第一章 「満州国」建国前夜の中国東北部におけるケシ政策の様子


第2節 満州に蔓延するケシ栽培

2 ケシ栽培が支える軍閥の財政

●揺らぐ中央政府とケシ栽培が進む地方政府

 繰り返しになるが、清朝が禁煙章程を出したときには諸省では既にアヘン税が主要な財源となっていて、地方官が禁煙を実行しようにも、代替財源の確保が困難という状況で実現は不可能だった。その後の禁煙運動によってある程度は取締りが進んだが、ケシの栽培の習慣は暗に残ってひそかに続けられた。辛亥革命の頓挫によって軍閥割拠の時代になると、今まで存在していたアヘン禁止令は空文化した。中央政府は求心力を失って軍閥を取り締まることが困難になり、軍閥は独自の道を歩むためにケシの栽培あるいは、アヘンの取引きに財源を見出すことになる。
 中央政府は違法なケシの栽培を律すべき立場にあるにもかかわらず、窮乏のあまりかそれとも現実に合わせようとしたのか、中央政府ですらアヘンの取り扱いを行おうとした。これに対して拒毒会という禁煙の運動を推進する団体はこのような中央政府の政策を強く批判した。拒毒会は政府内務部が議会で提案した禁煙案を「お役所文書で、具体的な全く計画がない」と切り捨て、地方各軍閥がケシを栽培しアヘン取引をしているのを中央政府は放任しているどころか、それを研究して専売の準備を進めていると糾弾している。中央がこのような様子であるので、軍閥は何はばかることなくアヘンに手を伸ばした。

●全国にはびこる黒色恐怖

 ケシの栽培地として著名であった陝西省では小軍閥が割拠し、それぞれの区域でケシの強制栽培を行っていた 。この項では満州国と似て工芸作物を育て貨幣経済が浸透している陝西省を取り上げる。1920年代に入ると、軍閥はケシ栽培から収益を上げると同時にアヘン税を取り立てた。アヘンの被害は黒色恐怖と呼ばれ、中国に農業生産力の衰退と農民破産をもたらした。陝西省では清末期アヘンと綿花が基幹作物であったが、満州と違って中央政府の力がおよびやすく禁煙は比較的よく進んだのだろう。辛亥革命を境に、軍閥の指揮のもとでケシ栽培はより収益の高い綿花の栽培へと代わって行った。ところが、北京政府が国民資産保護のために1922年に綿花の輸出を禁じたことから綿の価格が低下して綿では財政が維持できなくなった。軍閥は財政を維持するために禁止されているはずのケシの栽培を解禁した。比較的アヘンがおさまっていた陝西省でもこの有様であるので、中央政府の力が及びにくい辺境の様子は推して知るべしである。

●国内アヘン戦争の勃発

 アヘンは豆、麦、綿などの作物に比較して容積あたりの利益が大きくてしかも腐敗せず、銀と同じ価値で扱われている。とりわけ鉄道など大量輸送手段を持たない軍閥は、持ち運びが容易でしかも大きな利益の上げることのできるアヘンに目をつけないはずが無かった。アヘンの取引で得た資金は占領地の拡大のための軍事力の増強に充てられ、各地で軍閥同士がアヘン税の入手とアヘン販売権を得るために、土地の支配権を巡ってを争った。
 天津と上海は当時、世界最大級のアヘン市場だった。上海市場の覇権を巡って1925年の浙奉戦争が発生した。上海の市場に「西土」と呼ばれる熱河アヘンをもたらして利益を得た山東の軍閥にして、「双槍部隊」を有していた張宋昌と、それと対立する孫伝芳の戦いである。この争いは最大の市場を巡って、強大な軍閥同士がぶつかりあったために「国内アヘン戦争」と呼ばれた 。このように販売権を巡る争いは、一地方のみに収まるレベルの話ではなく、強大な軍閥を背後に、実に大きな広がりのもとでおこなわれていたことがわかる。

●唯一の生命線

 1926年にはアヘン税が「各部隊唯一託命之法」と言われるほどまでに、財政のウエイトを占めるようになった。いったんアヘンが解禁されると、ケシ栽培の勢いは留まることを知らず、福建では2000万元の軍費がすべてアヘン税に依拠する状態といわれ、陝西、雲南、四川、貴州、福建、湖南、河南、安徽、湖北、甘粛などの主要各省がアヘン税に財政を依存している状態であった。もはやアヘン無しでは政権の維持すら厳しく、アヘンに命運を託しているといっても過言ではない。

●泥沼にはまるアヘン政策

 次に軍閥が設置したアヘン税について述べたいが、アヘン税は名前を変えながら多種多様に存在するため、ここで全てを網羅することは不可能なので、代表的なものを紹介していく。
 まずは、ケシ栽培を奨励する税でケシ栽培を行っていようがいまいが、土地面積単位で徴収する「指煙借款」「煙畝派款」「善後専款」。アヘンの運搬、販売税として1000両ごとに100元徴収する「剿匪」。アヘン吸飲証明書を発行するための「灯税」 。アヘン商人がアヘンの取引き1両につき1角を納める「印花税」 。このように様々な形でアヘンに関する収入を得ようと躍起になった様子が伺えるが、中国は表向き禁煙を旨としていたので、上述のように税の名目にアヘンという名前を隠している。だから税収も公然としては行われず、秘密裏に賄賂のような形で行われるケースもあった 。
 ここで軍閥は実にうまいシステムを考え付く。それは昨年の実績をもとに同程度の税金を前もって課しておくというものである。そうすると栽培しなかった農家への罰としての効果だけではなく、栽培面積の維持にも役に立つ。農民としては、出来高に関係しないために決して栽培面積を減らすができない 。もちろん金額を高めに設定すれば、栽培面積を増やすこともできた。
 このように軍閥がケシの栽培をほしいままにしてたためにケシ栽培は拡大し、アヘンの流通量は増加した。そのためにアヘンの価格は暴落し、陝西省では1920年から24年の間で価格は10分の1まで低下した。結果アヘンは民衆にまで広くいきわたり、アヘン吸飲の習慣が広がることとなった。2007年現在、まさにアフガニスタンがこのような状況にあるのではないかと、私は危惧している。このような事態を引き起こしたのも、財政をアヘンに頼り、アヘンを積極的に進めて真っ当な経済発展をしようとしなかったためであろう。底なし沼のような状況に、中国全体がはまりつつあった。

 

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