、「重ね合わせが文字通りに成立する」という主張は、「量子力学は内部矛盾を含む理論だ」と主張するに等しい。そこで、こういう馬鹿げた主張を避けるに登場するのが、「粒子の波」というモデルだ。このモデルを使えば、理論の内部矛盾を避けることができる。

 普通の入門解説書では、「ミクロの世界では、複数の状態が同時に成立するのだ。そういう不思議なことが、ミクロの世界では起こる」と説明される。しかし、そんな馬鹿げたことなど、ありえない。それはただの論理矛盾だ。矛盾を「重ね合わせ」と言い換えているだけだ。
 具体的には、少し上の三つの図を見ればわかる。一つの量子が ○ と ● の双方であることは、あるか? もちろん、ありえない。仮にそういうことがあるとしたら、一つの量子ではなくて、複数の量子があることになる。
 この三つの図のうち、本当は (3) が成立するだけだ。つまり、 ○ と ● が交互に交替している[振動している]だけだ。そういう状態を見て、「二つの状態が同時に成立する」と勘違いしているのがコペンハーゲン解釈だ。(表と裏の同時成立という矛盾を主張している。)
 比喩的に言おう。回転するコインがある。これを見て、どう解釈するか? 「コインが回転している」と見なすのが、 (3) の解釈だ。一方、(1) のコペンハーゲン解釈は、こう見なす。「表で静止しているコインと、裏で静止しているコインが、重ね合わせの状態にある」と。これは、とんでもない勘違いだ。
 コペンハーゲン解釈は、「量子の振動」という現象(粒子反粒子振動 or 対生成)を、理解できていないのだ。この解釈は、真空を何も存在しない空間と考えている。そのせいで、真空が粒子と反粒子で満たされているということ(カシミール効果)を、まともに理解できていないのだ。

 さらに詳しく言おう。
 「量子は粒子でありながら波の性質も持つ」というふうに説明して、それで平気でいる人々が多い。しかしこれは、論理矛盾を含む。
 なぜか? 「量子は粒子でありながら波の性質も持つ」という説明を取ったとしよう。その場合、この波は、粒子であるがゆえに、一点(ほぼ一点)に局在しなくてはならない。しかるに、局在する二つの波は、たがいに干渉しない。

                局在     局在
                 ┃      ┃      
                 ↑      ↑
               たがいに干渉しない

 二つの波がたがいに干渉しないとなると、二重スリット実験における「波の干渉」ということが説明できなくなる。実際には、この実験では、二つの波が干渉する。とすれば? 「波は局在する」(量子は粒子である)という結論を捨てるしかない。
 まとめて言おう。「粒子かつ波である」ならば、「局在する波」という結論が出る。一方、実験事実からは、「干渉する波」つまり「局在しない波」という結論が出る。こうしてたがいに対立する二つの結論が出る。矛盾。ゆえに、「粒子かつ波である」という前提は間違い。
( ※ では、正しくは? (2)(3) によれば、「局在しない波」が正しい。つまり、「運動する量子は局在しない」と結論すればよい。この結論は、ファインマンの解釈には合致するが、コペンハーゲン解釈には合致しない。)
( ※ 比喩的に言おう。サッカーの人の波である『ウェーブ』は、一人一人がその位置で起立着席するという振動状態だけが広く伝播することなのだ。『ウェーブ』は、たくさんの人々が運動している状態の重ね合わせのことではない。『ウェーブ』が移動しているからといって、一人一人が移動していると思うのは、勘違いだ。そういう勘違いをするのが、コペンハーゲン解釈だ。……結局、運動する量子というのは、局在する粒子が重なりあった状態ではなくて、もともと局在しない広範な波なのだ。この発想で実際に広範な経路を計算をしたのが、ファインマンの経路積分である。)

 【 参考4 】
 「量子は粒子だ」とたいていの人は思い込んでいる。その理由は、二重スリット実験の最初と最後で、電子が粒子としてふるまうことだ。(つまり局在すること。)
 しかしながら、その主張には、重大な穴がある。それは、「最初と最後では粒子だからといって、途中でも粒子だと思い込んでいる」ということだ。そんな必要はないのだが、勝手にそう思い込んでいる。根拠もなしに。……ここに、彼らの主張の根源的な欠陥(論理的な穴)がある。
 このことは「粒子の波」という概念を理解すればわかる。この説は、次の図で示せる。

