第一章 「満州国」建国前夜の中国東北部におけるケシ政策の様子


第2節 満州に蔓延するケシ栽培

 1 馬賊とアヘン

●「良馬」と「新車」と「アヘン」

 アヘンはその当時は流行りで現代的なものとみなされ、来客があればまずおもてなしとしてアヘンが出された 。コーヒーや紅茶のような感覚だったのだろうか。戦後の日本では三種の神器や3Cなどと言われた家電などの持ち物が、いわばステータスシンボルのように扱われた。それと同じように、このときのお金持ちの条件として三つの条件が挙げられた。それは「よい馬に乗り」「新車を持ち」「アヘンを吸うこと」である。アヘンを吸うことが富裕層のシンボルであったのは現在の日本から見れば驚くべきことだが、現在の感覚では高級タバコを揺らすか、ドンペリを飲むのと同じ感覚なのかもしれない。
 この習慣は中国人だけにとどまらず、満州に来て久しい他国の外交官もまたアヘン中毒に侵されて「芙蓉癖にかかった」といわれた。ここからアヘン吸飲が習慣と化して、一文化となってしまった様子を窺うことができる。

●馬賊の定義

 満州をはじめ中国東北地方で活動する武装勢力である馬賊も、またアヘンと非常に強いつながりがあった。日本の馬賊観は非常に曖昧なもので、映画に登場するような満州を駆け巡る自由奔放な集団から、時に単なる野盗・山賊と同程度の扱いを受ける。当時の書物にも「小規模かつ稚拙な略奪技術しか持たない集団」や「山間部を頭目以下全員が徒歩で移動しているもの」まで馬賊としていることもあったという。
 まず、馬賊というものを定義しよう。馬賊をただ単に「馬匹に乗った匪賊」と定義してしまうと、森林が深く土地が肥沃でしかも官憲の目が届きにくい東三省に古くから居ついた「馬匪」と呼ばれるものと、区別がつかなくなる 。澁谷由里氏の定義を参考にすると、略奪、放火、暴行、破壊、誘拐、脅迫を行なう「胡子」などと呼ばれる匪賊の中のカテゴリに属する一つの特徴を持った勢力が、馬賊であるという。その上「頭目・副頭目は騎馬であること」であって「武装自衛集団であること」であることが、馬賊であると定義している。今後小稿で馬賊と述べる場合は、この条件を満たしている者のみをいうので悪しからずご了承いただきたい。
 満州にはあちらこちらに略奪活動を行なう匪賊がおり、必然的に土地の有力者たちは管轄内での略奪活動などを防ぐために独自の自衛の手段を必要とした。馬賊の定義に「武装自衛集団である」ということがあるのには実は大きな意味がある。有力者は土地を守ってもらうことの見返りとして、馬賊に資金提供と身を隠すための活動基盤を与えたのだ。馬賊は強力なスポンサーを得て、与えられた土地を基盤に勢力の拡大と、略奪した物資の管理を行なって勢力を拡大した。馬賊はその土地に住む者と協力関係を築き、馬賊は基盤を手に入れた代わりに物資を安く融通するともあっただろう 。
 また、馬賊も独自財源としてアヘンに一目おいていた。アヘンを確実にものにするために管轄する土地の農民に対して安全を確保して、ケシの栽培を許可した。その代わり、未許可のケシ栽培は許さないなど、馬賊がその土地を実質的に支配する小軍閥のような役割を担うようになった 。満州の人々は馬賊の襲来を恐れると同時に、馬賊と共存共栄する道を探り、馬賊はアヘンをもとに独自の道を歩み始め、中国東北部に馬賊の時代が到来する。張作霖はそのような中で出現し、台頭することになる。

