第二章 古代から中世へ
生き残る為に、ローマ帝国はビザンツ帝国へ変貌を遂げました。



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8世紀
▲8世紀のヨーロッパ

 ユスティニアヌス帝によって国力を使い果たしたビザンツ帝国は、それまでササン朝ペルシアに支払っていた貢納金にも事欠く有り様となり、ついにササン朝ペルシアと戦争に突入します。
 戦争が長引いている間に、北からはアヴァール人やスラブ人の侵入が始まりました。

 マウリキウス皇帝(582-602)はササン朝ペルシアより亡命してきたホスロー2世の復帰を助け、ペルシアとの戦争を終わらせます。しかしフォカス(在位602-610)のクーデターによってマウリキウス皇帝が殺されると、ホスロー2世はマウリキウス皇帝の仇討ちと称してビザンツ帝国への攻撃を再開しました。

 さらに反乱が起こり、ヘラクレイオス皇帝(610-641)が即位しました。ビザンツ軍は相変わらず惨敗を続け、ついに食糧の供給地エジプト、交易の拠点シリア、聖地パレスチナを失いました。これはビザンツ帝国にとって、精神的にも経済的にも大打撃となりました。どうにもならなくなったヘラクレイオス帝は逃亡を企てますが、失敗に終わります。

 進退窮まったヘラクレイオス帝は、ついに立ちあがりました

 一度はコンスタンティノープルを包囲されるも、ヘラクレイオス帝は寄せ集めの軍隊でよく戦い、ついにペルシアの首都クテシフォンに迫りました。ペルシアは講和の使者を送り、このときに結ばれた条約によって、ペルシアが占領したビザンツ領はビザンツ帝国に帰属することになりました。

 ところが、わずか数年後に新興国であるイスラム帝国が外征を開始します。長い戦いで疲弊したササン朝ペルシアはあっけなく滅ぼされ、ビザンツ帝国にもイスラム帝国に対するだけの力は残っていませんでした。
 長い戦いでやっと取り返したエジプト・シリア・パレスチナは数年のうちにイスラム帝国に占領されてしまいました。やがて、かつてはローマ帝国の内海であった地中海の制海権もイスラム帝国に握られ、地中海には『もはやキリスト教徒は板切れ一枚も浮かべることは出来ない』と言われました。

 ユスティニアヌス1世時代に皇帝の権威が隅々まで行き渡っていた領土は大きくしぼみ、商業・文化・都市の活動はさびれ、ビザンツ帝国は滅亡の危機に立たされました。さらに637年から637年、717年から718年にかけて首都の包囲を受けました。首都コンスタンティノープルはどうにか包囲に持ちこたえ、皇帝レオーン3世(717-741)のもと、 新兵器『ギリシアの火』、農民から兵士を募る軍管区制度、貿易特権と引き換えに得たブルガリアからの援軍などによって危機を脱することができました。

 危機を乗り越えた後のビザンツ帝国は、キリスト教信仰が社会に深く浸透し、都の市民への娯楽や食糧の無料配給を廃止するなど、かつてのローマ帝国とは大きく様変わりしていました。

 このころ、レオーン3世は聖像を否定するイスラム教徒からの圧力により、聖像禁止令を出しました。ところがローマの教会では聖像が必要であったためビザンツ帝国と対立し、ビザンツ帝国に代わって自分たちを保護してくれる勢力を求めました。そこでローマ教皇レオ3世はフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)に『ローマ皇帝』の称号を与えることにしました(800)。
 これにより、長く混乱の続いた西ヨーロッパがビザンツ帝国とは別の勢力としてまとまり、またローマ教会はビザンツ帝国の支配下から脱出することになります。


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