■デジクリトーク
コールタール感触。
白石昇
●コールタール感触。
白石昇です。あけましておめでとうございます。中国正月です爆竹うるさいです。そしていろいろな形で応援の御言葉有り難うございました。
なにしろ相手はいわゆる超大物なのです。
そして、自分が演出する舞台のオープニングテーマで、
♪でもタイにいられないことだけはわかっている、政府に飽き飽きしてるんだ♪
という前衛テイストな歌詞を書き、アタクシが訳している本の最終章においても、
「俺は他人からどうやって金持ちになったのかよく聞かれるけど、一度も謙遜なんかしたことはない。誇りを持って、ああ金持ちです凄く裕福になりました、と答えている」
と書いてらっしゃるほど不可思議な強気さを持つ、主体がきっちりと確立された表現者なのです。
まあ、翻訳するくらいなのですからにアタクシとってはもちろんなのですが、実績だけを見てみればそんな著作者の表現がこの国で大多数の国民に一流だと認知されているのは間違いありません。
その表現者のアシスタント氏と今、アタクシのとなりの運転席でハンドルを握っている友人が、携帯電話で会話しているのです。
そうです。著作者の事務所の場所がよくわからないのです。車はなんかよくわからないまま住宅街に入ってしまっているのです。
携帯電話を切った友人がその住宅街の道脇に書かれている番地を確認しながら、このへんだよ、と言って車を停めました。停めた場所には普通の住宅以外何もないのです。いわゆる紋切り型事務所的な建物はなにひとつないのです。友人は
、ほんとにここなのだろうか、と言うような表情をしています。
しかし、車を停めた向かいの家から、興味深そうにこちらを見ていた男性がいました。手にはラーメンのどんぶりを持っています。藤子(F)不二雄の漫画に出てくる小池さんみたいなたたずまいです。その家には中国語で大きな看板が出ています。
ここだよ、間違いない、アタクシはそう友人に告げました。確かにそこは庭があって一台分の駐車場がある、パッと見には事務所だとは思えないただの家なのです。友人が不思議そうな顔をしているのも無理はないのです。
でも間違いないのです。アタクシはその小池さんが電話で何度か話したアシスタント氏だと確信しました。アタクシは彼の顔を見たことがあったのです。著作者が製作した舞台のヴィデオで。
映像の中でこの小池さんは、舞台裏からとても大事なものをカートに乗せて運んでくるという重要な役割を担っていました。だから、かなりの責任を担ったマネージャークラスの立場の人だと思います。それに、著作者が何冊も本を出している出版社の書籍レーベルロゴが書かれたTシャツを着ています。
どこから見てもクロです。
とりあえずアタクシはサングラスをかけたまま車から降りました。十四年穿いているジーンズにボブ・マーリィがプリントされた黒いTシャツという格好です。そして足元はオーダーメイドのインディアン型革靴です。
(靴に関する参考資料
。別に見なかったからといって不眠症になったりはしません)
ええアタクシ的にはこれ以上ないほどのよそゆきなよそおいなのです。
そんなよそおいに身を包んだアタクシに気づいたラーメン男性があたしを見て、ああこいつだ、というような表情をなさいます。アタクシはサングラスを外し入り口を通って庭に入るとその人に、はじめまして白石昇です、と合掌を伴った挨拶をしました。
至近距離で見るとどんぶりの中にはスープが入ってませんでした。汁なし蕎麦、というヤツです。おそらくさっき住宅街の中で見かけた屋台で買ったものなのでしょう。
友人は狐につままれているような表情をしたままアタクシの後からマネージャー氏に挨拶をします。友人の頭の中には、著作者が製作した舞台の観客動員数やヴィデオ、関連書籍の派手な売れゆきなどの世間的事実があるのでしょうから、こんな普通の住宅を事務所にしている、という目の前の現実がにわか信じがたいのでしょう。無理もありません。
しかし、この八ヶ月間、著作者が記したぐるぐると曲がりくねった泰文字の文章を毎日チマチマと解読して、ほとんど洗脳状態で著作者の美意識を頭に刷り込まれるハメになったアタクシからしてみれば、事務所のこのフツーっぽさは、すごく納得がいくものでした。
アタクシと友人は家の中に招き入れられました。そして、著作者の美意識を十二分に反映させたシンプルな応接テーブルとソファに座りました。家の奥には何台かのパソコンがあり、何人かの方が作業をされていますが、基本的に室内は著作者の美意識を反映されたものに満たされています。
彼はここに住んでるんですか? 友人がミーハー根性を丸出しにして、マネージャー氏に聞きます。今仕事が忙しくて疲れているのでまだ上で寝ている、とマネージャー氏は頷きながらそう答えます。
アタクシはすぐさま立ち上がり、階段を駆け上がって著作者をたたき起こし、
コラおどれ辞書に載ってないようなスラングと潮州語満載でたまに文法無視した文章織り込んだこんな本書きよって翻訳する立場になってみいオラ儂が収入もなく八ヶ月も引きこもるハメになったのはお前のせいやわかっとんのかコラああああ、
と激しい河内弁で蹴り込んでやりたい衝動に四秒ほど駆られましたが、そのままおとなしくマネージャー氏と話をすることにしました。
印税の配分は七三じゃなくて是非五分五分でやりたいと著作者は言っている、いきなりマネージャー氏はそう言います。当然ラーメンを食いながら。
なんだこの意表を突いた申し出は?
アタクシは謎にまみれたままとりあえず、誰か知ってる日本人にアタクシが送った翻訳のサンプルを見せたのですか? と聞いてみました。アタクシが送ったサンプルは確かに日本語としては何とか意味は汲み取れますが、日本語の文章としての品質はまだあまりいいとは言えません。
マネージャー氏は、見せてません著作者はあなたに翻訳して貰えると言うことをすごく喜んでいるんです、と堂々とお答えになりましたラーメンを咀嚼しながら。
なんだこの根拠なき大好感触は?
更に謎にまみれまくりです。アタクシはワケが分からずクラクラしてましたが、五分五分はイヤだし自分にとってラッキーナンバーだから、と言う理由で自分の印税取り分を四割にして貰いました。
ただ、舞台の準備で忙しいので出版社との交渉に関してはこちらが手を貸すことは出来ないですまかせちゃいますからそっちの方で勝手にやっちゃって下さい、とようやくラーメンを食べ終えたマネージャー氏がそうおっしゃいました。
なんだこの全権委任は?
アタクシは謎というコールタールの中に首までどっぷりと浸かりながらクラクラした頭を何とか冷静に戻そうと、自分が耳で聴いているマネージャー氏が放った言葉の意味を取り違えていないか何度も頭の中で咀嚼し直してみましたが、どう解釈してもそこに放たれた泰語はそのままそういう意味なのです。
アタクシの真正面に座っている友人は、よかったねー、と言うようないかにも育ちが良さそうな笑顔をアタクシに投げかけてきます。
いいんですかそれで? あたしが何度もマネージャー氏に視線を移し心の中で念波を送ると、マネージャー氏は、無表情に満腹感を加味したような表情をしながら時折微笑みを携えて頷かれます。
なにひとつ問題を含まない穏やかな空気の中でひとりだけ困惑していると、軽やかに階段を駆け下りる足音が聴こえてきて、アタクシたちがいる応接セットの方に人影が近づいてきました。
著作者でした。
つづく。
初出・【日刊デジタルクリエイターズ】 No.1046-2 2002/03/13.Wed.発行
|