第一章 「満州国」建国前夜の中国東北部におけるケシ政策の様子


第2節 満州に蔓延するケシ栽培

3 熱河の湯玉麟 〜ある軍閥のケシ栽培拡大政策〜


●熱河都統・湯玉麟

 先に述べたように熱河では軍費等の経費を捻出するため、1921年に熱河都統の姜桂題がケシ栽培を解禁した。ケシの栽培の解禁とはその土地の支配者がケシ栽培を公認する代わりに税金をかけることを意味し、熱河の都統はこの方針を代々継承してきた。とりわけ1926年に熱河都統に就任した湯玉麟政権はケシ栽培の拡大政策を推進した 。湯政権になってから熱河の栽培面積は増加し、熱河は満州や平津の市場にアヘンを出荷する中国でも屈指の生産地となった 。そのため「満州国」が成立すると、熱河はアヘン目当てに関東軍などからマークされることになる。
 まず湯玉麟の経歴について述べよう。彼は土黙特旗出身のモンゴル人で漢民族に牧草地を奪われると「馬賊」になり 、張作霖の初期からの250人の配下のうちの一人に加わる。バブジャブと抗争したり、張作霖の娘を背負って奮戦するなど張作霖の信頼厚く、1926年から熱河の統治を任される。しかしながら、アヘン吸飲と賭博と売春に明け暮れて圧政をしいたと言われる。彼を弁護するわけではないが、いかにも馬賊出身らしい放埓な性格であったのだろう 。彼は関東軍が熱河作戦を展開して熱河が「満州国」に組み込まれる1933年まで、熱河に君臨することになる。

●増税と栽培面積拡大を進める湯政権

 「ケシ栽培の拡大の第一の原因は、軍閥の悪辣な強制栽培にあり 」と指摘されているが、湯政権も強制栽培を行った。熱河ではケシの栽培面積に応じて税金がかけられており、栽培面積の拡大はそのまま政権の税収の増大につながった。湯が着任する1925年までは、「禁煙罰款」と称してケシを栽培する土地1畝につき6元徴収したが、湯政権になるとそれに1畝3元の禁地印花税を加えて、1畝9元と増税した 。しかしこの政策はただの増税にすぎない。このとき、農民にとってメリットになる大きな政策がとられなかった上に、アヘンの収穫に失敗するか、ケシの栽培が不作であった場合を考えると、この増税は農民にとってリスクのみが増えた結果になり、控えようとは思っても好んで栽培しようと思わなくなるのは当然だろう。

●ケシ栽培面積拡大の責務を担った禁煙総局

 そこで湯は27年に減税と同時に栽培面積拡大のための組織を作り、栽培面積を増加させようとした。まず禁地印花税を廃止し、さらに禁煙罰款を7元として2元の減税を行って、栽培の促進を図った。そして禁煙総局を承徳に設置し栽培を奨励、監督する機関した。禁煙総局の下部組織である禁煙分局を各地に設置した上で、県長を分局長、公安局長を副分局長としてそれぞれ任命して巨大な組織を作った 。禁煙と銘うってあるのは、ケシの栽培を統制することで最終的にはアヘンの根絶を目指すという「たてまえ」のためである。当時、中国禁煙と銘打って罰金や税金を徴収することが多く、それが財政上の大きなウエイトを占めていた。この「禁煙」総局も税金である「禁煙」罰款も例外ではなく、たてまえのためにつけられた名前である。
 さて、その組織の実態は、単なる徴税機関だけではなく、湯政権の中央部と地方行政機構が連携して、各地にきめ細かく栽培のノルマ(以下「比額」)を割り当てる機関であった。実際の働きは4段階に分けられる。最初に禁煙総局が毎年各県ごとにに「比額」という栽培面積のノルマを割り当てることから始まる。次にその「比額」を受けて各県にある分局は、県下の村落に栽培面積を割りふり、それを受けて村落の保甲長が各栽培農家に最終的に割り当てる。第三段階として、農民が播種を終えると保甲長が播種面積を県分局にまとめて報告する。最後に、報告を受けた県が調査員を派遣して実際の播種面積と合致しているかを確認、その上で禁煙総局が各県に検査員を派遣して報告された面積(以下、実在畝数)を確認した後に、実際畝数にもとづいて県の分局の責任で、保甲長が農家から禁煙罰款を徴収。県の分局を通じて禁煙総局に納入させる仕組みだった。また、ノルマである「比額」に達しなければ、達成の程度に応じて増税し、来期は「比額」に達するように仕向ける策も採られた 。

