第七章(後半) 〜決断〜
第三部『決断』

  ん、ぬぅー…。妙なうなり声を上げつつ、僕は朝を迎えた。

  窓の方から、昨日同様鮮やかで眩しい陽の光が射し込んでくる。天気は悪く

ないみたいだ。しかし昨日のような重苦しさは今日は感じない。だって、今日

は清美と海にドライブに行くのだから。気分は久々に高揚している。もしかし

たら、清美と一緒に行く最後の海になるかもしれないけれど…。


  そういえば今何時だろう…? 机の上の時計に目をやると…。9:15 !? 

う、嘘っ? 目覚ましをかけたはずじゃ…。って、そんなことはどうでもいい、

急がなくては。そう思い、慌ててベッドから飛び起きると、そそくさと着替え、

食事をとるために下に降りる。

「あ、正信。早くご飯食べなさいよ!」

  キッチンの奥の方から聞きなれた声がいつものように響いてくる。

「あ、おはよっ。母さん、昨日のいつ帰ったの?」


「お前が寝てる間に。」

 「…そりゃ分かってるって。ところで、父さんの車借りていい?」

「いいよ。父さんは、朝から旧友のところへ行ってるから、大丈夫。どっか行

くの?」

「え、ちょっと海までね。」

「くれぐれも気をつけるんよ! あんためちゃくちゃ運転下手なんだから…。

事故って清美ちゃん怪我させたりしたらあかんよ」

「うん、分かってるって(何もそこまで言わんでも…)」

  そんなことをいいながら、大急ぎで朝食を摂り、車庫に向かう。そういえば、

玄関の殴り書きのこと何も言わなかったな…。僕に気を使ってくれてるのか

な? そんなことを考えながら、車に乗り込み、清美の家へとアクセルを踏み

こんだ。



  ハンドルを握って5分少々、いつも見慣れた家が目に入ってきた。玄関の少

し手前でブレーキを踏み、壁際50センチにつける…つもりが壁に接触しそう

になり、ぎりぎり数センチのところでハンドルを切って回避。一安心のつもり

が、今度は電柱に正面衝突! ま、ブレーキを床まで踏み込んだので、バンパ

ーの先がこつんと接触するだけで済みはしたけど…。

「また事故ったね。」

   声のする方に顔を向けると、運転席を覗き込んで笑う清美の姿があった。

「あ、清美、いつのまに…?」

「えっ、いつの間にって、正信がもたもたと駐車してる間に部屋からここまで

来たんだよ。」

「……。僕、そんなにもたもたしてた??」

「うん。ついでに事故ったしね」

「……」

  そうこうしながら、清美も車に乗り込み、僕らは神代の海に向けて出発した。

日曜だからか、国道を走っても他に車がほとんど見当たらない。これなら、い

くら運転が下手な僕でも信号無視をしなければ事故は起こさないで済みそうだ。

「ねえ、さすがに大丈夫よね!?」

  ふと横目で清美を見ると、にこやかな、でも明らかに何か含んでいる笑顔が

目に入った。

「えっ、何が?」

「事・故」

「大丈夫だって…、車も少ないし、安全運転してるし」

「ふーん、駐車しようとして電柱にぶつけるような運転が安全運転ねえ…」

  清美は僕の方を横目で見ながら、訝しそうな声でからかってきた。

「……それをいわんといて〜。」

「はいはい、っそろそろやめといてあげる。」

  そういう清美にちらっと目をやると楽しそうな微笑が目に映った。と同時に

ちょっと安心した。僕が昨日の晩あんなこと言い出したせいで、気にしてない

かちょっと不安だったのだ。ひょとしたら表に出してないだけかもしれないけ

ど。

  そんなことを考えながら、ハンドルを握っている。とりあえず他の事に気を

取られて事故らないように、前を見据えながらがらがらの国道をゆっくりと走

っていく。

「もう少しね、あの海まで」

「うん、もう少し。あの砂浜、人がいないといいんだけどな」

「きっと大丈夫よ。海水浴場じゃないし、それに…この前の事件もあって人が

近づかないんじゃない?」

  清美はシートに体を沈め、あの砂浜のある方向に視線を向けている。

「あ、そうか…。近くであんな事件があっちゃ、普通の人は近付かないよなあ

…。」

  そう、この前あの砂浜の近くで人食い鬼に会ったんだよね。この騒動の始ま

りになった事件…。でも、あの事件のせいであの海に邪魔者が来ないなんて、

ちょっと皮肉だな…。

  そんなことを考えているうちに車は海に着いた。ただ、あの事件の後、砂浜

の近くの道路が通行止めになってるのでちょっと離れた海浜公園の駐車場に車

を止める。もっとも海浜公園といっても、公園自体が直径300mくらいある

大きいもので、松がたくさん植わっていて、売店もポツポツある。で、駐車場

はそのもっとも陸側にあるので海からは2、300m離れているのだが…。

「うーん、やっぱりいいね、夏の海って」

