第三章 ビザンツ帝国の最盛期
ビザンツ帝国は、古代ローマ帝国の後継者であることを実力で示しました。



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 この頃のビザンツ帝国は、再び成長期に入ります。

 外敵の侵入は終息へ向かい、大規模な内乱もなくなりました。経済は発展を続け、コンスタンティノープルの人口は増えつづけました。

 ユスティニアヌス1世の時代に中国から蚕が密輸され、絹織物が作られるようになっていました。ビザンツ製の絹織物は西ヨーロッパでは大変な貴重品とされました。西ヨーロッパにある古くからの教会では今なお代々伝わる宝物して保管されているほどです。
 ビザンツ帝国はこの絹織物を外交戦略の為の周辺諸国への貢物、あるいは使節への下賜品として巧みに用いました。帝国政府は絹の品質に特に気を使い、同業組合(ギルド)の監督や組合長の任命などを直々に行いました。

 860年頃には皇宮に大学が設置され、文法、幾何学、哲学、天文学の講座が開かれました。

 ローマ教皇からローマ皇帝の称号を贈られた神聖ローマ帝国皇帝オットー1世は、唯一のローマ皇帝であるビザンツ帝国の皇帝にそれを認めてもらうことによって、はじめて自分も本当の『皇帝』になれると考え、この頃のビザンツ帝国に使節を送っています。


1025年
▲ビザンツ帝国の中興期(1025年)

 充電期間の終わったビザンツ帝国は、“サラセン人の蒼ざめた死”と呼ばれたニケフォロス2世(963-969)、ヨハネス1世(969-976)、“ブルガリア人殺し”と呼ばれたバシレイオス2世(976-1025)と3代続いた軍人皇帝の下、再び地中海の強国として甦り、その繁栄を謳いました。

 ニケフォロス2世は、クレタ島・シリア・キプロス島などをイスラム勢力から奪い返し、『キリスト教徒は板切れ一枚も浮かべることは出来な』かった地中海の制海権をビザンツ帝国に取り戻しました。ニケフォロスの活躍は『ニケフォロスの前ではサラセン人も恐怖に蒼ざめて死ぬ』と謳われました。

 続くヨハネス1世が即位して間もなく、無敵を誇る英雄スヴャトスラフ率いるロシア軍がコンスタンティノープルを略奪しようと攻め込んできました。ヨハネス1世はこれを迎え撃ち、ドナウ川沿岸まで追い返しました(971)。ロシアは略奪を行うよりもビザンツ帝国と友好関係を結んでコンスタンティノープルで商業取引を行った方が有利だと気付きました。

 ロシアを破った後のヨハネス1世は対イスラム戦で連戦連勝の功績を残し、975年にはパレスチナまで遠征に出かけています。

 バシレイオス2世は数多くの戦争を行いました。ブルガリアとの戦争は30年間も続き、ブルガリア帝国は1018年にはバシレイオス軍の前に降伏を余儀なくされました。こうしてスラブ人がバルカン半島に侵入を開始して以来、300年ぶりにビザンツ帝国の支配権が半島全域に及びました。
 かつてのユスティニアヌス1世の膨張政策は国庫を空にし、ビザンツ帝国を疲弊させましたが、バシレイオス2世の政策は、その時代の宮殿の蔵には財宝が入りきらず、地下を掘って蔵を拡張するほどの余裕ぶりでした。

 バシレイオス2世の妹アンナはロシアのウラジーミル公に嫁ぎました。これによりロシアはギリシア正教へ改宗し、ビザンツの文化圏に加わります

 西暦1000年の首都コンスタンティノープルは、キリスト教ヨーロッパ世界では最大の都市でした。

 しかし、ビザンツ帝国の繁栄は長くは続きませんでした。


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