●馬賊・張作霖

 馬賊が武装自衛集団であることの意味を、張作霖が馬賊になりたてだったときを例に見てみよう。日清戦争の退役軍人であった張作霖は、地元の声望家の趙占元に戦功を見込まれて、娘を娶るだけではなく、趙は自らの保安隊として張作霖を抜擢した。張作霖の保安隊、すなわち自衛集団の仕事は土地を守ることだが、彼らの最初の仕事は、原則として約1ヘクタールにつき銀一両で引き受け、趙家廟を中心に付近七ヵ村を担当したといわれる。その一方で彼らは「保険料」を受領していない地域では匪賊と同様に、略奪、暴行、放火、誘拐などの犯罪行為を展開した。彼らは「馬賊」であるが、時に匪賊と混同される理由はそこにあった。
 すなわち、馬賊は一定の活動拠点を有して、有力者や住民と密接な関係を形成しているため、山塞や水塞を根城にするただのアウトローな盗賊像とは性格を異にしている。また、馬賊は武力自衛集団として各地方の有力者に雇われているので、賃金や武力によって解雇の危険をはらんでいる。しかしながら、実績を重ねて多くの土地有力者から土地を任され、管轄する土地が多くなれば多くなるほど馬賊の勢力の増強に直結する。そのため、馬賊同士で勢力を確保するために縄張り争いをしたり、力を示すために雇い主である有力者に功績を示そうとしたりした。私が思うに、馬賊は自衛武装集団であるので、もともと馬賊ではなかったその土地の人間も、食い扶持を得るために積極的に馬賊に入ったことだろう。また、馬賊だったものが閑散期、あるいは病気やけが、頭目との反目などの理由で匪賊や馬賊稼業をしていない時には、次の呼び口がかかるまで行商人や労働者になったり、宿屋や食堂などのサービス業で臨時雇いの口を探したり、地主に雇われて力仕事その他家事・雑用をしたり、技能があれば職人として生活したり、賭博で生計を立てたりさまざまだっただろう。このようなことがあったので、民衆と馬賊との垣根は低く、協力関係の構築や仕事の鞍替えもそんなに困難なことではなかっただろう。

●アヘンと軍隊

 馬賊にとってアヘンは換金して運営資金を得るためのものであるため、現金と同程度の価値を持った非常に重要な物資だった。また、現在でもモルヒネがは医療で使われているように、馬賊はアヘンを時に医療用にも使った。その例として、足を弾丸によって折られた者の足に包帯を巻いて、その上に幅3センチ、長さ15センチほどの板切れを3枚、骨の折れている部分にあてがって、その上にまた包帯を施し、小指の頭ほどに丸めたアヘンを飲ませ、さらにアヘンを吸わせた ところ、うめき声も出さなくなり、翌日の軍の引き上げも彼は遅れをとらず山をのぼって移動したということがあったそうだ。戦場では衛生兵が負傷兵にモルヒネを与えることで、痛みから引き起こされる体力消耗を防ぐ処置が行なわれている。この実例はそれと同じ効果を狙ってのことで、麻酔の医薬としてアヘンが馬賊の間で利用されていたことを知る好例である。
 その他の使用例としてアヘンは褒章として賞与されたり、戦場に向かう前の兵士の士気を高揚させるためや休憩の時にも与えられ消費された。アヘンを兵士に積極的に与えた例として、東北軍閥出身の張宋昌の部隊は「双槍部隊」と呼ばれていた。そう呼ばれるには少し笑える理由がある。例えば十字軍が「右手に槍、左手に聖書」と敬虔な戦士の姿が表現されるが、「張宋昌・双槍部隊」は「右手に槍、左手にはアヘンキセル」を持っている姿を指して両手に槍というユーモアを利かせたネーミングになっている。この双槍部隊はアヘン中毒の症状が比較的軽いうちはアヘンの効果で忘我状態になるために、正気では考えられないほど果敢に攻撃を仕掛けたために「常勝部隊」と呼ばれた。しかしアヘンの毒は確実に兵士の体を蝕み、最終的には戦うどころではなくなって「烏合の衆」となるまでに落ちぶれたという笑うに笑えないエピソードが残っている。