●奨励金を設けても…

 湯政権最初の年であった26年度の失敗は、ケシ栽培政策が増税のみで振興策がとられなかったことに原因がもとめられる。それに対し27年からは「比額」に応じた奨励金および増税のシステムがとられるようになった。割り当てられた「比額」よりも実在畝数、すなわち徴税可能な土地が1割多ければ罰款徴収額の10%が支給された。更に実在畝数が1割増えるごとに10%を加算して県分局に地方の財源として還元し、地方の協力を仰ごうとした。
 「比額」をきめ細やかに割り当ててノルマを農家ごとに詳細に設け、そのための奨励金を提示した。しかしその初年度の27年は、いかんせん「比額」が大きすぎ、7470ヘクタールの「比額」に対し、実在畝数は僅か2753ヘクタールと目標の37%にも達しなかった。28年は更に奨励金の増加という手厚い奨励策をとった。実在畝数が比額より1割増の場合は還元される罰款徴収額は30%、2割増の場合は40%、3割以上であると50%の支給と、前年度より大きな奨励金を餌に栽培面積の増加を狙った。しかし奨励金を払う額をできるだけ抑えようとしてか、「比額」を昨年度よりさらに上回る9620ヘクタールとしたため、協力をあおげなかったのだろうか、実在畝数は昨年度よりもさらに低下して2110ヘクタールとなって、実に「比額」の22%で税収は前年度比25%減と惨たる結果に終わった。
 なぜここまで成果が上がらなかったのだろうか。31年の実在畝数が5882ヘクタールであることから考えても、2500ヘクタール前後が熱河全体の栽培の限界であったとは考えづらい。禁煙罰款を徴収できるケシ栽培地がこの程度にとどまったのには、労働力とケシの栽培に向く土地の少なさという問題そして、実在畝数を調べて報告する役人の不正という大きな二つの問題があった。1927年から1932年の湯政権下のケシ栽培の成績を下表の表―1に示す。

表―1 湯政権下のアヘン政策推移表

年次 比額(頃) A 実在畝数(頃) B 増減(頃) B/A 禁煙罰款 C
正税額(付加税)
印花税
出境税
推定禁煙罰款
徴収額 C×B
1927
1928
1929
1930
1931
1932
7470
9620
6030
4680
5310
7250
2753
2110
3287
4768
5882
3048
▼4717
▼7510
▼2743
△88
△572
▼4202
37%
22%
55%
102%
111%
42%
7元
7元
9元
9元
9元2角
10元
印花税 出境税 2角/元
印花税廃止
双方廃止
出境税再徴収
再び廃止
双方徴収せず
193万元
148万元
296万元
429万元
529万元
305万元