「おお、やっぱり夏は海だ! でも、ここ人多いなあ…」

「うん、早くあの砂浜にいこうよ。」

  清美が僕の手を引いて歩き出す。僕もそれにしたがってあの海めざし歩きは

じめた。周りには、浮き輪やパラソルを持ったカップルや家族連れが海へ向か

ってぞろぞろと歩いている。僕らのすぐ側を通り抜けるものもいるが、海に気

を取られてるのか、僕らには全く気付いていない。海の方に目をやると、砂浜

の当たりに人がわらわらとうごめき、泳いでいる者も結構いる。まだ海開きさ

れた所だというのに、元気なことだ。

「正信! どこ見てるの? あそこの若くて綺麗なお姉さん?」

「えっ?? いや、ただ人が多いなって海の方を見てただけやけど…」

「ふーん、ならいいけど」

  清美は、ちょっと怒ったような、すねたような感じの目で僕を見ている。キ

ョロキョロと周りの人ばかり見ていたから、誤解されたのかな…? どうすべ

き? 謝っといた方がいいかな? 清美の方を見たり、また目線をそらしたりし

ながら考える。

「ぷっ、ハハハハ」

  突然清美が大声で笑い出した。何ごと? 全く状況がつかめない。

「ど、どうしたの??」

「だって…正信、」

  清美はおなかを押さえながら笑いをこらえている。

「冗談真に受けて、ホントに戸惑ってるんだもん。」

「……」

  僕は何故か怒る気はしなかった。というか、むしろ誤解じゃなかったので安

堵していた。と同時に、からかわれてることに全く気付きもしない自分の馬鹿

さにあきれていた。

「さ、ぼっとしてないで早くあの砂浜にいこうよ」

  再び清美に手を引かて、僕らはあの砂浜目指してお互いにしっかり手を握っ

て歩き出した。海浜公園とあの思い出の砂浜との間には、防砂用の松がたくさ

ん並んでいて、その間に細い道のようなものがある。そこを通ってあの砂浜へ

行くのだ。

「一年ぶりやな、この松並木を二人で歩くのって」

「うん、一年ぶり。でもこうやって静かに歩くのは初めやね。」

「そうやなあ、前は僕の運転のせいで清美調子良く無かったもんな…」

  僕は、一年前の清美との初デートでここに来た時のことを思い出していた…。

せっかくの初デートって事で、はりきって車で来たものの、運転が下手すぎて

清美は車酔いしてしまい、ぶつぶつ文句を言う清美をなだめながら、清美をお

ぶって歩いたんだよな…。おかげで二人とも全然景色とかは目に入らず、散々

だったんだよな…。ま、今から見れば懐かしい思い出なんだけど。

「ねえ、何考えてるの? 初デートの時にこと?」

  清美が機嫌よさそうに聞いてくる。一年前とはえらい違いだ…。

「うん、そのこと。あの時はごめんね」

「ううん、いいんよ、そんなこと。それより、来年もまた二人でここ歩いてる

のかな?」

「……」

   『うん、きっと来ようね』と答えたようとして、声が出なくなってしまっ

た。清美がちょっと不安そうな、すまなさそうな表情で僕の顔を覗き込んでく

る。

「ごめん、正信…。来年のことなんかまだわかんないのにね。」

  清美は微笑みながらそういった。でも、不安そうな表情は隠せなかった。

「ううん、来年も来れたらいいね。」

「うん。  それより、早くあの砂浜に行こうよ!」

  そういうが速いか、僕の手を握ったまま走り出した。

「お、おい、ちょっと待って…」

  トン、バタッ

  清美に引っ張られ、ついていこうとして松の根につまずいたのだ。顔を直撃

こそしなかったが、顔から足まで砂まみれとなって僕は倒れている。

「あっ、まさ…。ぷっ、ハハハハハハ」

  頭の上あたりから清美の大きな笑い声が聞こえてきた。

「大丈夫?」

「まあ、なんとか…」

  僕を引っ張り起こしながら清美が声をかけてくる。しかし、言葉とは裏腹に

あきれて笑っているのが声に出ている。

  起き上がると清美の笑顔が目に入った。

「まったくどこまでどじなんだか…」

  そう言いながら、清美は僕の服についた砂を払ってくれている。

「ありがと。さて、行こうか?」

「うん。」

  気を取り直して砂浜を目指し歩いていく。周りに人の気配はない、やはりあ

の事件以来こちの方にはあまり人が来ないのだろうか…? でも、それも僕ら

にしてみりゃ好都合かな。空を見上げると、もこもこした雲がぷかぷかと流れ、

時折太陽がかくれんぼしたりするような夏らしい空だった。ちらっと清美の方

に目をやると、同じように空を見上げて目を細めていた。そんな横顔を見て、

やっぱりかわいい、とか思ってしまった。

  10分ほど歩いただろうか…、ふと、僕らの両側に突っ立っていた松の並び

が途切れた。と同時に視界が急に広がり一面の砂浜と岩場が目に入った。

「あ、ついたよ、あの海に。」

