簡単な要約  
 
        …… 量子論の2問題  

 



 量子論・量子力学についての2つの問題を扱ったページ

    (1) シュレーディンガーの猫   (中級〜上級)
    (2) 超球と超ヒモ ( 目次 )  (上級〜専門家)

 についての要約を示します。



 要約  

 典型的な場合として、電子を取って、次の質問を考える。

 Q 電子は、質点か場か? 

 これに対して、次のように答える。

 A 電子は、質点または場で近似されるだけだ。 
       ・ 電子がほぼ静止しているとき …… 質点 で近似される。
       ・ 電子が高速で動いているとき ……  で近似される。

 要するに、電子が物質中に束縛されていて、静止しているも同然のときには、質点で近似される。しかし、電子が真空中を光の速度に近い高速で動いているときには、場で近似される。
 遅いときは、古典論的な世界像(質点)であり、速いときには、非・古典論的な世界像(場)である。……これはちょうど、ニュートン力学と相対論の場合に似ている。
 相対論は、物質の速度が「ほぼ静止しているとき」と「高速のとき」という二つを、統一的に解釈するような、新しいモデル(相対性原理)を提出した。量子力学も、かくあるべし。つまり、「ほぼ静止しているとき」と「高速のとき」という二つを、統一的に解釈するような、新しいモデルを出すべし。どちらか一方ならば、「質点」または「場」で済むが、双方を統一的に解釈するには、新しいモデルが必要だ。── そのモデルが前記の「二重スリット」にあるモデルだ。つまり、「複素エーテル」というモデルだ。
( ※ 注記。以前の文書では、「複素エーテル」という用語のかわりに、「虚数エーテル」という用語を使った。どちらも意味はほとんど同じ。数学的には、「虚数だけの次元」から「虚数と複素数の次元」へと拡張されているが、核心部分はほとんど同じ。)

 このモデルを使えば、ついでに、次の問題にも答えることができる。
 「すべての電子はどうして同一なのか?」
 これについては、次の一文のある箇所を参照。(続編[ 2slits2.htm ]のなかにある。)
 プランク定数は、勝手に定まった適当な量ではなくて、量子力学の根本を規定する量なのだ。それは、われわれのいる実数世界における基本的な量なのではなくて、実数世界と複素数世界とを橋渡しする際の基本的な量なのだ。
 つまり、複素エーテルから電子が生成される際に、プランク定数を通じて電子が生成される。だから、すべての電子は同一なのである。(もちろん、電子以外の他の量子も同様だ。)
 なお、「電子を質点と見なすと、それぞれの電子が同一であることが、なかなか説明しがたい」というふうに問題提起した宮沢弘成は、なかなか慧眼である。たしかに、その通りだ。( → 後述の 【 補足 】

 さて。この問題提起に、複素エーテルの理論は、明白な解答を示せる。逆に言えば、この問題提起があることによって、複素エーテルの理論が真実であることが確信できるわけだ。── 複素エーテルの理論は、単に「無矛盾で現実をうまく説明できる」という、一種の仮説にすぎないとも感じられた。しかし、上記の問題提起に対して解答を出すためには、複素エーテルという概念以外にはありえない、とわかる。この問題提起に対して、複素エーテルという概念だけが、自然でエレガントな解答を与えてくれるからだ。
 この自然でエレガントな解答を見れば、自然というものがいかに美しい調和のもとで統一的な原理をもつか、はっきりとわかる。この美しさは、相対論の美しさに似ている。古典力学の発想ではあちこちで歪みが見出されたのに、相対論では「相対性」「対称性」という概念のもとで、「自然は美しい調和のもとで統一的な原理をもつ」ということが判明した。量子論も同様だ。「複素エーテル」という概念のもとで、「自然は美しい調和のもとで統一的な原理をもつ」ということが判明する。今はただ、自然のもつ美しい調和を、心から味わえばよい。
 自然の世界にさまざまな歪みがあると見えるのは、自然そのものが歪んでいるからではない。単に、自然を見る人間の目が歪んでいるからなのだ。それだけのことにすぎないのだ。目の歪みを正せば、自然の美しい調和が眼前に現れる。