      粒子  波  粒子
      ・ )))))))) ・

 この図では、最初と最後では粒子であるが、途中では波となっている。これは一見、不思議に思えるかもしれないが、不思議ではない。たとえば、音波がそうだ。最初は空気の分子であり、最後も空気の分子であるが、途中は空気の波である。つまり、最初と最後は粒子であるが、途中は粒子の波である。(なお、空気とは酸素や窒素のこと。)
 というわけで、「最初と最後では粒子だが、途中では(広範な)波だ」というふうになる。ゆえに、「最初と最後では粒子だから、途中でも(局在する)粒子だろう」という推測は成立しないわけだ。
 仮に、この推測が成立するのだとすれば、それを示すために、実験的に示す必要がある。しかしながら、実験を見ると、干渉縞が生じる。ゆえに、途中では、一箇所に局在する粒子ではありえない。矛盾。
 そこで、この矛盾を解決するために現れたのが、「一箇所ではなく二箇所に局在する」という発想であり、「重ね合わせ」という概念である。
 しかし、それは、論理的には「A かつ 非A」という矛盾にすぎない。(たとえば猫の「生 かつ 非生」。場所の「A かつ B」。)しかしこれは、「矛盾」を「重ね合わせ」と呼んでいるだけのことだ。そうやって、矛盾を正当化している。
 また、この発想は、二重スリットでは「二つの重ね合わせ」になるが、三つのスリットでは「三つの重ね合わせ」となり、無数のスリット(つまり何もない空間)では「無数の重ね合わせ」となる。あまりにも馬鹿げている。
 で、こういう馬鹿げた発想を取るのをやめればいい。かわりに、「粒子 → 波 → 粒子」というモデルを取ればいい。そうすれ、何ら矛盾なしに、単純で美しい理論を構築できるのである。
( だから、問題は、「単純で美しい理論を採るか」あるいは「現実を説明できれば複雑で汚い理論を採るか」という二者択一となる。「現実を説明できればハチャメチャな理論でもいい」というのが多数派だが、数学的な審美感をもてば「単純で美しい理論の方がいい」と思うはずだ。……ま、人生観や哲学の違いのようなものだが。)
( この件は、詳しい話を考えるには、モデル的な説明が必要となる。論じたければ、このあとの文書を参照のこと。なお簡単に知るには、次のページを参照するといい。 → 「玉突きモデル」)

 【 参考5 】
 「数式で説明すればちゃんと片付く。なのに、どうして今さら、波だの粒子だのということを論じるのか。さっぱりわからない」
 という疑問を呈する人がいる。こういう人は、大学で量子論をちゃんと学んだのだろう。その意味で、「コペンハーゲン解釈だけが絶対的に正しい」というふうに片面だけの知識をもっている人よりは、ずっと好ましい。
 そこで、上記の「わからない」という人のために、説明しておこう。理由は、こうだ。
 「現在の物理学では、物事を数式だけで表現することはなく、数式の意味を解釈して文章で表現する。そのとき、数式そのままに解釈するのでなく、粒子説に従って解釈しがちだ」
 その典型的な例が、次の表現だ。
 「二重スリット実験では、一つの電子が二つのスリットを同時に通る」
 こういう表現を読んだ人はたくさんいるだろう。実際、これ以外の表現を取った説明は、非常に少ない。そして、この表現では、次のことを前提としている。
 「二重スリット実験では、電子は一つのものである。つまり、一つ・二つ・三つ……と数えられる粒子である。それは波ではない」
 ここでは、粒子説が前提とされている。しかし、そのような発想を取る限り、「一つのものが二つの場所に存在する」という言語矛盾を生じてしまう。
 一方、次の発想もある。
 「二重スリット実験では、電子は一つのものではなく、数えられないものである。つまり、一つ・二つ・三つ……と数えられる粒子ではない。かわりに、それは、空間に連続的に分布する波である」
 この発想では、「運動する電子は粒子ではない」のだ。「粒子でもあり波でもある」という発想は否定され、「一つの粒子ではなくて波である」という発想が取られる。
 この発想では、次の利点がある。
  ・ 上記の言語矛盾が生じない
  ・ 観測が状態を決定するという観測問題が生じない
   (かわりに、「状態が観測を決定する」となる。これでも矛盾は生じない。)

