第一章 生き残ったローマ帝国
ローマ帝国は古代のうちに滅び去ったわけではありませんでした。



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395年
▲ローマ帝国の分裂(395年)

 紀元前753年(伝説上)に始まって、ライバルを蹴落としつつ大きくなってきたローマ帝国でしたが、でかくなりすぎたせいでランニングコストがかさみ、西暦395年、ついにふたつに分かれました

 一方はミラノを首都とする『西ローマ帝国』、もう一方がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とする『東ローマ帝国』。東ローマ帝国はコンスタンティノープルの旧名ビザンティオンより、『ビザンツ帝国』と呼ばれます。
 これは必ずしも決定的な分裂であったわけではありませんでした。東皇帝テオドシウス2世(408-450)の法典が西皇帝ヴァレンティニアヌス名で発布されたように、二人の皇帝はひとつの帝国を分割統治しているとされました。東皇帝にギリシア出身の皇帝が誕生するのは、ティベリウス3世(698-705)の時代になってからのことでした。

 なお、この頃のローマ帝国の中心は東側に移っていました。西暦330年にはコンスタンティヌス1世(大帝)(306-337)によって首都がコンスタンティノープルに移されており、分裂時に東ローマ帝国の皇帝となったのはのアルカディウス(395-408)、西ローマの皇帝となったのは弟のホノリウスでした。

476年
▲西ローマ帝国の滅亡(476年)

 安定の為、分割統治に移行したローマ帝国でしたが、東西ローマ帝国ともゲルマン民族の侵入を受けました。ビザンツ帝国はゲルマン民族に対して貢物による懐柔を行い、あるいは外交によって他の部族に襲撃をさせるなど様々な手段を使い、異民族の侵入を最小限に押さえようとしました。それによって進路をそらされた異民族のいくらかは、西ローマ帝国に向かって行きました。西ローマ帝国にはそれを防ぐ力は既になく、ビザンツ帝国にも西ローマ帝国を救うだけの力はありませんでした。

 ゲルマン民族の侵入を受けた西のローマ帝国はそれから100年も経たないうちに滅んでしまいます
 こののち西ヨーロッパは、長い民族移動と小国分立の混乱した時代を迎えます。

 ビザンツ帝国は、その後も国内に勢力を持つゴート人、イサウリア人などの異民族による圧力を受けつづけました。これはアナスタシウス1世(491-518)が異民族を平定するまで続きました。


565年
▲東ローマ帝国の最大領域(565年)

 農民の子として生まれ、527年に即位したユスティニアヌス帝(527-565)は、ローマ帝国の再興をもくろみ、その準備に取り掛かります。市民には重税が課され、それによって『ニカの乱』と呼ばれる市民蜂起が発生しました。皇帝は逃げようとしましたが、踊り子あがりの奥さん「帝衣は最高の死に装束である」(皇后の衣装を脱いで生き永らえるくらいなら、死んだ方がマシでございますわ)と一喝され、市民を鎮圧します。
 534年にはヴァンダル王国を、555年には東ゴート王国を占領し、ローマ環地中海帝国の再興を実現しました。


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