 山田豪一『満州国の阿片専売』p.390をもとに作成
※頃はヘクタールを示す中国語

●ケシ栽培を広げられない農民事情

 ところで実際にケシを栽培するのは農民である。ケシの栽培が大きな利益をもたらすことは間違いなかったが、栽培面積に比例してかかる税金と痩せた土地、そして労働力の不足がケシ栽培の増加に待ったをかけた。
 熱河の農民は生活ケシを栽培のみで生計をたてていたわけではなく、自らを養う食料も作って生活をしていた。ここで問題になるのは熱河の痩せた土地事情である。痩せた土地では同じ作物を同じ方法で栽培しても、豊かな土地のそれに及ばない。熱河では栽培面積に応じて税金がかかってくるが、日本の太閤検地とは違って土地の地力は一切税金に考慮に入れていない。土地が痩せていようが肥えていようが税金は同じである。どこで栽培しても同じなので、農民は決して安くない税金を払うならばと、ケシの栽培を行う土地はできるだけ肥えた土地を選んだ。参考までに、白菜や大根、あるいはタバコなど通常の作物を栽培した場合の利益を紹介すると、10元程度になるという。1畝あたり7ないし9元という禁煙罰款の高さがわかるだろう。
 熱河特有の農業事情として、先に述べたように灌漑の整った「園地」で農業が行われていた。そこは決して肥沃といえない上にさして広くもなく、その限られた中で自身を養う食材を作る必要があった。熱河の農家の一戸あたりの平均栽培面積は1934年1,37畝、1935年が1,25畝、1936年が1,37畝ときわめて小さいことが特徴である 。この「園地」以上に農地を持つことによる労力の増加を考えると、人々は農地拡大にj踏み出せずにいた。なぜなら、栽培地をあまりに増やすと一家でまかなえる農作業の許容範囲量を超えて、人を雇う必要が出てくる。そうすると人件費が発生するため、わずかな経済基盤しか持たない一般の農民はおよそ農地の拡大という冒険に出ることは難しかっただろう 。
 このような状況であったために、農民は単純に栽培面積を増やすということは難しかったといえる。それでも表−1のように年を追うごとに栽培地が増えていったのはアヘンの栽培に成功し、経営を拡大する農民が少しずつ増えていって、はじめは園地の中の傍らだった栽培から、だんだん栽培の不安定な乾燥地や水辺といった場所に進出したからだと推測できる 。

●脱税、横領、接待…利益を貪る役人

 役人の不正は歴史的につき物であって、現在も繰り返されている。「歴史は繰り返す」のだ。閑話休題、繰り返しになるが、実在畝数の確定にはまず分局が現地で調査し、後に禁煙総局が分局の調査面積が正しいかを直接調査して定めているように、多くの役人が関わっている。多くの役人が関わることで、地方と中央の連携が強固になるという利点はあるが、役人によっては不正を行うものがいた。朝陽県のある分局の管轄する地区の記録をもとに役人の不正を紹介しよう。
 熱河中央にある禁煙総局は各県に実在畝数の調査・確定のために初調査員、複調査員、特査員を派遣する。ところがこの数字がおよそ信用できるものではなかった。というのも彼らが地方で実地調査するために派遣されたときに、地方の役人は中央に収める税金を少なくするために実在畝数を少なめに報告させようとしてあの手この手を尽くして丸め込み買収した。この買収工作のときには毎回大洋1万元が使われ、一人ひとりの手に渡っていくお金は合計すると積もり積もって1千万元以上になるという。「毎年アヘンの収穫期になると、県長と公安局長が財を成すチャンスが来る」と言われた。今も昔も特権を持つ役人が肥える様は悲しいかな、変わらない。
 朝陽県のある地区のデータを下に、役人の不正を見ていこう。ここの禁煙罰款は1931年の時、1畝につき10.5元であり、湯政権が定めた禁煙罰款の9元2角より多い 。名目は農民は調査員の活動にかかる費用を負担するためであるが、その他にも実在畝数と禁煙罰款額を捏造し脱税することを狙って、激しい不正が行われていた様子が数値となって現われている。どれほど不正が行われ、中央へ納税を逃れて地方が脱税しようとしたか計算をしてみた、詳しくは下の表−2を参照していただきたい。
 表の説明をしよう。まず実在畝数を2400畝と偽って報告している。実際の栽培面積に比べると1600畝の差があるため、禁煙罰款の9元2角との積を行うことで14720元を脱税していることになる。そしてそこでは禁煙罰款を余計に1元3角徴収しているため、実際の栽培面積である4000畝との積を求めると5200元となって、合計すると19920元であって、正規の禁煙罰款とほぼ同じ程度の金額そっくり中央に納めずに脱税していることになる。
 こうして集められたアヘン税の収入は千余万元となるが、そこから警察や県役人、禁煙局などの役人たちが「甘い汁」を吸い取って残ったものがようやく省の財政に収まる。それでもアヘン税の収入は3〜400万を下らなかった。この様子は当時の人言葉を借りるなら「私は県長や警官の不正に至っては、僅かしか伝えることができないが、枚挙するときりがない」とすっかり慣習化してしまったせいか、お手上げの状況だった。このときはまだ熱河湯政権の影響力が小さかったせいだろうか、役人が役得により利益を貪り、中央の税収増大に全く協力的でなかった様子が伺える。