【 補足 】
 上記サイトでは、「電子を質点と見なすと、それぞれの電子が同一であることが、なかなか説明しがたい」というふうに問題提起した。この件について、補足しておこう。
 この問題提起に対して、「電子をクォークに還元する」という解釈もある。そうすれば、「それぞれの電子が均一のクォークの組み合わせ」として説明できる。
 しかし、この説でも、それぞれのクォークが同一であることが、うまく説明されない。要するに、さらに小さな要素に還元していっても、その小さな要素がたがいに同一であることが説明できない。通常、「公理」のように、天下り的に受け入れるだけだ。そこに、従来の量子論の限界がある。(一方、複素エーテルの概念を使えば、この問題に明白な解答を示せる。)
 なお、通常の数学のモデルでは、このような問題は生じない。たとえば、「群の要素」というものがたがいに同等であることは、あらかじめ規定されている。それを規定するのが、「集合論」だ。これが公理となって、無数の要素を生み出す。……しかし、量子論の場合には、何が同等の量子を生み出すか、そこのところが未解明である。それを未解明のまま、「電子」という言葉を使うと、「電子」という言葉の意味が不明確なままとなる。かくて量子論の体系は、基礎理論としては曖昧になる。応用理論としてなら一応成立するが、それとは別の基礎理論を必要とする。……つまり、現状の量子論は、この宇宙の基礎理論とはなっていないのだ。
( ※ その意味では、クォーク理論も、超ヒモ理論も、この宇宙の基礎理論とはなっていない。これらの理論は、「どういうふうになるか?」を示す応用理論に過ぎず、「なぜそうなるのか?」を示す基礎理論とはなりえないのだ。このことを指摘した宮沢弘成の論説は、非常に慧眼だ。)
なお、「複素エーテルとは何か?」について、簡単に答えておこう。以下、箇条書きで示す。
  1. この理論の内部では、「複素エーテル」という言葉と、「真空」という言葉とは、まったく同義である。
  2. 真空は、複素数の次元をもつ媒体である。
    • この媒体は、「場」と同じ性質をもつ。
    • この媒体は、「場」とは違って、何もない状態[無]ではなくて、何らかの実体をもつ。
    • その実体は、単位量をもつ。つまり、下限がある。ゆえに、発散の問題を起こさない。
    • その実体は、複素数の次元をもつ。だから真空は、実数の世界には現れない。
  3. 量子は、真空において、発生したり消滅したりする。
  4. 量子が移動するというのは、同一の粒子が移動することではない。いったん量子Aが消滅して、別の場所で同種の量子Bが発生することだ。
  5. 量子は移動しないが、エネルギーは移動する。エネルギーの移動は、「真空という媒体をエネルギーが波として移動する」という形でなされる。
  6. 「量子Aが消滅して、エネルギーが真空を移動して、量子Bが発生する」という過程を、「量子が移動する」というふうに認識(誤認)する。
  7. 観測とは、人間または機械が「量子を検出する」ということではなくて、人間または機械が「量子を検出できる」ということ、つまり、消滅した量子がふたたび発生することである。
  8. 量子が発生したり消滅したりするときは、プランク定数の単位を通じて、確率的になされる。ゆえに、同種の量子は、すべて同等である。たとえば、二つの電子はたがいに同等であり、区別不可能である。
 このうち、最後の項目から、「シュレーディンガーの猫」の問題もわかる。要するに、こうだ。
 「ミクロの世界の量子は、確率的に発生したり消滅したりする。しかし、マクロの世界の猫は、確率的に発生したり消滅したりしない。(量子はたがいに同等だが、猫はたがいに同等ではない。)」
 ゆえに、こう結論できる。
 「量子力学は、ミクロの現象については確率的に言える。しかし、マクロの現象については何も言えない」
 だから、「量子力学は、猫の生死については、何も言えない」というのが正解である。こう答えれば、何も矛盾は起こらない。(量子力学は、ミクロの世界の理論であり、三毛猫やペルシャ猫の飼育法の理論ではない。量子力学は、猫について語れないことはたくさんある。)
 一方、「猫の生死について、何らかのことが言えるはずだ」と考えると、矛盾が生じる。これが、「シュレーディンガーの猫」の問題だ。