「うん! でも、そんなに久しぶりでもないんよね」

「まあ、ついこの前来たからね。」

「でも、やっぱりいいな、この海」

「うん。清美となら何度でもきたいな」



  荷物を置き、靴を脱ぎ、波打ち際に向かって走る。足に波がかかるあたりで

立ち止まる。

「あっ、結構冷たいね」

  そっと爪先を見ずにつけながら清美が言う。

「うん、今年あんまり暑くないからね…」

  と答えながら左手をそっと清美の背中の後ろに回し、トンっと軽く押してみ

る。

「キャッ」

  予想外にも、清美がバランスを崩して前のめりに崩れた。

「うわっ」

  と思ったら清美が僕の二の腕を掴んで僕までバランスを崩す羽目になった。

  バッシャーッ

  あたりに大きな波しぶきが二人分飛び散っていった。二人とも手やひざをつ

いたので、全身を海に沈めずには済んだのだが、手足はもちろん、飛び散った

お互いのしぶきで顔やシャツまでびしょぬれになってしまった。

「何すんのよー、正信。」

「何って、軽く押したみただけやん。…でも、ごめん。力入りすぎたかも」

「まあ、いいけどね。」

  二人とも起き上がって、ふと顔を見合わす。清美のシャツの袖や顔から水が

ぽたぽたと落ち、足はひざまで水に浸かり、さっきまでしっかりセットされて

いた髪は、洗いざらしのようにぼさぼさになっていた。

  この状況に思わず笑ってしまう。同じように清美も笑っている。多分、僕も

たいがいな状況なんだろうな、きっと。

  僕と清美はしばらくそのままお互い向き合ったまま笑っていた。

  そんな調子で、時間は過ぎていった。岩場の上に登って、波の音を聞きなが

ら寄り添って潮風に当たったり、砂浜にシート広げて清美が作ってきたお弁当

食べたり、その辺で昼寝したり…。疲れてきたら松の木陰で休んで、また波打

ち際に出てきては水かけ合ったり、遠くを眺めてたたずんだり…。



  そうするうちに日も傾いてきて、空がほんのり赤くなりはじめた。さすがに

疲れたので、僕と清美は波打ち際にこの前のように座って、もたれるように肩

を寄せて夕日を眺めている。

「楽しかったね。」

「うん、一日って結構みじかいな。もっと長けりゃいいのに…」

「短いよね、一日って。講義聞いてる時ってあんなに長く感じるのに、正信と

こうして遊びに来てる時って、めちゃくちゃ短く感じるんよ」

「ほんと、もっと遊んでいたい、清美と一緒にいたいのに」

  清美の方にそっと手を回してそっと抱き寄せた。清美もそれに応えて体をぴ

ったり寄せてくる。しばらくの間、波の音だけがあたりを支配する。その間に、

空はもっと赤くなり、また清美の頬も紅に染まっていった。

「ねえ、正信…」

「えっ、何??」

「帰りたいのなら、帰ってもいいよ」

「え、帰るって…?」

「向こうの世界、ティーリッシュさんが待ってる所へ」

「………」

「だって、正信このままこっちいたらつぶれちゃいそうじゃない。そりゃ、正

信にはこれからもずっと一緒にいて欲しいけど、正信がどっかに行ってしまう

なんて絶対いやだけど、正信が悩んで苦しんで、このままつぶれちゃうのを見

るのはもっといやだから…。」

「……」

「昨日一晩考えて決めたことだから、今勢いで言ってるんじゃないよ。だから、

正信は自分のことを大事に考えて…、私のことはいいから」

「…清美!」

  向き直って、十年ぶりに再開した恋人同士のように力一杯抱きしめた。そし

て、清美の柔らかい唇に唇をそっと重ねる。体中が熱い、嬉しさのせいか、自

分の情けなさのせいか、何だが押さえられない。溢れ出した雫は頬をつたって、

清美のひざの上に次々と落ちていった。

「…ありがとう、清美」

  再び強く抱きしめる、壊れそうなくらいに強く、強く。そのまましばらくの

時間が過ぎた。清美を抱きしめていた腕の力を少し弱め、そっと清美の背中か

ら離す。清美は嬉しそうな、でもちょっと寂しそうな目で僕をじっと見ている。

「清美。僕は、僕は…」

   ザザッ

  僕が清美に話を切り出そうとした時、陸の方から砂を踏みしめるような足音

がし、人とは違う妙な気配を感じた。

「何者っ!? あ……」

  振り返って目に入ったのは、こっちを見つめて突っ立っている旧友ティーリ

ッシュの姿だった。懐かしいような、びっくりするような…。

「しばらくだな、エルンスト。その表情からして、記憶は戻ったみたいだな。」

「あ、ああ。わざわざオレを探しにきてくれて、ありがとうな。20年前の戦

の時、無事だったようで何よりだ、会えて嬉しいよ、ティーリッシュ。」

  心なしかティーリッシュの鋭い眼光がやわらぎ、微笑んだように見えた。昔

よくそうしてくれていたように…。

「オレもだよ、エルンスト。あの戦で死んでしまったと思ってたからな…」

