第一章 「満州国」建国前夜の中国東北部におけるケシ政策の様子


第1節 満州社会に浸透するケシ栽培とアヘン

3 (〜1930)中国東北地方各地のケシ栽培の様子

●アヘン解禁がもたらした災い

 第二次アヘン戦争後、中国でアヘンが事実上解禁されるとケシの栽培も驚異的な速さで広がった 。それに歩調をあわせるようにアヘン吸飲の習慣は民衆から官吏まで広がった。アヘンの広がりがもたらす問題は官吏のアヘン吸飲による政治腐敗と、各個人の健康問題だけにとどまらず、国家レベルで深刻なアヘン禍がもたらされた。
 それはまず物価の上昇と実質上の増税という経済面で表出した。多額なアヘンの輸入による銀の国外流出が中国国内で銀と銅銭の交換レートを狂わせた。当時の中国では、民衆は普段の生活の金銭のやり取りには銅銭を利用し、納税や貿易などは銀を使う経済だった。民衆は納税の際は、手持ちの銅銭を銀に変えて銀納をしていた。それゆえに、銀の価値が高まり、相対的に銅銭の価値が下がるいわゆる「銀貴銭賎」の状態は、民衆にとって物価上昇と増税という形でのしかかってきて、人々は生活の根幹を揺るがされることになった。
 それだけなく、食糧生産の減少という問題も噴出してきた。国外からのアヘン輸入は高額になるため、自前でケシからアヘンを作ることを考えたのは必然の流れである。しかし、特に労働力などの補充を行わずに限られた労力と土地をケシの栽培という形で裂くと、どこかでしわ寄せが必ず来る。それが食糧不足という形で現れ、大きな社会問題となった。

●進まぬアヘン禁止運動

 歴代の為政者にとって、この事態を収拾して国家を安定させることがバトンのように課題として続けられた。そのため、清朝と民国政府はそれぞれアヘン根絶に向けたアヘン禁止運動(以下、禁煙運動と表記する。中国では禁煙といえば、タバコのほかにアヘンを禁止することも指す)をすすめた。
 清朝は1906年に10年以内に「輸入・国産アヘンの害を徹底的に根絶する 」ことを目的に「禁煙章程十条」を出し、禁煙のための各種法律を出した。同じく中華民国時代には孫文が1912年に禁煙令を出すなど、中央政府はアヘン禍の沈静化に躍起になっていた。それに呼応して地方でも禁煙を行おうとする者が現われた。その一人が清末の東三省の総督の趙尓巽であって、アヘンの断禁政策の遂行を強行した。しかしながら、地方によっては禁煙令を逆手にとって、アヘンを公認するような政策を展開する地方があるなど各地で政策に温度差があった。例えば、ケシ栽培に対する罰と称してケシ栽培税をとることで栽培を認めていたり、アヘンに関わる税収をさまざまな口実で得ようとするなどして、一向に禁煙は進まなかった。
 清朝や民国政府の禁煙が進まなかった最大の理由は、既に各種の商業にアヘンが商品として浸透しており、しかもアヘンの吸喫者が既にたくさんいたことだ。つまり、当時既に人々の中でアヘンが生活の一部となっていたためにただ禁止していきなり取り去るということは困難だったからだ。それゆえに、ケシを綿花や藍に植え替える など、長期的なビジョンを持った対策のしっかりととられた切り替え政策ならば、アヘンの禁絶に成功したという例も報告されている 。
 辛亥革命が袁世凱に敗れ、袁世凱の求心力も低下すると中央政府の力は低下し、中国各地で軍閥が割拠する時代となった。そうなるとアヘンの取り締まりはよりいっそう困難になるだけでなく、軍閥はここぞとばかりにアヘンを収入源として利用したために、ケシの栽培が拡大した。ところが、各地の有力者がアヘンを財源にしたのは何もこの時代から始まったことではなく、「禁煙章程十条」を出した清の時代には、すでに「禁煙を行うためには、アヘン税に代わる財源を渡すこと」と指摘されているため、地方がアヘンを重要な財源とみなしていることは清朝の時代には始まっており、「ケシ栽培=財源」という方程式が定着していることがわかる。

●満州各地のケシ栽培の様子

 ではこの時代の、満州でのケシ栽培の状況を追ってゆく。「馬賊とケシは満州の花」という言葉がある。その言葉通り、満州では1906年の禁煙政策をすり抜け、ケシの栽培が大々的に行われていた。しかし、ひとくちに満州といっても広く、場所によって政府の影響力や、栽培される気候条件が必ずしも同じではなく、それぞれ事情が異なっているために、それぞれの地域に分けて紹介する。

