12月

12月11日

また日にちが空いてしまいました。最近休みが存在しません。実験レポートのせいで毎週徹夜する事になっているような…部活も一番忙しい時期ですね。13日に幹部交代稽古です。

我々はこれから最上級生になります。今までそれほど切迫感を感じていなかった者も、少しずつ気づいてきています。私はかなり早い段階から追い詰めら れていた(自分でもそうしてきたようにも思えるし、支部長引継ぎに関してもプレッシャーを与えられた)ので、まぁ感じていなかった人が感じはじめた事には うれしく思うのです。もう甘えは許されないでしょ?いつまでも、ただ楽しいから、ではやっていけないんだ。…まぁ別に部員の事はどうでもいいか。

特に面白い事も書けませんね。本当はあるんだけど、まだ書けない…いえない。それはこの「云えない」っていうのに関連してくるんだけど、いくらweb日記でも、まだそこまでは書けないみたいです。

どうも最近話がネガティブ方向へ進んでいくから良くない気がする…とりあえず今後の予定でも書いておきます。

先ずは、プロフィールを変更したいと思います。あんなの見ても、全く意味無いでしょ?内容もかなり古いですし…今まで読んだ本について、何か書いて みたいとも思います。続いて、いくつか写真をあげてみようかなーとも思います。この携帯電話としては使いづらい、デジカメ(100万画素)で撮ったもので す。また、そのうち大学日記を更新します。テーマは専門の実験。IT(情報技術)に関しては、大学で作ったプログラムを公開したりするかも。


12月19日

はい、忙しくて何もやってません。大学の課題すらまともに提出していないという状態…多分自分の精神状態が多少?おかしいせいもあると思うけど。

…うーん、やっぱり、どういう風に書くべきか分からないんだね。日記をそのまま出せば分かるんだけど、それは出来ないわけですよ。かといってそれを詩的に美しく哲学っぽくして書き上げる、なんてことは私には出来ないし、そもそもやりたくないんよ。

いや、むしろ、どんなに的確に私の思っていることを書いたとしても、これを見ている人には伝わりきらないんだな。でもどこまで伝わればいいんだろ。そもそも、伝わるっていうのはどういうこと?思えば、私だって、人からきたメールから何かを察するなんてことはできない。

お厚いのがお好きで、何かそれに関連した事をやってたのを見たような気がする。メールっていう枠では、そもそもそこに書いてある事以 上の、その先に何かあるんではなかろうか、っていう問自体、意味の無い事なんかな。そもそも分からないから。私はそんな事ばかり気にするから、最近ちょっ とおかしいのかもしれない。っていうか、気を強く持ちなよ。

最近書いた日記を読んでいるんだけど、あー、病んでるねって思う。その病み方は、意味の無い事に基づいているのかも。

自意識過剰内向型っていう風に自分で分類して見たんだけど(心理学用語は全く知らないから)、基本的に内に向かうのです…通常、このようにWeb日 記に書いているということは、外向的なもの、つまり自分を外へ外へと発信していくタイプの人達の行なうことだよね。主張とか論説を書いたりしてあったら、 そのタイプの人かも。あと、詩的に美しい日記を書いている人ね。…でもこのサイトは私のためにあるので、観てもらうべき対象は私です。究極に内向的なWeb日記なんですねー…。

何書いてるかいつも分からないんですけど、この様に何も考えないで書く日記の方が私には良い日記であるように感じられます。美しくも何とも無いし、論説や主張をしてもいない。世界と全く隔離されてるけど、それが私の日記なんではないかと思う。

ねー…最近また良く分からなくなってきた。他我って難しい。も難しいけど。


12月24日(水)

さーて、巷ではクリスマスイブですか?まぁだからといって何というわけでは無いんだけどね。

今日は、この徒然日記を読み返してました。私にとっては面白いんだけど、これ著者って、何がしたいんだろとも思いますね。あとお分かりかとも思いま すが、批判してるのは結局徒然日記の事だったりします。そもそも、対外的な批判をしているものを批判しているのだから、いわゆる昔書いた滑稽なものになりますね。結局批判してるのは自分自身なのです。

最近は本当に、学科の人達とも距離を置いてしまって、それって何故なんだろうとも考えましたが、その理由はとても書けるものではありませんね。まぁ 普通、こんなこと人に言ってはいけません。だからこんな事を考える私は相当失礼な人間ですね。さらにそれを云わないっていうのもその理由によるものだか ら。信用してないね〜、人を。

