第三章 〜困惑〜
  悪魔騒ぎから3日後の夜。

トゥルルルル、トゥルルルル ピッ

「はい、樟葉です」

「あ、樟葉君? 木下ですけど」

「あっ、涼子先輩! どうしたんですか、急に」

「ちょっと、話したいことがあってね…。」

「お話ですか?」

「うん…。ねえ、明日の昼休み文学部屋上まで来てもらえないかな?」

「え、はい、いいですよ。あそこですね、必ず行きます。」

「ありがと、それじゃ、遅くにごめんね。おやすみ」

「おやすみなさい、先輩」

  いったいどうしたんだろうか? 心なしか、ちょっと不安そうな、それでい

て優しい落ち着いた声だった。普段から落ち着いた感じの面倒見のいい人なん

だけど、今日のあの声はいつもとちょっと違った、なんて言えばいいか分から

ないけど、何かあるって感じだった。まあ、向こうからわざわざ電話してくれ

るくらいだからな、悩みもあるんだろうなあ? いつも人の世話ばかりして、

自分のことどころじゃないもんな、あの人。ま、とりあえず今日は寝るか…。

  翌日の昼休み、食事を終えて文学部に向かう。運良く3限の授業は休講なの

で、授業の心配はない。それにしても雲一つないような快晴だな、屋上は結構

気持ちよさそうだ(ちょっと暑いかもしれないけど)。窓の外を見て、そんな

ことを思いながら文学部の階段を上る。階段を上り終えると、少し離れたとこ

ろで柵にもたれながら街の方を見ている涼子先輩の姿があった。

「涼子 せ ん ぱ い」

「あ、樟葉君、ごめんね呼び出したりして」

「いえいえ、どうせ暇なんですから。」

  涼子先輩は穏やかに微笑んでいるが、でもどこか不安そうな、わずかながら

困惑したような感じがした。

「ねえ、この前悪魔に襲われたんでしょ? 大丈夫だったの?」

「え、うん、自分でも何でかよくわかんないけど大丈夫だったみたい。無我夢

中で暴れて、落ち着いてみると、そこに悪魔が倒れてたって感じで…。」

「そうなんだ、やっぱり…。樟葉君て、前から人とどこか違う、何か特別な感

じがしてたんよ。そして、なぜか懐かしい感じさえしてた。」

「特別??」

「うん、普通の人にはない特別な力。樟葉君自身気付いてないかもしれないけ

どね。だって、たかが小悪魔のインプとはいえ、無傷で倒しちゃうんだもの。

20年前なんて、軍隊まで動いたっていうのに、すごいもんよ」

「そんな、ただ運がよかっただけですよ、きっと…。 そ、それになんでイン

プって分かるんですか? 新聞に写真すら出てなかったのに」

「学食に居合わせた友達から、その悪魔の特徴聞いたのよ。それですぐ分かっ

たの。」

「すぐ分かったって、インプなんてそこらへんにいるもんじゃないし、悪魔っ

たっていろいろいるでしょうし…。」

「悪魔は初めてじゃないから…」

「えっ………」

「樟葉君…、実はね、私、もちろん人間だけど……、でも、人間じゃないの」

「……???」

  涼子先輩は、僕から顔をそらし、泣き出した。必死にこらえようとしている

が、声はうわずり、顔を覆う手の指の間から涙が流れている。突然のことで僕

は何も反応できないでいた。

「…涼子せ んぱい?」

グスッ

「…ごめんね、樟葉君、いきなり取り乱しちゃって。いきなりこんなこと言わ

れてもわけわかんないよね。 ごめんね、ちょっと昔のこと思い出しちゃって。

でも、大丈夫だから」

  そういうと、涼子先輩は涙を拭いて僕の方に向き直ると、ゆっくりと語り出

した。

「こんなこと言っても信じてもらえるかどうか分からないけど、私ね、昔、落

ちこぼれの天使だったの…。」

「…天使!?」

「うん、樟葉君もこの世界に、天使も悪魔も存在することは一応知ってるよ

ね。」

「う、うん。(でも…)」

「20年前、天使と悪魔の大きな戦いがあったの。もちろん、人間の目に付か

ないところでの話だけど。そこに、わたしも参加したの。でも、そこは、ほん

とに地獄のような光景で、周りでは天使悪魔問わずどんどん倒れて、動かなく

なっていって、私はただ怯えていたんよ。どうしようも無いほど怖くて、戦場

から逃げ出して、気がついたら、傷だらけになって、ここ地上に落ちていたの。」

「……」

「そして、しばらく地上をさまよって、1ヶ月ほど経ったころだったかな。ま

だ1、2歳くらいの子を抱いた若い女の人が、車にはねられる事故現場に出く

わしたの。はねられる前に助けようと思ったんだけど、何もできなかった。結

局、その女性は即死で、子供は、母親がとっさにかばったため即死は免れたの。

そこで、せめてこの子だけでもと思い、同化したら助かるかもと思ったんやけ

ど…。確かに同化して、体は何とかなったんやけど、その子の魂は戻らなかっ

たの。そのとき、ほんとに自分の無力さを嘆いたんよ。でも、嘆いても仕方な

いから、その子の代わりに人間として生きていこう、この子のお父さんをこれ

以上悲しませないようにしよう、私は人間として再出発しよう。そう思って生

きてきた、もと落ちこぼれ天使の人間がこの私なんよ」

「……」

「いきなりこんなこと言われて、信じろって方が無理よね。」

「……でも、涼子先輩なら、天使だって言われても不思議と違和感がないよう

な気がする。今は突然のことで、頭の中こんがらがってるけど、涼子先輩がう

そをつくはずないし、なんとなくそんな感じがする。」