表−2 1931年の朝陽県のある地区の脱税額計算表

項目別 正規の場合(A) 朝陽県の分局 (B) 誤差 脱税額
禁煙罰款 9元2角/畝(a) 10元5角/畝(b) 1元3角/畝(c)
(b)-(a)
5,200元(i)
(c)×(e)
実在畝数 2,400畝(d) 4,000畝(e) 1,600畝(f)
(e)-(d)
14,720元(j)
(a)×(f)
禁煙罰款合計 22,080元※1(g)
(a)×(d)
42,000元(h)
(b)×(e)
19,920元
(h)-(g)
19,920元
(i)+(j)


 『日本鴉片侵華資料集(1895−1945)』p.276をもとに作成
※1 もしも4000畝と実在畝数を報告していたら、36800元が正規の禁煙罰款の合計である。

●湯政権の「アメとムチ」

 非協力的な地方に厳しい農業事情を抱える熱河であるが、劇的な変化が28年から31年の間に発生している。まず表−1戻っていただきたい。28年から31年の間に奨励金の増加をするどころか、逆に29年には禁煙罰款が1畝につき9元、31年には9元2角と増税すら起きているにも関わらず、実在畝数は29年が3287ヘクタール、30年には4768ヘクタール、そして31年には5882ヘクタールと急激な増加を見せている。32年こそ満州事変の混乱を受けて3048ヘクタールにとどまったが、確実に実在畝数は増加している。
 この変化を引き起こしたのは、「比額」の低下と、「比額を下回ってはいけない」いう厳命である。30年には比額を急激に下げて4680ヘクタールと奨励金を入手可能な範囲まで下げる政策転換も行われている。しかし、そのような小手先の政策が功を奏したというよりも、湯政権が安定期に入って地方からの支持が拡大したことが原因だろう。為政者が変わり、しかも禁煙総局という新たな試みがなされると、地方政府にとっては全面支持する前に「まず様子見」をしようという気持ちが働いたために協力的な態度をとれなかったのだろう。ところが、禁煙罰款で徴収された税金が結果的に中央政府の政策に活かされて、熱河全体の経済を潤していたことに気がつくと、地方には湯政権と禁煙総局に対してある種の信頼が芽生えた。地方にとっても敢えて不正を働き続けて懲罰を受けるよりは、懲罰を受けない程度に申請して湯政権に対して協力的な姿勢を示したほうが都合よくなったのだう。
 先に計算したように、地方にとってみれば禁煙罰款の数割という程度の奨励金よりも、不正を働いて得ることのできる金額のほうがはるかに莫大であったので、奨励金の制度だけ釣られたとは考えづらい。湯政権はアメとムチを使い分けた。アメが奨励金の増加なら、ムチは地方への締め付けの強化である。「ケシの栽培地が被害を受けた」と虚偽の報告をして税を免れようとした者が、調査を受けて罰せられるなど、禁煙総局が確固たる力をつけてきて、満州事変が起きるまでは順調にアヘン税の徴収は増加した。

●鴉片王国・熱河

 ところが湯政権下で、アヘンは制限されるどころか大いに生産・販売されて市場にあふれた。熱河は張作霖死後に湯玉麟を主席として半ば独立国化し、張作霖を次いで中国東北部第一の軍閥となった張学良は湯玉麟を放置したので独立王国化傾向はますます強まった。当然、国民政府が29年から行った蒋介石の禁煙政策にも、熱河湯政権まったく無関心でアヘンは野放し状態であった。「禁煙薬店」と書いてある店では禁煙どころかアヘンが販売され、「保運公司」というアヘンを北平、天津、遼寧各地に軍人が輸送することを保護する機関が公然と存在した。禁煙総局や禁煙分局の門前には7〜8人の軍人が待機しているという有様で、熱河ではアヘンの流通が官民上げて行われていた様子が見られる 。
 熱河は政府の指導のもとで、「アヘンの栽培」から「収買」と「市場流通」と「消費」の流れが作られ、アヘンの一大供給地の様相を示していた。また馬賊が根付き、国境線が近くて取締りが困難にして、平津市場という消費地が近いことだけでなく、半ば独立王国化して、中国中央政府の影響を受けにくかったので、「鴉片王国」と称されるまでになった。


 

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