序章 ケシと中国




 
戦前、日中アヘン戦争とも称されるアヘンをめぐる対立が起きていた。日本軍はかつて中国でアヘンを取り扱うことで、軍事費をまかなってきた。




 ●ケシの伝来

 アヘンの原料であるケシと中国の起源は古く、7世紀の唐王朝の時代にシルクロードから伝えられたことに始まる。ケシはシルクロードを通ってきた外来種で、非常に珍しいものであった。そのため、当時は一部の特権階級のものしかケシを直接見る機会が無かった。当時執筆された陳蔵器の『本草拾遺』にはケシの様子を伝聞系で書き記されている(嵩陽子の曰く、ケシの花には四葉、紅白ありて、上部は薄いピンク色なり。その嚢の形は鏑矢の如く、中に細米あり)。また、ケシは唐の時代より漢詩にも詠み残されている。雍湯の七言絶句「西帰出斜谷」には米嚢花という名称でケシが登場している 。

 ●ケシの薬用効果とアヘンの登場

 宋代にケシが民間に出回ると、華美すぎるケシの花は既に中国人に好まれるものではなくなっていた 。しかしその一方で食用・薬用としての役割は認められ、明の1592年に李時珍が著した『本草綱目』にはケシの薬効が種子や殻などの部位に分けられて紹介されている 。同書にはケシの項目に続いてアヘンと思われる「阿芙蓉」の項目がある。李はそれをケシから採取できるものだと書き残している。しかし本当に「阿芙蓉」はケシから採取されるものなのかどうかという点で李は疑問を呈していた 。
 即ち、李時珍の生きた明の時代では「阿芙蓉」こと、アヘンはあまり知られておらず、性質などもよくわからなかったと考えられる。アヘンの中国への流入時期は諸説あるが、これらのことから古来より中国とケシは関わりを持っていたことが見てとれる。どちらにしても、いったんアヘンが中国に流入したら、中国の発達した交通網によって、雲南から陝西、さらには東北三省と中国の東西南北隅々まで驚く速さで広がっていった。

 ●アヘン対策に追われる中国

 アヘンはどのようなルートで中国に入ったにしても、清代のはじめまでに高級嗜好品としての地位を確立したことは間違いない。増え続けるアヘン吸引者の増加に歯止めをかけるために清朝は1729年を皮切りにたびたびアヘン禁令を出した。しかし、禁令が出た当初は禁令を出した張本人である皇帝や、取り締まる巡撫ですらアヘンの性質を理解していなかったのが実情で、根本的な解決の手段を全く伴わない不十分な禁令となった。アヘンの氾濫は清朝にアヘン購入のための銀流出という経済破壊と、アヘンの栽培という農業破壊をもたらした。アヘンは中国にとって深刻な問題に発展し、アヘンが流入してからアヘン禁絶のために中国社会は共産党の毛沢東政権に至るまで数世紀にわたって戦いを続けることとなる。

 ●アヘン経済圏に進出する日本帝国

 中国に侵出する日本もアヘンに否応無く関わることになる。日本が台湾を獲得し、統治するにあたって台湾の既存のアヘン中毒者にアヘンを供給する必要が出てきた。そのため日本はアヘンの統制を行い専売政策によって多大な利益を得た。また中国東北部では日露戦争後に得た治外法権や関東都督府の機構を利用して、大陸進出の手段の一つとしてアヘン政策を展開した。これ以降、日本が大陸に侵出する際にアヘンは貴重な財源となった。
 当然このような行為はアヘンを規制した国際条約違反行為であって、日本は国際的な非難を避けることはできなかった。一例を挙げると、松岡洋右は1932年のジュネーブ国連会議のような国際会議の場で、アヘンに関する条約違反の責任を問われる立場に追い込まれた。結局日本は1931年の国際アヘン条約に批准しないまま戦争への道を歩み続けた。

 ●アヘンと「満州国」

 日本のアヘン政策の目的のひとつが軍事費の獲得である。中国東北部で満鉄を守るという名目で軍事活動を行っていた関東軍は、石原莞爾のように活動方針の点で日本の本国はおろか軍部とも対立することとが多かった。本国から離れ、軍事力を有する関東軍とはいえ、活動資金は国会の予算で承認されないと予算がおりない。そのために、本国の意にそぐわない軍事行動は起こせないので、もしも独自の行動がしたければ独自に財源を獲得する必要がでてくる。戦争ともなるとお金はどれだけあっても足りるものではない。アヘンは軍事費調達のために使われたのである。このような経緯があったため、満州事変によって誕生した「満州国」で、アヘン専売が行われると日本は再び厳しい国際的非難にさらされることになった。
 当然、「満州国」内でもアヘン専売に反対する動きが強まってきた。そのため「満州国」では1937年に禁煙会議が常設されたり、アヘン十年断禁政策が策定されたりした。「満州国」にとって、アヘン政策の運用は常に人道上の問題と背中合わせだった問題で、苦慮していただろう。しかしながら、ケシの栽培面積は拡大し続け、1942年に「満州国」は日本の興亜院から、蒙彊地区とあわせて南方諸島に向けのアヘンの生産地という重責を任されるまでの大生産地となるまでになった 。

 ●本論文の問題意識

 アヘンと中国との関係、日本とアヘン政策のあらすじは以上に述べたとおりである。「満州国」の成立は1932年の3月であるが、「満州国」の専売アヘンが出回りだしたのは33年の3月と、約一年間の準備期間がある 。この一年間の間に、満州で治外法権や関東庁の保護を受けて、アヘンをほしいままに売りさばいていた日本人や朝鮮人がいたが、彼らが満州政府の影響を受けない麻薬のフリーマーケットを形成して、満州での専売を難しくした。さらに専売のためのアヘンの供給源も、アヘンの中国への輸入を禁止する国際条約の枠組みの中にあって、国外からの非難が強まったためアヘンを海外に求めることに外務省が難色を示していた。また満州が大陸の中にあるというのも、水際で止めることを難しくし、麻薬の流入を巧妙な手口を使うことで容易にさせた。そのため、「満州国」によるアヘン統制は困難を極めた。このように「満州国」で政府が製造販売を管理するアヘン専売制度の開始には、多くの障害が立ちはだかっていた。
 「満州国」のアヘン専売開始の遅れは、「専売のため売り下げるアヘンの買い集めが困難であったこと」と、「機構設立の遅れ」、さらには「関東庁と『満州国』の対立」そして「『満州国』の前の支配体制、すなわち東北軍閥のアヘン政策の影響」に原因があるだろう。それは満州事変前の奉天の為政者である張作霖・張学良の父子のみならず、湯玉麟に代表される満州各地で勢力を持った各軍閥の影響が、「満州国」建国後もいきなり失われずに、人々の生活やアヘン取引の中に残ったと考えるのが自然だからだ。


 中国各地に浸透したアヘンは中国東北の満州にも根付いた。健康問題・経済問題が発生している裏で、大きな財源となるアヘンは官民問わずに利用された。特に満州では、武装集団である馬賊が積極的に利用すると、馬賊出身の軍閥たちも当然利用を続けることとなり、独自のアヘン政策を実施してきた。満州事変等によってそれらの勢力を駆逐して成立した「満州国」は、アヘン専売のために流通を完全に把握して、収買から払い下げといった機構を整えてアヘンを全て手中に抑えようとした。専売体制設立開始にあたって、東北政権や軍閥の影響が随所に見られる。そのため、まず「満州国」建設前のアヘンの様子について、満州という土地や馬賊を通じて明かした後に、専売アヘンを獲得して、専売にこぎつけていくまでの様子を検証してゆく。

 

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