「ありがと…。誰かに聞いて欲しかったんだけど、きっと誰も信じてくれない

だろうから、ずっと抱え込んだままだったの…。樟葉君のおかげで少しすっき

りしたかな。」

  僕には、涼子先輩がうそをつく人だとは思えなかったし、今の話も、不思議

なことに、まさかとか思いながらも、うそだという感じはしなかった。普段の

涼子先輩を見ていても、完璧とは思わないがすごくやさしくて、ばかみたいに

お人好しで、ちょっとおっちょこちょいなところもあるけれど、そこらへんの

人とは違うと感じていたからかもしれない。などと僕が頭の中でいろいろ思い

を巡らせていると、

「ね、樟葉君。その手、どうしたの?」

  突然涼子先輩が僕の左手をつかんで驚き半分、心配半分の声で話し掛けてき

た。

「あ、それは2日前、家出天ぷらあげてるときに火傷したんですよ。 でも、

たいしたことないですよ。」

  僕の左手には、一応、ぐるぐると包帯が巻いている。ほんとに大したことは

ないんだが、絆創膏がなかったので、包帯でまいてるのだった。

「ちょっと手を貸して」

  涼子先輩はこっちを向いて軽く微笑むと僕の左手を取り、両手で僕の手のひ

らを包んだ。なんだかすごくあったかい、手の表面だけでなく、中の方まであ

ったかいものが伝わってくる。涼子先輩はというと、目を閉じて、何か集中し

ているような感じでじっと僕の手を握っている。

「はい、終わったわよ」

「い、今何をしてたんですか? すごくあったかかったけど」

  心持ち、左手が軽い感じがする。火傷の跡の突っ張った感じも今はしない。

「ちょっとしたヒーリングってところ。火傷のところすっきりしたでしょ?」

「うん、何かすごくすっきりした感じです。」

  あまりにすっきりしたので、そう言いながら左手の包帯をはずしてみた。火

傷の跡のかさぶた状になった部分はそこにはなく、かすかに、ここが火傷した

場所かなってのが分かる程度にまで跡が消えていた。痛みも痒みもなくなって

いた。

「……」

「私の話を信じてくれた、ささやかなお礼よ。ま、もっとも今の私では、この

程度が精一杯なんだけどね」

「それじゃ、きょうはありがと。そろそろ授業が始まるから先に行くね。あ、

そうそう、最近、悪魔がボチボチ出てきたみたいで、また出くわすこともある

かもしれないけど、樟葉君ならきっと乗り越えられるよ。だから、自分の力を

信じてがんばるんよ。」

  あっけに取られて突っ立っている僕に手を振って、涼子先輩は小走りに階段

の方へ向かっていった。

  まったく人の心配ばかりする人だ、涼子先輩は…。悪魔にあったら自分だっ

て決して安全じゃないのに…。しかし、涼子先輩が天使だったとは…、実感が

わかないが、さっきの話といい、あのヒーリングといい、やっぱり本当なのだ

ろうか。ま、天使であろうとなかろうと、涼子先輩は涼子先輩だよなとか、い

ろんな思いがしばらくの間、僕の頭の中をぐるぐると回っていた。



  周りには誰もいない、目の前には神代の町が広がっているだけで、とっても

静かだ。考え事するにはもってこいだな、そう感じたのでもう少しここで頭の

中を整理することにした。

  涼子先輩は元天使。悲しい事件の後、その事故で瀕死だった女の子として今

生きている。そして、涼子先輩が、僕には何か人と違う感じがして、特別な力

があるようだと言った。確かに、鈍くて、さほど力のない僕に、小悪魔とはい

え無傷で倒せるはずがない。20年前の悪魔騒ぎでは、軍隊を出してようやく

悪魔を倒したとのことだから。やはり僕には、何か特別な力、人とは違う何か

があるのだろうか…。そして、それがあるとするなら、僕は人間ではないのだ

ろうか? いや、僕は人間だ。ちゃんと両親がいて、その両親も人間だから。

単に、ちょっとだけ人とは違った力、超能力のようなものを持って生まれたん

だろうか? あの悪魔がインプだと、しかもまだ未熟な奴だと直感的に感じた

のも、その超能力のおかげなのだろうか? 

  そう言えば、さっき涼子先輩がヒーリングしてくれてるときのあの表情、そ

してあのあったかい感覚、昔どっかで感じたような気がする…。どうしてだろ

う、最近あったことを整理しようとしているだけなのに、どんどん疑問ばかり

増えて余計にこんがらがっていく。僕自身の妙な力、感覚に関する疑問が増え

るばっかりだ。いったいどうしたらいいんだろう? どうしたら…。

「おーい、樟葉ー!」

「おー、陽治、良くここが分かったなあ。」

  声がした方を振り向くと、階段のところに陽治が立っていた。

「っていうか、おまえ、文学部のほうまでいくっていってただろうが」

「あ、そうだっけ。そっかそっか。」

「それよりボチボチ次の授業んとこいこうや」

「おっ、もうそんな時間か。そんじゃいこか。待たせてすまんなあ」

「何しとってん長々と、ほんまに」

「ま、ちょっと考え事してたん。」

「ふーん、たまには樟葉も考え事するんかあ…」

  まあ、こんな感じでごちゃごちゃいいながら、僕と陽治は農学部の方へ帰っ

ていった。そして、ぼくの頭の中でごちゃごちゃしていたことは、ひとまずど

っかへ置いておくことにした。

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