2004年10月17日日曜日初稿

他者の像

他者の像とは

他者の像とはなんでしょう。流離い人の徒然日記では他人の像と書かれていますが、まぁ同じものでしょう。

2003年12月24日の日記では、うつし身と表現されています。他者の像とは、私の中にある(いる)、他者のイメージのことで、私が今までに見てきた、聞いてきた人々の人格のようなものです。勿論、視覚的なイメージ映像もありますが、見た目ではなく、もっと本質的に他者の像を他者の像たらしめている何かがあると思います。それが何なのかはまだ分かりません。ただ、他者の像が私の中にあるという感じがするだけです。

これがなんなのか分からない方は、例えば身近な人を思い浮かべて下さい。見た目、声、その他その人らしさ、性格、考え方などなど、よく知っている人なら浮かんでくるはずです。最近、その人は何か喋ったりしたでしょうか?そんな記憶もあると思います。

しかしながら、その人について浮かんでくるのは、過去の事実の記憶だけでしょうか。例えば、事実見ていないけれど、人づてに聞いたその人の言動など、あたかもその人が言っているような像が私には浮かんでくるのです。また、事実がなくても、私が想像の中で、その人と喋ることもできましょう。勿論、現実には喋っていないので、現実の他者と他者の像には多少のずれが存在します。

これが他人の像と私が呼んでいるものです。恐らくは心理学と精神医学、哲学あたりに関連する概念なのではないでしょうか。

人それぞれの他者の像

このように他者の像を考えれば、ある人物についての他者の像は、その人物を知っている人数だけあることになります。ある人のことについて会話するとき、各人多少のずれがあるのはこのためだと思います。その人について知れば知るほど、像は鮮明になりますが、それが現実と一致するかどうかは別問題であると思います。他者の像が鮮明でも一致しない場合、大抵の人は騙されたとか言うのでしょう。

他者との関係と他者の像

9月頃から、この他者の像は、関係によって変化するのではないかと思っています。関係の変化の例を挙げれば、結婚だとか、師弟関係だとか、その他にも色々とありますね。ここで注意するのは、客観的な関係の変化ではなく、主観的な関係の変化であるということだと思います。例えば、大学浪人して、友人と学年が変わっても、自身とその友人との関係に変化がなければ他者の像は変化しないと思います。しかし、その人との間柄に何らかの変化が現れれば、その人の像は変化してくると思います。つまり、他者の像は、他者にだけ依存するのではなく、他者との関係に依存するのではないかと思います。

他者の像については、今現在、私はこのように考えています。他者の像を超えたものについては、いまだ分かりません。パラレルな存在とは何なのか、それを他我といっていいのか、分かりません。私はまだそれをつかんでいません。