  ティーリッシュは何故か今日は日本語で話している…。人間として生きてい

る僕にあわしてくれたのだろうか? それとも、僕の恋人の清美にも分かるよ

うに気を配ってのことか…? いろいろ思いながらも、お互い近づき、再会を

祝すべく堅い握手を交わした。ちょっとごつごつした大きな手に鋭く尖った爪、

懐かしい感触だ。清美は…?と思ってそっと振り返ると数歩下がった所で、ち

ょっと心配そうにじっとこっちを見ている。

「なあ、エルンスト。どうするか決めたか?」

「えっ、何を??」

「向こうの世界に一緒に帰るか、それとも人間としてあの女と一緒にこっちに

残るか…」

  ティーリッシュはその場に突っ立ったまま身動き一つせず、そう切り出した。

さっき微笑みかけていた眼は問い掛ける真剣な眼差しになって僕の眼をじっと

見据えている。

「そのことか…」

「帰ってこないか…? あの場所へ。他のはぐれ悪魔どもも何人かは生き残っ

てるし、20年前以来大きな戦も起きてないしな。」

「あの場所か。帰りたいな…、懐かしいあいつらにも会いたいし、またティー

リッシュと野を駆けたいしね。それにこっちにいたらほんとに潰れそうだし…。

だから、さっきまでは帰ろうかなと思ってた。

  でも…、やっぱりこっちに残る。この20年人間として生きてきて、ここに

も馴染んだし、友達も親もいるし、清美が…、恋人がいるからな。それにオレ

にとってはここももう一つの故郷だしね。

  確かにこのままだと潰れるかもしれない。でもこっちにもティーリッシュと

同じようにオレを思ってくれ、慕ってくれ支えてくれる人がいる。だから、も

う少しこっちにいることにするよ。すまない、ティーリッシュ。」


  言い終えた時、ティーリッシュは表情こそ変えなかったが少し肩を落とした

ように見えた。落胆を隠し切れなかったのであろう。

「そうか、こっちに残るか…。ただ、絶対に潰れてしまうなよ。お前は俺の無

二の親友なんだからな。」

  そう言いながら、ティーリッシュは僕の頭を右手でぽんぽんと叩いている。

その顔に映る苦笑いは駄々をこねる子供にあきれはてた親のよう感じだ。

「ああ、頑張ってみるよ。ティーリッシュも頑張れよ、向こうで。」

「おお。エルンスト、いやこっちで生きるんだから正信と呼ぶべきかな。正信、

オレとお前は、もう会えない方がいいかもな。」

  ティーリッシュは少し目をそらして、どことなく悲しそうな声でそう言った。

「えっ、どうして?」

「オレがここへ来れるって事は、向こうとこっちをつなぐゲートが開いてるわ

けだから、他の人食い魔族がごろごろこっちへ来る。そうなれば、お前の周り

でまた今回のような騒ぎが多発するわけだ。だから、会えない方がいいんだよ」

  再び顔を上げたティーリッシュは、一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐに振り

払って笑顔になった。

「…確かにそうやな。じゃあ、これでお別れか。でも、20年ぶりにお前に会

えて嬉しかったよ。ティーリッシュ」

「ああ、オレもだ。こんなとこで会えるとは思ってもみなかったしな…。それ

じゃあ、これでお別れだ。死ぬんじゃないぞ! 正信!」

「おお、元気でな。我が親友、ティーリッシュ!!」

   僕はティーリッシュともう一度互いの手を握り締め、別れを告げた。ティ

ーリッシュはさっと手を挙げて挨拶すると、あっという間に砂浜を駆けぬけ、

陸の方に消えていった。



「…というわけだ、清美」

  去っていくティーリッシュを見送った後、清美の方へ振り返ってそう告げた。

不安のせいか喜びのせいか、それともその両方のせいか、両手を胸の前で握り

しめて、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で僕を見つめていた。

「ず、ずっと、一緒にいられるんよね。別れないでいいんよね…。」

「うん。ずっと一緒…」

「正信!…」

  清美は僕に飛びついてきて泣きじゃくっている。僕もめいっぱい清美を抱き

しめる、そしてそっとやわらかな髪をなでる。このところ清美には迷惑やら心

配やらかけっぱなしだったな…。しばらく落ち込んでいたり、向こうに帰ろう

と思うなんて言ったり、一連の悪魔騒ぎに巻き込んだり…。

「ごめんな、清美。ここんとこ心配ばっかりかけてしまって。お詫びはこれか

らするから…」

「もう、ほんとに、心配ばっかり…かけて…。今までの分、ちゃんと、償って

もらうからね。」

  清美は涙声で、何度もつまりながらそう答えた。泣いてはいるけれど、顔は

涙に濡れてぐしゃぐしゃになってるけど、そんな中にも安心したような表情が

