第一章 「満州国」建国前夜の中国東北部におけるケシ政策の様子


第1節 満州社会に浸透するケシ栽培とアヘン

1 (〜1930)満州の農業事情

●満州という土地

 「満州国」は現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部に存在した国家である。そこは日本よりも高緯度であるので、寒冷で不毛な大地と見られがちである。当然地域によって差はあるが、実は「驚くべく肥沃であって、長期厳冬であるにも拘らず、一年二回の収穫を挙げる」「西部の一部を除けば、肥料はいらない」と称されるほど、農地としては優秀だった 。

●主な農作物

 満州で作られていた農作物は穀類(高粱、粟、稗、大麦、小麦、燕麦、米、とうもろこし)、豆類、ケシ、にんじん、山繭、綿花、麻、果実などがある。
 特に高粱は満州と切っても切り離せない関係にあった。それは主食のみならず、高粱酒など商品化もできる優秀な農作物であって、そのほかにも用途も様々で、パルプの原料、火薬、マッチ、肥料、医薬(カリウム塩)、燃料など多岐にわたって利用された。満州の人々に珍重されていた様子は、「満州の住民は高粱なしには生きていく路を知らない。それは人間及び家畜の主たる食糧 」という言葉に凝縮されている。
 また、高粱の繁茂期である夏は人の背丈以上に育つ。そのため、高粱に隠れてのゲリラの奇襲が容易になったので、それを恐れた関東軍は満鉄沿線での高粱栽培を禁じるということまでおきた。高粱は満州の華である。

●満州の農業生産力

 ところで、満州の農業が近代までなかなか大きく発展しなかった理由は大きく分けて二つある。まず満州が中国にとって最果ての地であるということであり、次に清朝が父祖の地として、漢民族の進出を制限したため資本と労働力が不足していたからである。
 その中で、もとより満州で栽培されていた大豆は油脂原料や肥料原料として中国に輸出されていたために、当初から特別な農産物扱いされていた。日本の進出が始まり、三井物産によって1908年にヨーロッパに大豆をもたらすルートを開かれると、大豆は一躍国際的な貿易品として脚光を浴びた。するとたちまち満州は世界的な大豆の産地となり、生産量も日露戦争前の300万石から1910年頃には1400万石とめざましい生産量の増大を見せた。このような急増を見せたにも関わらず、この生産量増大は決して従来の農業を圧迫するものではなかった。即ち、既存の農地で高粱や粟をつぶしながら大豆畑が拡大したのではなく、新たな農地を開墾して栽培地の拡大がされたという 。生産量の驚くべき増大は、満州の気候条件や土壌など、満州の農業条件が優れているということを示している。


 

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