●馬賊はアヘン王国の憲兵隊

 話を少し戻そう。矢萩富橘氏は著書で「「阿片=馬賊=森林=需要」の関係を絶たないと、阿片の王国は安全といわざるを得ない」と指摘している。満州を「阿片の王国」たらしめているのは、そもそもアヘンがあるためであり、それを保護する馬賊がいて、ケシの栽培及び馬賊や匪賊を隠す森林が豊富で、なんと言っても大市場が近くにあるためだ。言い換えれば、「阿片の王国」が瓦解するということは、アヘンの存在がしないことはいうまでもなく、馬賊がいなくなれば治安は安定して取締りがしやすくなり、森林がなくなれば密栽培を行えるような場所がなくなり、需要がなくなれば工芸作物であるアヘン栽培の意味がなくなる。ところが実情は、満州は阿片、馬賊、森林、需要と4拍子そろっており、立派な「阿片王国」といわざるを得ない状況だった。
 保険区で強固な武力と活動基盤を持った馬賊がアヘンの取引とケシの密栽培しているので、それを上回る軍事または経済的なパワーでなければその土地でのアヘン栽培を止めることは無理だろう。馬賊の資金源は、前述のようにアヘンの取引で手に入れるものと、有力者から武装自衛団として雇われるものとで収入を得ていた。馬賊はもちろん各地に存在し、それぞれが勢力を拡大するために日夜軍事的な抗争や交渉を重ねていた。そのためには軍事費はどれだけあっても足りなかったことだろう。需要は引き手数多である、作ればばたちまち売れるアヘンを馬賊が積極的に保護し、奨励したことは想像に易い。馬賊のスポンサーである満州各地の有力者もアヘンを財源にしていたことはまた想像に易い。彼らはその土地を馬賊に守らせたのであるから、馬賊はアヘン王国の憲兵隊と言っても言い過ぎではないだろう。
 付け加えるなら、「満州国」が成立した後でも「満州国」官憲の影響力の及ばなかった場所では、政治は馬賊の自由裁量によって行われた。彼らは唯一の営利事業として、夏季にケシの栽培から利益を得ていたという 。満州で馬賊がその土地の実権を握っていて、それが公然の事実となっていたことを知る好例である。即ち、馬賊はこのような経緯をたどって、一大軍閥となる力を蓄えてきたのである。

●満州第一的作物

 アヘンのもたらす経済効果はすさまじく、ひとつの寒村にすぎなかった村を大きな町へと変貌させる力がある。奉天省の安図県を例にすると、はじめは数十戸にすぎない部落であったのが、アヘンの取引がはじまるとまたたく間に四百戸まで成長した。アヘンの収穫期には、買い付けに来る商人だけでなく、それを目当てに劇団が吉林や奉天方面から来るだけでなく、遊女も多数集まってきて、まさにお祭り騒ぎの様子を見せた。
 ケシの栽培が農民にどの程度の収益をもたらしたのだろうか。当地の単位を使って申し訳ないが、大体約五千[土向](一[土向]は六反四畝)で収入は四百万円を上下していたといわれる。ちなみにこれは大正年末間の推算であって、現在に換算するともっと多額になるだろう。この数字はその地方の作物である小麦、材木、大豆の収入を遥かに上回っていた 。アヘンは満州にとって「特別な農作物」であり、満州を代表し国際的な作物であった大豆を遥かにしのぐ「第一の作物」となっていた。アヘンは間違いなく満州の経済の一部を担っていた。そして、アヘンその高い換金性と高い需要で華北でも実質的に通貨として扱われるほどの信頼性を確立していくまでになる 。いわば、貴金属とおなじような扱いを受けることになる。そうなったのは「阿片王国」を支えた馬賊の力のなすところが大きいといえるだろう。


 

  前に 戻る 次に