 特に、後者について解説しておこう。「観測問題が生じない」ということは、次の二つの説明の対比で示される。
  ・ 人間が観測したから、そこに量子が存在する   (コペンハーゲン解釈)
  ・ そこに量子が存在するから、人間が観測できる (新しい解釈。(4)と(5) )
 この二つのうち、どちらも論理的には成立する。ただし、前者よりも後者の方がずっと自然である。あえて不自然な前者を取らなくても、後者のモデルを取れば、ずっと簡単に事象を説明できるのだ。
 どちらも同じように説明できる二つの解釈があって、一方が複雑で怪奇であり、他方が簡潔で自然であるならば、簡潔で自然である方を取った方がいい。── これが、本ページの趣旨だ。
 しかしながら、多くの物理学者は、そうは考えない。かわりに、こう考える。
 「たとえ複雑で怪奇な解釈であるとしても、その解釈によって現実をきちんと説明できるのであれば、その複雑で怪奇な解釈を採用するべきだ。なぜなら、そちらの方が、昔からある考え方であり、先着順で優先されるからだ。これに異を立てるような新解釈は、トンデモだ」
 ま、そういう考え方を取るのは、勝手である。その考え方が論理的に間違っているとは言えない。とはいえ、そういう特殊な考え方は、あくまで物理学という狭い世界の発想であって、世間の多くの支持を得ないはずなのだ。
 だいたい、一方では「量子は粒子と波の双方の性質をもつ」と言いながら、他方では「量子は一つの粒子であって、一つの粒子が二つの場所に同時に存在する」なんて主張するのは、自己矛盾である。そういう物理学者の自己矛盾を、端的に指摘するのが、このページである。
 つまりは、「現代の物理学には何の問題もない。現代の物理学は完璧な学問である」と信じている半可通の物理学者に対して、「いやいや、現代の物理学の最先端では、まだまだ未解決の問題があるのだぞ」と、最先端の状況を端的に示すのが、このページなのだ。
( ※ なお、その最先端の問題が何であるかは、専門用語でいろいろと示してあるから、英語論文のページまたはその和訳のページを参照のこと。……専門家は、こんな初心者向けのページを論じてはいけない。このページで論じていることは、専門用語で言えば、「宇宙の次元は何次元であるか」とか「真空には何も存在しないのか」とかいう未解決の問題と深く結びついている。その未解決の問題を簡単な実験に還元したのが、このページである。)

 【 参考6 】
 観測問題について、誤解している人が多いので、注釈しておく。
 「量子力学の世界では、観測が状態を決定する」
 というふうに述べている説明がしばしば散見されるが、これは正しくない。正しくは、こうだ。
 「コペンハーゲン解釈によれば、量子力学の世界では、観測が状態を決定する」
 これはどういうことかというと、次のことによる。
 「コペンハーゲン解釈では、状態は、観測以前には『重ね合わせ』の状態にあるが、観測以後には『重ね合わせ』の状態にはない」
 このことをもって、「観測が状態を決定する」という。しかしそれはあくまで「コペンハーゲン解釈によれば」という前置きが付くのだ。この前置きをはずして説明するのは、不正確である。

 では、コペンハーゲン解釈によらなければ、どうか? 次のようになる。
 「(4)(5)の解釈によれば、状態は、観測以前にも観測以後にも『重ね合わせ』の状態にない。観測しようが観測しまいが、初めから状態は決定されている」
 こうなるのだ。というわけで、(4)(5)によれば、観測問題は存在しない。観測問題が存在するのは、コペンハーゲン解釈によって「重ね合わせ」という概念を前提にした場合だけである。

 なお、コペンハーゲン解釈と(4)(5)のどちらが正しいか、ということは、決着が付いていないので、ここでは特に断定はしない。
 ともあれ、両者の解釈があるのだ、ということは、留意しておこう。当然ながら、「量子力学の世界では、観測が状態を決定する」と思い込んではならない。つまり、一方の説明だけを勝手に絶対的な真実だと思い込んではならない。(その説明には、重大な前置きが抜けている。)

     *   *   *   *   *   *   *   *

 以上でもまだ物足りない人は、「量子力学のミクロとマクロ」 という注釈ページを参照のこと。




  このページについて

    氏 名   南堂久史
    メール   nando@js2.so-net.ne.jp
    URL    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm (表紙ページ)


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