 また、「二重スリット」の問題については、次のように言える。
 「一つの粒子が二つのスリットを通過するのではない。電子Aはいったん消滅する。そして波が二つのスリットを通過し、波同士が干渉しあったあとで、最終的にどこかで電子Bが発生する」
 この発想では、一つの電子が移動するのではなくて、一つの電子が消滅してから、別の電子が発生するだけだ。ただし、消滅した電子と発生した電子は区別不可能である。ゆえに、一つの電子が「移動した」とか「ワープした」とか認識することもできる。
( ※ 詳しい話は「 二重スリットと観測問題 」のページを参照。)




【 注記1 】
 冒頭では、次の対比を示した。
     ・ 電子がほぼ静止しているとき …… 質点 で近似される。
     ・ 電子が高速で動いているとき …… 場 で近似される。
 このことは、場合による違いが出るので、不自然に思えるかもしれない。しかし、実はこれは、「くりこみ理論」と同様のことを述べているにすぎない。だから、少しも不自然ではないのだ。
 だから、この対比を読んだとき、「不自然だな」と思ったとしたら、その人は量子力学の知識が欠けている。一方、「自然だな」と思ったとしたら、その人は量子力学の知識がある。
 
 【 注記2 】
 さて。上の対比は、「くりこみ理論」と同様のことを述べているにすぎない。では、その意味は、「くりこみ理論」とまったく同じなのだろうか? いや、そうではない。次の違いがある。
   ・ くりこみ理論 …… 上の対比を、天下り的に、前提とする。
   ・ 新しい理論  …… 上の対比を、定理として、証明する。
    (複素エーテル)

 そういう違いがある。くりこみ理論では、上の対比は「ご都合主義のその場しのぎ」にすぎなかったが、(複素エーテル概念を用いる)新しい理論では、同じことが「必然的な結論」として証明されるのだ。
 わかりやすく言えば、こうだ。くりこみ理論では、発散の問題は根源的に解決されなかったが、(複素エーテル概念を用いる)新しい理論では、発散の問題は根源的に解決されるのだ。




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  付 録    

   《 付録の目次 》

 【 追記1 】 (値が確率的になる理由)
 【 追記2 】 (重力を含む統一場理論)

   ( ※ 細かな話なので、専門家以外、特に読む必要はありません。)
   ( ※ ここに記してあるのは、本文 2slits.htm についての補充です。)





  【 追記1 】 (値が確率的になる理由)

 本文のページ( catwja ,2slits )には示さなかったことを、追記しておこう。

 「量子力学では、値はなぜ確率的になるか?」
 この問題に、複素エーテルの理論は、はっきりと答えることができる。これを、以下で示そう。

 まず、従来の説では、どうだったか? 従来の説は、値がなぜ確率的になるかを、説明できなかった。せいぜい、「マクロの現象も、ミクロの現象の、近似式で示せる」というふうに説明して、お茶を濁すだけだった。そこでは本質的な違いを見出せなかった。というのは、いずれも、決定論的な発想を前提としていたからだ。
 たとえば、二重スリットで考えよう。一つの電子が、一定の経路をたどる。その経路は、一本かも知れないし、二本かも知れないし、(ファインマンふうに)無数本かもしれない。いずれにせよ、それだけの数の経路をたどるとき、その経路の行きつく先は、ほぼ決まっているはずだ。── なぜか? 「一つの電子」という概念を取るからだ。「一つの電子」という概念を取る限りは、一つがどう動くかは、ほぼ決まっている。
 たとえば、電子が、次のように進んだとする。

    ────────→ 

 左側の は、時刻 t 1 における位置。
 左側の は、時刻 t 2 における位置。
 このように、電子が移動したとする。

 では、このあと、電子はどう移動するか? 当然、慣性の法則にしたがって、経路の延長上に進むだろう。特別の力が働かない限り、おおよその進行方向は決まるはずだ。なるほど、「一つの電子が進む」という発想を取る限りは、そうだ。ここでは、電子は、同一のものである。それゆえ、決定論ふうの発想が取られる。

