第六章 帝国の復活とその死
老帝国は最後の日までローマ帝国でありつづけました。



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1264年
▲復活したビザンツ帝国(1264年頃)

 ようやく復活したビザンツ帝国ですが、かつて国際政治と経済の主役であった帝国の実態は、荒れ果てた首都と強国に圧迫される領土を持つ、無力な小国家に過ぎませんでした。

 この時代のビザンツ帝国は、バルカン半島(とビザンツ帝国)を巡ってセルビア人とトルコ人との間に繰り広げられる抗争の、無力な見物人と成り果てていました。
 それどころか、帝位争いなどビザンツ帝国の政治はベネチア・ジェノバ・ブルガリア・セルビア、はてはオスマン=トルコなどの外国によって左右される状態でした。

 しかし、ビザンツ帝国復活とともに始まり、その最後の王朝となったパレオロゴス朝は、ビザンツ帝国千数百年の歴史の中でもっとも長く続いた王朝となりました。

 そして、かつてヨーロッパ諸国に先駆けて強力な中央集権機構を持っていたビザンツ帝国で地方の自治意識が進みました。
 1340年代には帝国第2の都市テサロニカで、熱心党(ゼロイタイ)を中心とした市民の反貴族暴動が発生しました。ヨハネス6世カンタクゼノス(1347-54)によって苦境に立たされた熱心党は、1349年にセルビア王にテサロニカの町を明け渡そうとしました。これに対してヨハネス6世カンタクゼノスは傭兵としてオスマン=トルコ人をバルカン半島に導きます。
 オスマン=トルコ人は、熱心党の鎮圧後もバルカン半島に居座り、1389年にはコソボの戦いでセルビアを撃破、さらにブルガリアも征服されてゆきます。

 1371年、ビザンツ帝国皇帝ヨハネス5世(1341-76,79-91)は、ついにオスマン=トルコ帝国のスルタンの臣下とならざるを得なくなりました。こうして、かつてはスペインからアルメニアにいたる大帝国であったビザンツ帝国は、オスマン=トルコ帝国の一従属国となったのです。
 このときに、小アジア側に唯一残されていたビザンツ領の都市フィラデルフィアが、オスマン=トルコ側に引き渡されました。


1360年
▲末期のビザンツ帝国(1360年)

 ビザンツ皇帝に見捨てられたフィラデルフィアでしたが、住民はオスマン=トルコ帝国に対してなおも抵抗を続けました。1391年にスルタンに即位した『雷帝』バヤジット1世は、ヨハネス5世の息子である皇太子マヌエルに対して臣下としてフィラデルフィアを攻略する様命令しました。フィラデルフィアは皇太子マヌエルの攻撃によって陥落し、『ギリシア人の皇帝がギリシア人の町の征服において一番乗りの手柄を立てた』と言われました。

 フィラデルフィア攻略後も皇太子マヌエルは人質としてオスマン=トルコ帝国に留まることを強制されました。
 やがてヨハネス5世が死去すると、皇太子マヌエルはオスマン=トルコを脱出し、マヌエル2世(1391-1425)としてビザンツ皇帝に即位しました。
 その後もスルタンに忠誠を続けてきましたが、とどまる所を知らないスルタンの要求に対し、ついに臣従の誓いを破棄しました。

 早速オスマン=トルコ軍の攻撃が始まりました。マヌエル2世は西ヨーロッパ諸国に対して援軍を乞い、オスマン=トルコの圧迫を受けていたハンガリーの王ジギスムントを中心とする、かつてない規模の十字軍が編成されました。
 しかし、この十字軍はドナウ側沿いのニコポリスで壊滅的な大敗をこうむります(1396)。

 マヌエル2世は、ついに自らが直接西欧各国を訪れて援軍の派遣を請う事にしました(1399-1402)。
 マヌエル2世の旅は丸三年に及び、その足取りは遠くロンドンにまで及びました。歴代皇帝で最も遠い旅です。
 ところが、マヌエル2世がヨーロッパをさすらう間に、オスマン=トルコ帝国は崩壊していたのです(→ビザンツ帝国版『神風』)。

 ビザンツ帝国をはじめとするオスマン=トルコ帝国の属国であった国々の傷は深く、なかなか立ち直れないでいました。そうしているうちに、ムラト2世によってオスマン=トルコ帝国が再興されました。

 西欧からの援軍は、ついに来ませんでした

 長くトルコ帝国で人質として過ごしたマヌエル2世は善良な人物として知られ、トルコ人からも崇拝されたといいます。
 また、コンスタンティノープルの帝国大学を再編成して西ヨーロッパからも学生を引きつけつつ、自らも一流の文人として活躍した文人皇帝でした。

1453年
▲滅亡直前のビザンツ帝国(1453年)

→『ローマ帝国』不用論

 その後のヨハネス8世(1425-48)、コンスタンティノス11(12)世(1449-53)も帝国を生き長らえさせるために必死の努力を続けました。

 ヨハネス8世はオスマン=トルコ帝国の後継者争いに介入し、親ビザンツ帝国派のスルタンを応援しましたが、果たせませんでした。

 コンスタンティノス11(12)世が帝位を継いで(1449)すぐ、コンスタンティノープル攻略の野心に燃える若きスルタン、メフメト2世が即位しました(1451年)。メフメト2世はコンスタンティノープルを攻略する為に、10万を超える軍隊を整えます。当時のヨーロッパ世界で、それだけの軍を動員できる国は一国とてありませんでした。

 16万以上のトルコ軍に対する囲まれたビザンツ帝国側の総兵力は、『ローマ人』ことギリシア人4773人と西ヨーロッパ人の約2000人。かつて100万を数えたと言われるコンスタンティノープルの人口は、約4万人にまで減少していました(都市伝説)。

 しかし、西ヨーロッパ人から長らく『戦うのが怖くて宝物で敵をたぶらかし、どうしようもないときは金で外国人の傭兵に戦わせる臆病者』と謗られてきたビザンツ人は、自軍の20倍もの敵に対して戦うことを選びました
 2ヶ月間にも及ぶ死闘が繰り広げられた末、1453年5月29日早朝、ついにコンスタンティノープルの城壁が破られました。
 城壁にオスマン帝国の三日月旗を見た皇帝コンスタンティノス・パレオロゴスは「私の首を切り落としてくれる、一人のキリスト教徒もいないのか」とつぶやいたといわれています。
 そして、最後のローマ皇帝は、ローマ皇帝位を示す鷲の紋章を投げ捨てると抜刀し、死に場所を求めてトルコ軍兵士の中へ突入していきました。

 こうして『天上のキリストの帝国の不完全な模造であり、最後の審判の日までに地上すべての人類を統一しておくよう神から任ぜられた、唯一の帝国』は、キリストの再臨を待たずして地上から姿を消したのです。

 1472年、ビザンツの皇女ソフィア(コンスタンティノス12世の姪)がロシアのイヴァン3世のもとに嫁ぎました。それ以降、ロシアはローマ帝国、ビザンツ帝国に続く『第3のローマ帝国』としてツァーリ(皇帝)の称号を使い、またビザンツと同じ双頭の鷲の紋章を用いることになります。



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