かいま見える。

  実はティーリッシュに「こっちに残る」といった時、本当にこれでよかった

のかと内心不安だった。でも、今清美のこの姿を見て、その不安もどっかへ消

えた。そして、その代わりに自分はなんで清美をほって向こうに帰ろうとして

たのか、そんな自分への嫌悪感や罪悪感が大きくなって来ている。でも、逆に

ティーリッシュは寂しがってるんだろうな。さっきは表には出さなかったけど、

内心ではいろいろ思ってるんだろうな。でも、ティーリッシュに会えてよかっ

た。本当に束の間だったけど、すごく意味はあったよな…。

  なかなか泣き止まない清美を抱きしめながら、いろいろと頭の中で思いを巡

らせていた。気がつくと、僕の頬もほんのり濡れていた。安心したせいか、嬉

しかったせいかは分からないけど、悲しみや後悔の涙でないことだけは確かだ

った。



「ね、正信。そろそろ…帰ろっか? 私もう大丈夫だし」

「そうやな、遅くならんとようにせんとな。よし、帰ろっか、一緒に!」

「うん!」

  そう答えた清美の顔は、今まで見たことも無いほど元気で明るい笑顔だった。

  僕と清美は思い出の砂浜を後にした。今、再び松並木をてをつないで歩いて

いる。あたりは少し薄暗くなっていた。さっき清美が泣いている間に夕日は沈

んだようで、お日様の姿は見当たらない。でも、まだ空は黒まではいかず、紺

色くらいで夜にはなりきっていない。

「夜の海って綺麗だろうなあ…」

  独り言のように清美がつぶやく。
  
「今度一緒に見に来るか?」

「うん! 約束よ」

  勢いのいい返事と同時に清美は僕の方に向き直り、小指を立てて手を出して

来た。ゆびきり…か。僕も同じように手を差し出し、清美と約束を交わした。

その時の清美の表情は、不安から解き放たれた時のような歓喜に満ちているよ

うに思えた。



第四部『終幕』



  僕と清美は、松並木を抜けて海浜公園まで戻って来た。と、視界の中をいく

つもの人影が横切っていく。その人影たちは、ゆっくりと海とは逆方向へ向か

っていた。

「全く感心な事だ…、こんな時間まで海で泳いでるなんて」

  ちょっとあきれたようにそう感想を漏らした。

「そうね。でも、私たちだって似たようなもんじゃない?」

「それは言えてるけど…」

  そんなことを言いながら、僕らも駐車場の方へ向かってゆっくりと歩いてい

った。それにしても、懲りずに泳いでいるものだ。あたりを見渡しただけでも

2、30人くらいは目に入る。砂浜の方に目をやると、そこにもまだいくつか

の影が見える。



「キャアーーーー」

「ウワアーー、ば、化け物ー!!」

  平穏な夕暮れの風景を、突然の悲痛な叫び声が引き裂いた。僕も清美も反射

的に声のした右の方を見た。周りにいた人達も同じようにその方向を見たよう

だ。向き直ったとたん、目に飛び込んできたのは、人の体から吹き出た血が宙

に真紅の花を描く光景だった。周りは薄暗くなりつつあったのに、その花は鮮

やかな赤色であった。そして、その真紅の花が散った後、その後ろにいる大き

な影が目に入った。

  身の丈約4m、巨人のような体に赤褐色のごつごつした肌、唇の間から除く

牙…、紛れもない、人食い鬼オーガだった。薄暗い上に10mほど離れている

が、オーガの姿がやけにはっきり見える。昔の記憶と一緒に、暗視の能力も蘇

ったのだろうか…? そんなことが頭の片隅をよぎる一方、左手で清美を後ろ

にかばい、右手をオーガに対して構える。

  倒すにしても、逃げるにしても一匹なら何とかなる! そう思って呼吸を整

え、腰を落として突撃体制を取る。と、その時…

「グォォー」

「ウワッ、ウォォー」

  今度は後ろから、地響きのような音と、悲痛な叫び声が耳に入ってきた。戦

闘態勢を解いて、声のした方に振り返ると、僕らのいる所から12、3mほど

離れた所に、頭から血を吹き出した人間を手に掴んだオーガが激しく唸ってい

た。

  いやな予感がする。何か、殺気立った気配も強く感じる…。もしかして!? 急

に不安感に襲われた。清美をしっかりと両腕で抱き寄せ、あたりをじっくりと

見回してみる。

「何なの…?」

  清美が僕にしがみつきながら、不安そうにおずおずと聞いてきた。

「やばいかもしれない。」

「…」

  僕にしがみつく手に力が入る。その清美の手から、痛いほどの不安感が僕の

体に伝わってくる。その清美をしっかり抱きしめながら、再びあたりを見渡す。

突然のことに事態を把握できず、脅えながらも身動きの取れない人たち。そし

て、そのさらに向こうにぽつぽつ見える大小の人型のかたまり…。前にも後ろ

にも、右にも左にもその塊はあった。

  まじでやばい、囲まれた!!

