第一章 「満州国」建国前夜の中国東北部におけるケシ政策の様子
第1節 満州社会に浸透するケシ栽培とアヘン
2 (〜1930)アヘンの流通を受け入れる満州社会
●発達した貨幣経済社会
満州の農家は基本的に自給だが、輸出に充てる大豆以外にも、藍、生糸、煙草、ケシ、山繭などといった換金性の強い工芸作物も多く栽培していた。換金性の高い工芸作物の存在は貨幣経済が農民まで浸透していたことを示している。貨幣経済の浸透によって、農民の生活の幅が広がるが、貨幣経済が特に発達した土地の例として、養蚕地として有名な満州東南部の寛甸県がある。そこは、村をあげて養蚕業に従事して貨幣を獲得し、高粱や粟などの常食品を購入品で済ましていた。養蚕技術の高さだけでなく、お金を介したやりとりが盛んであったことを示している。
貨幣経済化は満州で大豆の生産が拡大したことなどによって、ますます進んだといえるだろう。
●ケシの流通と栽培のはじまり
アヘンを収穫できるケシは中国に19世紀に伝わったとされるが、満州での浸透が特にすさまじかった。ケシ栽培がもたらす利益という点に関していえば、時と場所によってかなり違ってくるが、「土人ノ言ニ拠レバケシヲ植エ以ッテ阿片ヲ製スルハ穀物ノ収穫ニ比スレバ概ネ二倍ノ利益アリ」
といわれるほど、農民にとって商品価値が高くて、魅力を感じる作物だったのだろう。この利益を狙って、のちに軍閥らが税をかけることになるのだが、これは後述する。
逆に貨幣経済が発達していたからこそ、換金性の高い作物が作られたともいえる。貨幣経済が浸透していない社会でいくら換金性の高い作物を作っても、意味はあまり無い。常用食を作ったほうが当然役に立つからだ。もちろん、ケシ以外にも満州では生糸や藍も作られていた。貨幣経済が進むと、寛甸県のように主要食糧を購入することができるようになる。ケシや藍といった、わずかな量でも高い価値を持つ工芸作物は、「市場と農地が離れており、道路もあまり整備されていないために運賃がたくさんかかる」という交通事情を抱える満州にとって、最適な作物だろう。農民たちが作物を換金する市場とは陸路と海路を利用した平津市場のことや、大連,あるいはウラジオストクでロシアを相手にしたと考えられる。