 複素エーテルの発想では、そうではない。
 二つの は、別のものである。別のものであるが、区別がつかないだけだ。そして、それゆえ、現象は確率的になるのだ。
 たとえ話をしよう。袋のなかに、ボール入れる。一つを入れてから、一つを取り出す。袋のなかには、もともとボールが 50個ある。一つを入れてから、一つを取り出すとき、入れたものと出したものが同じである確率は、どれだけか?
 ここでは、ボールがたがいに区別がつくかつかないかで、確率が変わる。
 前者では、ボールは一個一個、たがいに区別がつく。(例:ボールにすべて番号がついている。)
 後者では、同じ色のボールは一個一個、たがいに区別がつかない。つまり、白ボールはたがいに区別がつかないし、黒ボールもたがいに区別がつかない。(例:ボールには番号がない。)
 
 ここで、後者が、肝心だ。入れたボールと出したボールがともに白ボールだとしても、その白ボールはたがいに区別がつかないから、白ボールの現象は、本質的に確率的なのである。

 二重スリットの場合も同様だ。二つの時刻におけるそれぞれの電子は、二つの白ボールのように、たがいに区別がつかない。だからこそ、それらの電子の現象は、本質的に確率的となる。
 ゆえに、時刻 t 2 においてその位置にあるとしても、時刻 t 3 において その延長上の位置に電子があるとは限らない。時刻 t 3 においては、全然関係のない方向で電子が発生するかもしれないのだ。なぜなら、時刻 t 2 のときの電子と、時刻 t 3 のときの電子とは、同一ではないからだ。単に力の気まぐれによって、確率的に、時刻 t 3 のときの電子が定まるだけなのだ。(非決定的。)

    ─────   /  ?
    ────→  ─  ?
    ─────   \  ?

      ※ 左から右に進んだあと、さらに右に進むとは限らない。
        (延長上以外の)別方向に転じることがある。気まぐれに。
        なぜなら、ボール同士の衝突の衝撃で、方向が変わるから。

 複素エーテルの発想では、一つのボールが進むのではなくて、多数のボールが衝突しているだけだ。だから、進行方向は確率的にしかならない。一つのボールが進むだけならば、方向は決定的だが、多数のボールが衝突しているのならば、方向は確率的にしかならないのだ。

 これがつまり、量子力学の世界が確率的に示されることの、根源的な理由だ。そして、その原理は、次の二つである。
  ・ 量子はたがいに区別不可能であること。
  ・ 量子の移動とは、同一の量子の移動ではなくて、多数の量子の衝突である。
 この二つの概念をモデル化したのが、「複素エーテル」のモデルだ。(真空波のモデルでもある。)

 ( ※ このモデルについては、二重スリットのページで「二重空間モデル」として解説した。そちらを参照。)

 まとめ。
 結局、 「一つの粒子が進行する」という発想では、量子力学が確率的であることをうまく説明できない。その典型が、二重スリットだ。
 二重スリットを見たとき、「一つの粒子が二つのスリットを通る」という発想を取ることもある。しかし、それではダメである。「一つの粒子」という概念そのものが、根本的に正しくないのだ。かわりに、「多数の同一粒子」という概念を取るべきなのだ。……そのことを、上記で示した。そして、その理由が、量子力学が確率的であることだ。
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 [ 付記1 ]
 量子が確率的に表されることについては、「二重スリットと観測問題(1)」の「波から粒子への転換」で、別の形の説明もした。おおよそ、次のように。
 「量子が波から粒子に転じるには、一定のエネルギー(質量エネルギー)が必要である。そのエネルギーよりも大きいエネルギーがあれば、粒子は簡単に生じる。しかし、そのエネルギーよりも小さいエネルギーしかなければ、粒子が生じるのは確率的になる。」
 たとえば、粒子が発生するのに1というエネルギーが必要であるとして、5というエネルギーがあれば、粒子は4個か5個生じて、余ったエネルギーは真空中に残る。一方、エネルギーが1に満たない 0.9 ぐらいしかなければ、粒子が発生するか否かは確率的になる。エネルギーが不足したまま、粒子は発生しないかもしれない。あるいは、エネルギーが不足したまま、真空から1のエネルギーを奪って粒子が発生し、同時に、真空にマイナス 0.1 のエネルギーを残すかもしれない。
( ※ マイナスのエネルギーからは、反粒子が誕生する。この件は、別の話。)
( ※ 参考として、次の話もある。ほぼ同趣旨。 → Open ブログ「神はサイコロを振るか?」