  とっさにそう悟った。おそらく大きい塊がオーガで、小さい人型のがインプ

だろう。

10体ほどのオーガは、半径12、3mの円を描くように綺麗に周りを囲み、

ほぼ等間隔に並んでいる。しかし、不幸中の幸いか、奴等はほとんど動かない。

どうやらじわじわと包囲の輪を狭めていって、獲物を確実にしとめるつもりの

ようだ。だとすれば、奴等の間、3〜4m程の隙間を無事に通り抜けることさ

え出来ればおそらく逃げられる。他にたくさんの獲物がいるから、奴等は無理

には追ってこないだろう。そして後は、車を飛ばして逃げれば良いのだ。しか

し、その駐車場への道全てをふさぐようにオーガが突っ立っている。そして、

通り抜けるには隙間が無さ過ぎる…。3〜4mほどあるように見える隙間も、

オーガが手を広げれば簡単にふさがれる…。

「ど、どうするの?」

  清美のいつになく不安そうな声が聞こえた。そしてその時には、優柔不断な

僕には珍しくどうするかを決めていた。

「正面の人食い鬼一匹を蹴飛ばして、強行突破する」

  清美の方に目をやると、僕にしがみついたまま、驚いたような、でもちょっと

感心したような表情でこっちを見ていた。安心させようと軽く笑ってうなずい

てみせた。すると、清美もそれに応じて少し微笑んでうなずき、再び頭を僕の

胸に預けて来た。

  もう迷うことはない。清美を抱いて包囲網を突っ切るだけだ。

「清美、背中に乗って…」

「うん…」

  短くそう答えて、僕がしゃがむと同時にそっと背中の上に乗ってきた。柔ら

かく暖かい感触が背中を通して伝わってくる。

  ほんとはさっと抱きかかえて、かっこよく走っていきたい所だが、前に抱え

たりすれば清美をオーガの攻撃にさらすことになる。だから背中に負ぶうのが

一番安全なのだ。



「ウオォァァーッ」

  気合いを入れるべく叫んで、同時に全速力で駐車場へ向かって走り出した。

地面を、大地を足で掴むかのごとく駆け抜ける。記憶が戻って潜在していた力

が解放されたおかげであろうか? 清美を負ぶっているにもかかわらず、普段

より格段に速く、獣のごとく大地を駆ける自分を不思議に感じている。

  猛スピードで突っ込んでくる獲物を見て驚いたのか、正面のオーガは一瞬身

をのけぞったが、すぐに態勢を整えると血走った目で僕らを見据え両腕を握り

合わせて大きく振り上げた。そして、僕がその正面へ突っ込んでいく…。

  クォォォー

  僕の頭の真上から、巨大なハンマーのような両腕が風を切って落ちて来た。

急停止しても間に合わない、かといって手で受け止めるにも、清美を負ぶって

いるので間に合わないかもしれない。ならばっ! 左の足の裏で地面を掴んで

重心を移動し、右の足で地面を蹴ってめいっぱい左に跳ぶ。

 ド、ゴゴゴーン

  オーガの拳は僕の右肩をかすめ、そのまま地面に当たって轟音を響かせた。

一方僕の体はそのまま宙を左に大きく舞い、静かに着地しようと…

「正信、危ないっ!」

  背中の清美が耳元で突然そう叫んだ。しかし、その声を聞くまでもなく危険

の元凶は視界に入っていた。落ちていく真正面に別のオーガが待ち構えていた

のだ。真横に大きく跳んだため、隣にいたオーガの正面に来てしまったようだ。

そして、オーガの胸元めがけて僕たちは落ちていく…。

  ビュゥッ

  オーガがその岩のような拳を突き出して来た。と同時に僕は空中で右に半身

をひねる。しかし、清美を負ぶってるせいか思ったほど体は動いてなかった。

拳が腹のあたりをこするように突きあがり、そして僕のあご先を弾く。

「ぅぐっ」 

  僕はオーガの拳に弾かれて、背中から地面に落ちた。

「きゃぁっ」

  背中から清美が叫ぶ。一応地面に叩き付けられる寸前、右手と両足を突いて

清美をかばおうとはしたのだが、完全にはかばいきれなかったようだ。

「清美っ、大丈夫か?」

