11月

11月5日

まさかこれほどまで更新できないとは…合宿、その直後合同稽古、大祭とあり、暇な時間が全くありませんでした。

最近、あまりこのサイトの更新に意欲的でなくなったな、とよく思います。書き始めはいつもそんな感じです。めんどくさい感じがしてならない。でもやっぱり、書き始めると書き連ねまくってしまうのですな…普段の日記も同じ。

最近の悩みの種を色々と書いて見ましょうか。

稽古に対する意識

実はこれは前々から薄々問題視されていた事ですが、部員の稽古の仕方の問題が、合宿にて表に出されました。馴れ合い的な稽古になっているとか。私は稽古は真剣に、割り切ってやる派の人間です。…この手の問題は、部員間の関係に大きくひびを入れかねないものですので、ちょっとばかり対立ムードが出たときには、反省しましたが、その後同期で集まって話し合いをし、その場でみんなが思っている事をぶつけ合うことが出来たのは、私はとても素晴らしいことだったと思いました。

表面的な付き合いでは、ひとの思っている事は解らない。危うい感じは払拭されて、私は少しばかり人間に希望を持ちました。成長できない人なんて、いないのではなかろうかと。成長させるのは私たちでもあるんだな。

この話題が今回の合宿のもっとも重要で興味深い問題でしたね。まぁここではてきとーに書き連ねてます。ですが明らかに今後を大きく左右する問題ですので、もっと分析していこうと思います。それがこのサイトに載せられる…かも。

他にもあるんだけど、それは詳しくは書けない…私には興味深い人が3人いると昔書きましたが、そのうちの一人と最近レベルの深い議論をよくするようになりました。その人は私に良く似ています。多分<私>になりうる<他人>です。私一人では存在しない問題が、この議論では存在するように思われます。そして、私にはまだその誰かの問題を解決できそうにすらありません。…自分研究も足りないと思うよ。

こんなの読んでても、楽しいんですかね?今日は適当だから、問題を解きほぐして書いてません。よく分かんないっス…。でもきっと流離い人さんが上手くやってくれると思います。


11月16日

お久しぶりですこんばんは。最近このサイトに興味が無くなったんでしょうか。それくらい更新する気が失せています。それでも書いて欲しい人がいるらしいので書きます。ていうかここでしか分からないこともあるでしょうしね。

ちょっと前までは色々な問題に悩まされていました。部の事、自分自身の生き方とか、どうありたいとか…考えるだけで疲れるような事ばかりですね。その後、まぁある事により、ていうか誰かにいわれて一気にそれらの問題が消失しました。消失したというのは、解決したということではありません。そもそもそれらの問題の放棄というかそんな感じに思えました。そもそもそれらの問題に取り組む事自体意味の無いものなのかもしれません。ヴィトゲンシュタインはそう言ったかもしれません。そこで肩の力が抜けましたが、私にとって、それらを捨てるというのは失ってはならない何かを失うような感覚にも思えました。

そんな虚無感ともいうような感覚の中先週木曜あたりまできてたのですが、やっぱりこれは凄い事なんだなと思いましたね。気楽に生きる事。その時の感覚と言えば、まるで紫色の液体にある化学薬品を一滴たらした瞬間、その液体がぱっと透明になるかのようでした。変なエネルギー、悩んだりそういった感情、ストレスが、陽の気、生きていく活力に変わる、消化ではなく昇華とも言うべき感覚。…改めて誰かは凄い人なんだなと思った。