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 [ 付記2 ]
 複素エーテルの発想では、真空中を移動する量子は、粒子ではなくて波である。このことは、一見、不自然に思えるかもしれない。たとえば、泡箱や霧箱を使うと、放射線は一本の線として見える。だから、「その線の延長上(来た方向)でも一本の線であった」と推定される。
 しかしこれは、勘違いである。「その線の延長上(来た方向)でも一本の線であった」ということはない。このことは、続編( 2slits2.htm という解凍ファイル)で、次のように図示して示したことがある。

    電子の経路 [真空中]       電子の経路 [霧箱中
   ))))))))))))))))))))━━━━━━━━━━

 つまり、真空中では、波であったのだ。ただし、泡箱や霧箱などの物質中に入ると、波から粒子に転じるので、一本の線になる。それだけのことだ。
 このことを裏付ける事実もある。それは、「真空中の量子は観測されない」ということだ。放射線を観測するには、泡箱や霧箱を使う必要がある。つまり、真空中では観測されないから、物質中を通す必要がある。なぜか? 真空中の量子は、粒子ではなくて波であるからだ。真空中の量子は、(電波のように)波として観測されることはあるが、量子としては観測されないのだ。
( ※ 静止した量子は、「鋭いピークをもつ波」と解釈すればよい。静止した量子については、波と解釈しても粒子と解釈しても、どちらでも同じになる。)




  【 追記2 】 (重力を含む統一場理論)

 専門的な研究者のために、重力を含む統一場理論に言及しておこう。

 物理学の理論としては、次のものがある。
 「統一場理論」(電弱統一理論……電磁場と弱い相互作用の統一)
 これを発展させて、重力をも含む理論(超大統一理論)を求めよう、という試みがある。
 ただし、その方法としては、電弱統一理論の方法の拡張(つまり真似)が取られれている。それは「対称性」だ。電弱統一理論では「ゲージ対称性」という概念が取られたので、それを真似して、何らかの対称性を前提として、理論を組み立てようとする。
 しかし、この方法は失敗する、というのが、私の見解だ。
 
 そもそも、対称性とは、何らかの定量的な必然性だ。それによって一定の条件が与えられ、量的に制限が加わる。ただし、それがすべてではない。もっと別の根幹があるはずだ。相対論で言えば、「光速度一定」という原理が先にあり、それに対して「相対性」という対称性が加わることで、必然性の制約が与えられる。原理と制約は別だ。
 現代の物理学の方法は、必然性の制約ばかりが強く与えられ、原理の方がないがしろにされている。しかし、それでは、根源的に問題解決は不可能だ。相対論で言えば、「光速度一定」という原理を無視したまま、どんなに高度な対称性を追加しても、真実には届かない。

 現代の量子論の主流は、ゲージ理論というゲージ場の理論である。これは、場の理論である。しかし、場の理論は、あくまで近似であって、根源的な真実ではない。
 真実は、場の理論ではありえない。なぜなら、場の理論は、質点の理論と並置されるからだ。どちらも正しそうに見える二つの理論が並列的に存在しているとしたら、どちらが正しいか? そのどちらも真実の近似であり、そのどちらも真実ではない。── それが歴史の教えるところだ。
 場の理論は、真実ではありえない。だから、発散の問題などが生じて、根本的に解決不可能となる。くりこみ理論は、問題の解決ではなく、問題の近似的な回避法にすぎない。根源的な矛盾は避けえない。
 だから、私としては、ここではっきりと予言的に断言しておこう。「(場の理論としての)超大統一理論というものは、存在しない。それを求める努力のすべては、無駄に終わる」と。
 では、力の統一は、まったく不可能なのか? そうではない。力の統一は、可能だ。ただし、それは、「場」の理論ではなくて、「場」と「質点」とを統合した、新しい理論のもとでなされる。それは特殊相対論と一般相対論と量子力学をすべて含む理論だ。── そして、それが、「複素エーテル」の理論だ。