  体を起こしながら清美に声をかける。まだ僕にしっかりしがみついているか
  
  ら何とか大丈夫そうではあるが…。

「う、うん。平気」

「じゃ、ちょっとだけじっとしてて」

  そう言って、僕にしがみつく清美の手の上に手を重ねた。

「…わかった」

  そう言うと、清美は、しがみついていた僕の体からゆっくりと手を離した。
   
  そうやり取りしてる間にも、オーガは僕たちを食材の肉塊に変えるために、

岩のような拳を振り上げて構えて、牙をむき出しにして余裕の様相でこっちを

見ていた。「お前等などいつでも簡単に殺せるんだ」とでも言わんばかりに…。

ふと背後の上の方向からも妙な緊張感を感じた。少しだけ振り返ってみるとさ

っきのオーガが僕らを踏み潰そうと足を振り上げていたのだ。清美はというと、

僕の足元で言われた通りじっと身を小さくかがめて座っている。

  両者の攻撃のタイミングを見るためにさっと両側を見回した。その時、右後

方に小さな人影のらしきものが目に入った。しかし、今はそんなのはどうでも

いい、ともかくこの場を凌ぐことが最優先。そう思ってガード姿勢を取る。

  ヒュウゥッ クゥォォ

  次の瞬間、僕の両側から巨大な拳と足が同時に落ちて来た。両手をそれぞれ

の方向に突き上げ、右手で足を、左手で拳をしっかりと受け止め、肘をクッシ

ョンにして勢いを殺す。

「キャアアアッ」

  僕が攻撃を受け止めると同時に、清美の悲痛な悲鳴が胸に突き刺さった。と
  
  っさに清美の方を見ると、インプが清美に飛び掛かりその爪を清美の顔につき

たてるところだった。あっ、さっきの人影みたいなのはインプだったのか…。

一瞬の内にそう気付いてがもう遅かった。もう間に合わない…

  ズシャァッ

  鈍い音を立てて爪が顔に突き刺さる。一瞬の内に、清美の顔が血っで真っ赤

に染まってゆく。僕の足にも返り血が飛びつき、足を生ぬるい感触とともに滴

り落ちていく。



















  しかし、その血は清美のものではなく、清美を襲ったインプの顔から吹き出

したものだった。インプの爪は清美の顔に突き刺さる手前で止まっていた。そ

して、そのインプの顔を刺し貫いた爪は僕の見慣れたもので、ティーリッシュ

のものであった。

「ティーリッシュ!?」

  顔を上げると、そこには確かにさっき別れたはずの親友の顔があった。

「まったく世話の焼けるやつだ。」

  そう言って、インプから爪を引っこ抜いて放り投げると、こっちを向いて微

笑んだ。

「……」

  僕は突然のことに何も声が出なかった。

「こいつは俺に任せて、その間に逃げな」

  ティーリッシュは僕の左手に重くのしかかっているオーガの腕と拳を掴み取

りながらそう言った。

  こいつ一匹ならいける! 即座にそう確信した。

ウオォリャァーッ

  声とともに両足と右手に力を込めてオーガの足を思いっきり前に押し返し、

上方に跳ね上げる。と、バランスを崩したオーガは押されるままに後ろに倒れ

込んで、すさまじい地響きを立てた。

  さっとしゃがんで下を向くと、清美が小さくうずくまって、脅えていた。シ

ャツも顔も、飛び散った血でベトベトになっているが、傷はないようだ。細く

開けた目は脅えと安堵を訴えながら僕の方を見ている。僕は、「大丈夫だよ」

という気持ちを込めてそっと微笑んで、右腕をひざの下に、左腕を肩の下に滑

りこませた。

「ありがとうな! じゃあっ」

  振り返りもせずそう叫ぶと、清美を抱き上げ持てるすべての力を足に込めて

走り出した。姿勢を低く前傾させ、足の指一本一本で大地を掴み、体を引き寄

せてはまた蹴飛ばす。腕の中の清美は完全に体を僕に預けている。視界の中を

松やら楡やらの木が流れ去って行く。それと入れ替わりに視界の中央に開けた

場所が見え始める。駐車場だ! 