 ⇒満州南部 熱河
 南満は北京に近く、歴史的に比較的早く開けていたが、土地能力は北満に比べて劣っていた。特に熱河の土地条件は農業条件的に厳しい。漢民族が中国東北部に進出するにつれて、樹木が伐採されたため禿山が多く、風雨のため土壌は洗い流されて地表は荒廃するに任せる状態であった。遊牧地が広がり、気象は大陸高原性で昼夜の寒暖の差が激しく、雨が少ない上に霜も早く降りる 。そのような厳しい条件の中 で、「園地」という熱河特有の菜園が発達した。「園地」とは、水が乏しい熱河で灌漑用の井戸を中心に地下2〜3尺にほり下げ、周囲に高さ6〜7尺の土塀を築いて作られた菜園である。そこでは発芽を促進するために土塀が厳しい風を防いで温度を保ち、同時に家畜の侵入も防がれた 。「園地」は主に高粱や白菜など蔬菜の栽培地として発展してきた。
 熱河のケシ栽培の解禁は1921年である。熱河都統の姜桂題が軍費捻出のために解禁すると、歴代の都統も財政を維持するためにケシ栽培を継続した。熱河でケシの栽培が進んだ理由は、アヘンが全国から集積する平津(北平と天津)市場に近いことに加え、南隣の華北ではアヘンの栽培厳禁であるという政治的な理由があるからである。それゆえに、農民は軍閥からたとえ高額な栽培税をとられたとしても、引き手あまたな市場が近辺にあったために十分な利益が確保できた。平津市場でアヘンの取引がさかんだったのは、物資の集積地であっただけでなく、消費地ととしての面もある。中央政府のお膝下でアヘンを強く禁止したにも関わらず、その地方のアヘン吸引の習慣残ったのは後に詳しく述べる関東庁の密売アヘンの影響である。
 しかし何といっても南満の厳しい農業条件では、通常の農作物を育てるよりはどうしても換金性の高いケシ栽培に頼りやすくなってしまうだろう。もちろん、その土地の為政者としても多額の税収を手に入れるために、ケシ栽培を奨励したほうが好都合だったに違い無い。

 ⇒満州西部 内蒙古 綏遠
 南満と同じく平津市場を利用する綏遠は辺境の地であることを利用して、栽培技術が低いながらもケシの栽培が続いた地域であった。綏遠の農民は旱魃や匪賊の襲来で生活が困難になると、「毒で腹を満たして渇きをしのぐ」と形容されるほど、もはやケシに頼らないと生存すら危ぶまれるまで追い込まれた 。ケシ栽培を続けた綏遠は昭和10年代にはほぼブランド化して、ここのアヘンは「綏遠阿片」と呼ばれるほど隆盛をみせた 。このアヘンはヘロインやモルヒネの製造のために、当時世界で有数のアヘン麻薬製造所であった天津に送られた。当時、ヘロインやモルヒネといった麻薬の原料であるケシの主な産地はペルシャ(イラン)と中国であったので、天津や上海には世界から注文が集まった 。
 後に、「満州国」が専売のためのアヘンを確保するために、難波経一が天津までアヘンを買い付けにいったことからも、天津のアヘンの集積ぶりを窺うことができる。

 ⇒満州北部 松花江流域
 また、黒龍江省の山間部と吉林省の松花江流域も、山東からの流民や出稼ぎ農民を労働力としたケシ栽培が盛んであった。その様子は1898年のウラジオストク貿易事務官の報告に、「ケシはすでに満州の重要物産のひとつであり、アヘンの吸引者も日を追って増えている」とあるほど、目覚しいものだった 。また、この地域は清の時代より帝政ロシアの南下政策の脅威にさらされていた。帝政ロシアは、ウラジオストクやベイリーに散在する河北や山東の流民を募集して、ウスリー江の沿岸でケシの栽培を始めた。そのときのケシ栽培とアヘン取引が盛んだった様子を当時の文献から引用すると
 「ここは人家がまれで、地方政府の管理も厳しくない辺境の地なのでアヘンの重要な産地とした。1908年以後、毎年ウラジオストク、ハルビンを経由して来る山東華北と遼南の流民が2万人以上に達し、この地方が次第と発達しにぎわってくると、ロシア商人に手厚い財源をもたらし、商人はここで生産されたアヘンを安い価格で収買し、また国際市場で売って高額の利潤を得た。1920年ころになって、ここのケシ栽培は8万4000畝に達し、年間産出量は170万余両に達した。このアヘン収入は半分以上が商人の手を経てロシアに流れ、残りがわが国に流れて来る。この後、1937年の、『九・一八事変(満州事変)』の前になるまで、この地区のアヘン栽培面積は12万畝以上に達し、この量は減るどころか増えた 」。
 ここからも水路を利用して、天津の市場に輸送されていることが読み取れる。市場が近いこと以外に、この地に栽培するもうひとつの利点は、たとえ中国側の官憲が取り締まりに来ても農民はたやすくロシア側の国境線を越えられ、摘発されにくいことである 。なお、帝政ロシアは南下のための基地とするため、ケシだけではなく小麦を入手する労働力しても、中国人を利用してこの地方の開墾を進めた。


 以上をまとめると、気象条件や為政者が違えども、「平津市場に向けて生産されたアヘン」であることと「土地土地の為政者が財源としてケシを利用した」ということは共通しており、それが満州でのケシ栽培とアヘン生産を支えた理由ということができる。


 

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