でも今はどう思っているかというと、そんな事意味の無いことだったかなとも思う。否定的思考から、なんだかポジティブになってきた。これは誰かさんによるものなんだろうけどね。…ほんとに尊敬してます。

今思い出したんだけど、そういえば私が誰かに、その人の考え付き合い方とかすべて解った上でその人とは合わないと言ってるの?とかいったんだっけ…自分でそれを忘れてるじゃないか。… 今の私の方が危なっかしい。話し込んでみないと分からないよね。まぁどこまで行けば分かった事になるのかは分からないけど、というかそんなことは無理か な。まぁ昨日今日で、また考えが変わりました。また学科の人達とも色々やってみようかと思います。…ってこれ見られとるんか?

まぁ学科の勉強する気もないので、日記書き続けます。

私と他者

これは誰にも、部活の人にも、誰かにも言ってません。地元の親友には言った気もしますが。またこれは完全ではありません。恐らく簡単に潰せるものでしょう。ですが私が今まで蓄積してきた考えであるので、ここに書きたいと思います。

他者というものが存在するということはどういうことなのでしょうか。そんなこと考えた事がありますか?目の前にいるじゃん、それが他者でしょ?違うの?じゃあ目の前にいないときも存在する?それは当たり前だよ。でもそれが当たり前なのはどうして?

他者というのは、間違いなく存在しますよね?他者なんていないと考えている人以外は必ず他者を見てきているはずです。でもその見てきているっていうのは?そこに体があるから?粋な人はそこに心があるからとかいうんでしょうか。でも、そこにあるって何なのでしょうか?

端的に(っていうのはつまり今目に見えて、とかの直接的なっていう意味)そこになくても、他者は存在するでしょ?今そこにいなくても他者はいる。一体私は何から他者がいるってことを感じるわけ?

それで、この考え方が今最もしっくりくる。他者はね、私の中にいるんではないか。私が他人だってことではないよ。いうならば、うつし身なのかも。映し身なのか、写し身なのか、どっちの方が良いでしょうか。他人の像を、 私の中に取り込むのです。そうすると、その像が喋ったり、動いたりする。それは単に人を見た記憶なんではないかと思われるかもしれません。ところがその像 は、過去になかった事すらしてしまうんです。言わなかったことを喋る。考えてる事を言う。それは記憶ではないでしょう?

言葉を変えれば、他者の観念っていうことになるのかな?まぁやたらに覚えたての哲学用語使うのはよくないけど。

つまりね、私は他者を直接見ているんではなくて、見ているのは私の中にいる他人の像なんだね。これ確か、授業をサボるっていう日記で同じような事を 言ってた気がするなぁ。それは人じゃなくて、周り(世界)についてだったけど。しろま君のサイトにも(解釈によっては)こんな事が書いてあったような。

こう考えると、本当にいるのは私だけになっちゃうね。この本当にっていう言葉の意味も微妙だけど。だから、私は誰にも私のことは喋る事が出来なかった。何か、反応が分かっちゃうし、結果が見えてる気がした。

これって独我論なのかそうでないのかは私は知らない。でも、私は他者と他我は別物であると最近考えている(そういう風に区別した)。これは本当に最 近の話なので、恐らくこれから最も変化の激しい部分となるでしょう。結論からいうと、他我とは、うつし身を作れない、像に出来ない存在、ではないかと思い ます。その存在は私の中にいるんじゃなくて、全く私とパラレルな存在なんだ。だから、予測不可能。決して到達出来ないもの。それが他我なんだろうと思う。 それが私にとっての誰かなのではないかと思っている。

で、まだ続きがあって、私の中にうつし身があるっていう他者たちも、実は私が表面しか見てないからその像だけで事足りてるのではないかとも思ってる のです。実は他我になりうる存在なんではないか?もしそうだとしたら、それが分かったとき、私はどれほどの感動を覚えるんだろうか!

私は今年、他我に出会うことが出来ました。そして、その人とのやりとりから色々な事を学んだと思っています。私にとって、これほど素晴らしい年はなかったでしょう。私は、本当にうれしく思います。

長々と書いてしまいましたね。いつのまにか午前3時、クリスマスになってます。でもいいや、私はとても希望にあふれてる感じがする。それでは、メリークリスマス、そして良いお年を!