  背後に気配はしない。でも車の前に付くと同時に後ろを振り返る。目に入る

のは、今走って来た土の道と、木々のシルエット、そして広い駐車場に点在す

る幾台かの車…そして地平から上って来たばかりの満月。追ってくる様子も、

あたりに何かが潜んでいる気配もなかった。

「もう大丈夫みたいだよ」

  そう言って、腕の中に抱いていた清美をそっとおろした。と、清美が僕に抱

きついて来た。小さく暖かな手は、しかし僕の背中に食い込むくらいに力強か

った。僕も清美をそっと抱きしめる、いやそっとのつもりだったが、無意識の

うちに清美をめいっぱい抱きしめ、抱き寄せていた。

「こ、怖かった…。怖かったよぅ…」

  清美は僕の腕の中で泣きじゃくっている。泣くのも、無理はない。鬼や悪魔

の大軍に囲まれ、攻撃にさらされ、顔に爪を付きつけられたのだ。今までじっ

と我慢できていった方が不思議なくらいだろう。そっと清美の頭をなでる。少

しの間そのまま時が流れた。

「そろそろ、帰ろっか?」

「…うん」

  泣くのを止めて、小さくうなずく。

「その前に、かわいい顔を綺麗にしとかないとね」

  僕は、清美の顔を上げさせると、手にしたハンカチで、清美の頬をそっと拭

った。顔から返り血と涙を拭うと、いつもの清美の顔がそこにあった。

「ありがと…」

  清美は軽く微笑むと、唇で僕の唇をそっとふさいだ。再び清美を強く抱き寄

せる。清美を腕の中に感じながら、僕もようやく本当に安心し始めていた。こ

れで終わりだ、厄介な騒ぎもこれで最後だ。そう確信しつつあった、というか、

そう確信したかった。



「さ、行こうか」

  清美は軽くうなずいて助手席にさっと乗り込んだ。続いて僕も運転席に乗り

込みエンジンをかける。車はゆっくりと動き出し、僕と清美は海浜公園を後に

した。



「ねえ、ティーリッシュさん大丈夫かなあ?」

  助手席の清美が思い出したように聞いてきた。
  
  「ああ、大丈夫だよ。あいつ、見かけよりかなり強いから。少なくとも僕より

強いしね。だからあんな人食い鬼の一匹や二匹とっとと倒してるって」

「でも…10匹くらいいたよね?」

「ああ、でも、僕たちが逃げたのを確認してあいつもちゃんと逃げたと思うよ。

それにあいつがそう簡単に死ぬはずないしね。大丈夫」

「うん、分かった…」

   今ごろはもう帰ったのかな? それともどこかで僕らの様子を見てるんだろ

うか? ともかく、今回のことちゃんと礼言いたくても、もう多分会えないと

思うと、やっぱり悲しかった。

「正信、泣いてるの?」

「ん?」

  清美が心配そうな顔でこっちを見ている。ふと、自分の頬が濡れているのに

気が付いた。泣いてるつもりなどは全くなかったのだが…。

「あ、いや…。ティーリッシュのこと考えてて、ちょっとね」

「やっぱり、大切な友達なんだね。ちょっと後悔してる?」

「もう会えないかもと思うとちょっと悲しい…。でも、後悔はしてないよ。親

も友達もいるし、清美がいる。みんな僕の大事な人だから…。離さないよ、絶

対。」

「よかった…。でも、これからどうするの…? まだ騒ぎは収まってないし、

みんなまだ不安抱いて避けるだろうし…。」

  清美がうつむき加減になって、不安そうに、途切れながらそう言った。

「んー、多分何とかなるよ。しばらくは無理かもしれないけど、そのうち何と

かなると思うよ。騒ぎもずっとは続かないと思うし」

「そうよね、そのうち収まるよね…。収まるまでさ、私も力になれるように頑

張るからね」

  そう言うと、清美の顔からは不安の表情は消え、笑顔が戻った。

「うん、ありがとう」

    僕もそれに応じて笑い返した。親がいるし、陽治も、涼子先輩もいる。そ

して何より清美がいる。もうしばらく騒ぎが収まるまで十分乗り切れるだろう。

前までは不安で仕方なかったが、今ははっきりと確信できる。まったく、つい

さっきまで向こうに帰ろうとしてた人間の感情とは我ながら思えないが…。



「な、もうすぐ夏休みやし、休み中に旅行でも行かへん? 二人で…」

「えっ、旅行!? 絶対行こうよ〜。涼しいとこがいいな〜、北の方行こうよ」

「うん、夏は涼しいとこだよな、やっぱり。涼しい草原で寝っ転がったりした

ら気持ちいいだろうなあ。」

「ああ、草原いいよねえ。そしたらやっぱりあそこかなあ…」

  清美が体を運転席の方に乗り出すようにして話しかけてくる…。

  ああ、このまま平穏な日々に戻ってくれたらいいなあ。そんなことを内心で

思いながら、車を家に向かって走らせていった。


<完>

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