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第四章 危機、中興、占領
ビザンツ帝国は一旦弱体化するも、やがて勢いを取り戻します。しかし……
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▲11世紀のヨーロッパ
強国となったビザンツ帝国でしたが、無能な皇帝が続いたために国力に翳りが見え、貴族や市民の反乱、そして異民族の侵入が頻発しました。
やがて新たなる敵セルジューク=トルコの侵入が始まりましたが、それに対しても有効な手段をとることができませんでした。マンツィケルトで行われた対トルコ戦(1071)では、ビザンツ側は惨敗した上に皇帝ロマノス4世(1067-71)が捕虜となる始末でした。
同じ頃、ノルマン人の侵入によりイタリアのビザンツ帝国領が失われました。
また、ビザンツ帝国は深刻な財政難に陥っていました。
ビザンツ帝国のノミスマ金貨は、4世紀のコンスタンティヌス大帝以来、常にほぼ純金という品位を保ち続けてきました。
しかし、金貨の金含有量が11世紀中頃から急に価値が下がり始め、アレクシオス1世が即位した1081年には 27%〜42%にまで落ちていました。当時の貨幣の信用度は、その金属としての価値そのものでしたから、ノミスマ金貨の価値はわずか半世紀の間に3分の1になってしまったのです。
半世紀ほど前にバシレイオス2世が一杯にした宝物庫は空になっており、鍵すら掛けられていませんでした。
▲12世紀のヨーロッパ
若くして反乱を起こし即位したアレクシオス1世(1081-1118)は、皇帝から離反しがちな有力貴族をよくまとめ、国力の回復に努めました。
海から侵入するノルマン人に対しては、強力な海軍を持つベネチアに商業特権を与えて軍事援助を受けました。
セルジューク=トルコに対しては、ローマ教皇ウルバヌス2世に援軍を要請しました。ローマ教皇は西ヨーロッパ各地の王・貴族に聖地奪回を呼びかけました。こうして誕生したのが第1回十字軍です。
十字軍の中には、かつてノルマン人を率いてビザンツ帝国領に侵入を繰り返したロベール・ギスカールの子、ボエモンドが参加していました。
ボエモンドはビザンツ帝国を征服地シリアと本国の南イタリアから挟み打ちにしようとしましたが、アレクシオス1世はトルコ人と組み、ボエモンドを降伏させました。ボエモンドは本国に逃げ帰り、異教徒トルコ人と組むギリシア人の裏切りを吹聴しつつ軍隊を整え、ふたたびビザンツに攻め込みますが、ビザンツ帝国は実力でこれを追い返します。
アレクシオス1世の娘アンナ・コムネナは鋭い観察眼とギリシア古典に関する深い教養を持つ聡明な女性歴史家として名前を残しています。アンナが13歳の時、第1回十字軍がコンスタンティノープルにやってきました。その事を彼女は歴史書に『アドリア海からジブラルタルまでの野蛮人が一堂に集まった』と書き残しています。十字軍のあまりの強欲さに、アンナは唖然としたといわれています。
アレクシオス1世の子ヨハネス2世(1118-43)も優れた政治家かつ武人でした。バルカン半島ではペチェネグ人・ブルガリア人・ハンガリー人を撃退し、小アジアではセルジューク・トルコの分裂を利用して領土を広げました。この結果、ビザンツ帝国はそれなりの強国としての地位を確保しました。
ところが、その子マヌエル1世(1143-80)の時代になると、ヨーロッパ各国は強国へ返り咲いたビザンツ帝国に不安を感じはじめました。
そのような状況の中でマヌエル1世はイタリアへの外征を行いました。
ビザンツ帝国は神聖ローマ帝国をはじめとするヨーロッパ各国を敵をまわすことになり、マヌエル1世の野望は達成されませんでした。
マヌエル1世の死後は貴族の離反とブルガリア・セルビアなどの独立が起こり、立ち直ったかに見えたビザンツ帝国は縮小の一途をたどりました。
1185年に即位したイサキオス2世(1185-95,1203-04)は弟の反乱により幽閉されました。
イサキオス2世の子アレクシオスは国外へ脱出し、その頃に結成したものの移動するための資金がなかった第4回十字軍に援助を請いました。資金を提供するかわりに皇帝に即位する手伝いをしてもらう約束を取り付けたアレクシオスは、十字軍の力でさっそくアレクシオス4世(1203-04)として即位します。
ところが横暴な十字軍士に反感を持った市民によって反乱が発生、アレクシオス4世は殺されます(→一夜漬け皇帝)。それによって資金の支払いが行われなくなった十字軍は、ビザンツ帝国を占領することにしました。
十字軍は略奪の限りを尽くした末にラテン帝国を建国しました(1204年)。マヌエル1世の死後わずか四半世紀のちのことでした。
こうして、ビザンツ帝国はその永い歴史にいったんの別れを告げます。
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