 この理論は、かなり強力である。たとえば、ブラックホールについては、現代物理学の結論とは異なる結論を示す。
 現代物理学(一般相対論)……「ブラックホールには、特異点がある。その特異点では、空間のワープなどが可能だ。一瞬にして、ある領域から別の領域にジャンプできる」
 複素エーテル理論……「ブラックホールには、特異点がない。特異点は、くりこみ理論と同様の方法で、回避される。場の理論で近似できるのは、微小量域よりも広い領域だけだ。一粒子ぐらいの狭い領域になると、特異点というものは意味をもたなくなる。」
 要するに、こうだ。現代物理学(一般相対論)では、ブラックホールに「特異点」という数学的に体積ゼロの点を認める。複素エーテル理論では、一粒子ぐらいの狭い領域では、量子力学的な効果が出て、プランク定数や不確定性原理が働くので、数学的に体積ゼロの点を認めない。複素エーテル理論では、一般相対論と量子力学が統合されているから、重力の理論にも、プランク定数や不確定性原理が影響するのだ。……かくて、特異点というものは存在しなくなる。同様に、発散の問題もなくなる。

 で、結局、何が言いたいか? 超大統一理論というのを求める物理学者の試みは、必ず失敗に終わるから、やるだけ無益だ、ということ。超大統一理論は存在するが、超大統一理論は存在しないのだ。重力を統一的に扱うことはできるが、それを扱うには「場」の方法ではダメなのだ。なぜなら、「場」はあくまで近似であるにすぎないからだ。「場」にこだわる前に、「場」と「質点」とを統合することが必要だ。
 具体的に言えば、ゲージ対称性を重視して、超大統一理論を構築する、という方法は、ダメ。超ヒモ理論も、ダメ。なぜか? そこには、制約だけがあって、原理がないからだ。前述の「光速度一定」の比喩を参照。
( ※ なお、本項の課題は、「シュレーディンガーの猫や二重スリットの問題を解決する」という課題と、本質的には等価である。
( ※ 「超ヒモ理論は見当違い」という主張は、ペンローズ博士も主張している。私とは違う論拠から。 → 参考記事

 [ 付記 ]
 ついでに言うと、正解は「複素エーテル」だが、この理論の核心を一言で言うなら、こうだ。
 「空間(真空)もまた量子化される」
 通常の物理学は、物質については連続性を否定して量子化したが、空間については連続性を維持した。物質については古典力学の発想を脱したが、空間については古典力学の発想をそのまま維持している。そういう難点があった。
 そこで、「場の量子論」というものが登場して、空間についても量子化した。ただし、そのことで、数式を一応出すことはできたが、空間を量子化して「何が」できるのかが判明しなかった。
 通常は、空間を量子化して、「粒子」ができる、というふうに考える。しかし、そういう発想だと、空間は「粒子」に満たされていることになってしまって、真空というものがおかしなものであることになる。(変な粒子で満たされていることになる。)
 そこで、「粒子」ならぬ「超球」というもの(いわば半存在ともいうべきもの)を登場させることによって、真空には「何が」満ちているかを明らかにした。
 そして、その意味は? 空間の量子化が完璧になされた、ということだ。すなわち、「空間というものはもともと超球でできているから、それを正しく認識するためには、数式において量子化することが絶対に必要だ」という「原理的必然」主義をとる、ということだ。(一方、従来の考え方では、「空間の量子化をしたら、どういうわけか、数式において適切な結果が得られた」というような、「行き当たりばったり」主義だった。)
 何事であれ、物事の根源を本質的に理解する、ということが大事だ。さもないと、真実を理解することにも失敗する。(たとえば、場の量子論は数式では結構うまく行ったが、最終的な結論[認識]はとんでもない間違いに陥ってしまった。この件は「細々とした周辺的な話題」の「場の量子論との関係」の項目を参照。騾馬電子などの話がある。)




「量子論/量子力学」
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