話のネタは色々あるんですが、この辺で…ちなみに合気道部の話にネタが尽きる事はありません(謎。ほんとに変な集団です(汗。


11月24日

近状報告というか、もうじき幹部交代です。その時どんなことがあるのか、どんなことを感じるのか、今は分からないですね。

最近は合気道のことばかりです。授業が辛くなってきました。「場」の話ってここで書きましたっけ?まぁお構い無しに書くと、大学とか、授業内に自分の居場所が無いんですな。それがほとんど(?)合気道部になったというだけ。…と思ったけど、違うんだな。いままで色々日記を書いたり、誰かに伝えたりしてて分かってきたんだけど、やっぱり私はいないんだね。そもそも私って何だろう?その問すらも無意味なんでしょうか。以前、私が欲しかったのは、もう一人の私だったんだ。とか書きました。やっぱり、他人を信用して無いんだな。自分の心の奥底はさらけ出さない。どんなに人に、社会でもやっていける、とか明るくて色々考えている人とかいわれても、それらは仮面ではないかと。演技?演技してるつもり無くても演技。自分でいうのもなんですが、私は演技が上手いのです。多分常に演技だから。

哲学の話にね、私以外の人間には心など無い、という考え方があるらしいです。それを独我論というのですが、たしかヴィトゲンシュタインが例に挙げられるのかな?他の人間達は、精巧に作られたアンドロイド。で、世界は幻みたいなもの。私しかいない。そんな感じなのでしょうか。また翔太と猫のインサイトの夏休みの中で、翔太は、実は僕の周りの人達は僕が見ている前では演技をしているだけで、僕の見えないところでは控え室にいる、というようなことをいってたような気がします。それらと似てはいるんだけど、ちょっと違う、私が昔に感じたことを書きたいと思います。

<私>は確かに存在すると思っているし、他人もちゃんといるんだけど、でも実は他の人達は私のために色々な刺激を私に与えていて、それが何故なのかというと、実は私は、心を持っている(と思われる)人間ではなくて、人工知能のロボットなんだ。だから、人々は私に色々な刺激や試練を与えて、その私の振る舞いを観察しているんだ。…って考えた事がありました。たしか小学生くらいの時からかなぁ。最近、とても古い、幼い記憶が断片的にだけど蘇ってきて(と思ってるだけ?)、それらを探ったら、私が何なのか見えてくるんではないかと思ってる。


11月25日

昨日の今日ですが…昨日なんだか半分壊れたことをまた書いてますね。まあそこら辺が不思議なところでもあるんだけど。

昨日は日記を書いて、このweb日記を書いた後、もう寝なくていいやと思い、哲学書読んでました。で、今日文学部の哲学購読の授業に参加して、色々突っ込んでみたりとかしてたら、いつのまにやら変なもやもや感は無いんですな。

やっぱり、哲学に触れているとき、凄く面白くて楽しいんだ。楽しいといっても、色々ありますよね。おかしい、とは違う意味での面白い、ですね。興味深い、の方が近いかなぁ。ある意味こういう興味深い物を持っているということは幸せなことなのかもとも思う。そんな感じに、気楽に哲学…出来るのか?

全くもって、この日記の著者は気分の浮き沈みどころか、思想までよく変わってしまいます。ふらふらしてる?そんな感じにも捉えられるけど、それって不自然なこと?私にとって、いつも同じ、それでいてちょいと飾っている感じの文体の、いわゆるWeb日記っていうのは何となく無機質な感じがするんよ。私は、最近この徒然日記が、生き生きしてきたように思える。そうではないでしょうか?それは単にこの日記が<私>の日記だから?他の誰でも無く て、特別な私の日記だから?他人の日記と私の日記、そこにも興味が湧いてきた。

では今日は工学の話を。人工知能の分野には、チューリングテストというものがあります。それは、人が見えない相手(例えばコンピュータのチャットのようなものを介したりする)を人間と判断するか、それとも人工知能と判断するか、といったテスト(実験)のことです。より多くの人に、相手は人間であると判断させたり、また相手はあきらかに人間らしいと判断させたりすることの出来る人工知能(向こう側にいる相手)はより優れているといえますよね。

何が言いたいかっていうと、この日記が実はチューリングテストだとしたら?ということですね。当然この日記を書いている私は見えないでしょ?本当に、この日記の著者はいるんでしょうか?実在する人間?それとも…精巧に造られた人工知能がこの日記を出力しているのでしょうか?…こう考えて見ると、ネット上の色々なもの、掲示板、web日記、チャットなんて、ずいぶん怪しくはなってきませんか?