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DVD版「アマデウス」

2003年2月8日 22:31:29

 DVDソフトの感想である。AMADEUS - DIRECTOR'S CUT、ワーナー・ホーム・ビデオ、2002

 映画館で見たことはないが、テレビで一度見たことがある。18世紀の作曲家、モーツアルトの生涯を描いた映画で、ライバルの宮廷作曲家のサリエリによる回顧、という設定である。音楽が全編に流れており、18世紀の宮廷生活や劇場を再現した画像がすばらしい。
 テレビでも字幕であったため、「モーツアルト」の話す甲高い米語がたいへんショッキングであった。皇帝ヨーゼフ2世の言葉もどことなしに世俗的で、まるでカナダあたりの品の良い大学教授の言葉を聴いているみたいである。私にとっては、日本語吹き替えでぜひ聞いてみたい映画の筆頭である。

 180分もある。これは劇場版でカットされた20分の未公開シーンが加えられているからのようだ。監督と脚本家による、まるまる180分間の解説と、オリジナル版の作成過程の記録(60分)が付いていて、全部を見るには丸一日かかる。

 冒頭の雪のプラハのシーンの25番交響曲(もちろんモーツアルト作曲)が印象的である。サリエリが自殺未遂で精神病棟(これが話に聞く「アサイラム(asylum)」なのであろうか)に運ばれるタイトルのシーンである。その直後にサリエリが自演する曲は本当にサリエリが作曲したものらしい。

● モーツアルトの音楽

 一言で言えば、古い。フランス革命の頃の音楽で、日本で言えば元禄の100年後、明治維新の80年前、文化・文政の少し前の頃である。モーツアルトの音楽が勃興する工業社会と結び付いていたかどうかは映画では分からない。とにかく、不特定多数の人のために作曲されたのであろうことは、想像できる。
 200年たった今でも、日本でもほとんどの人がいくつものモーツアルトのメロディーを知っているであろう。その意味では、たしかに偉大な作曲家である。
 映画の中の音楽は(映っているピアノは古いが)現代楽器で演奏されており、音高も現代風である(と思う)。逆に、オペラの舞台装置の見かけは当時の再現らしい。魔笛の"夜の女王"のシーンの舞台装置は超モダンだが、これも当時のアイデアとのこと。声も演者の肉声、というのには驚いた。

 私はアマチュアのクラシック演奏家だが、モーツアルトの音楽はあまり好きではない。もっとも、好きでないのは曲の聴き方が良くない面が効いていると思う。映画でさんざん紹介されているように、オペラを見れば良かったのかもしれない。魔笛などは、あっと驚く仕掛けが満載のようである。
 指揮で踊るモーツアルトが見られるが、これは現代でも指揮者によっては確かに踊っているように見えるので、うそではなかろう。指揮棒を持っていないのは解説で理由が語られている(当時は指揮棒が存在しなかったらしい)。

 「アマデウス」は元々が芝居であるためか、台詞が凝られている。「フィガロの結婚」にまつわる場面では、オペラと芝居の違いがモーツアルトの口から語られている。サリエリによる芝居内容の解説も良かった。
 オペラ、「ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)」の解釈は凝っていて、妙に説得力がある。

 モーツァルトは、音楽的才能以外はごく普通の幸せな家庭を持つ人物として描かれている。幼い頃父親に英才教育を受けた彼が、妻のコンスタンツェによって庶民的幸せを勝ち取り、しかし才能によって悲惨な最期を迎える、という分かりやすい筋書きがある。
 サリエリは、凡庸な作曲家として描かれている。それは真実であろうが、現代の音楽の大量消費の世の中にあっては妙に理解できる。当時もそういった需要があり、サリエリは見事にそれに応えていたとも受け取れる描かれ方である。皇帝のサリエリに対する最大限の賛辞も、ごく自然に思えた。

● 気に止まった点

 解説で音楽家は不可解に見える、という発言があるが、それはお互いさまであろう。冒頭のネコに注目するなど、映画人でなければ思いつきもしない。映画で皇帝が一度聞いただけの音楽をモーツアルトがピアノで演奏したのを驚く場面がある。これはアマチュア音楽家にすら想像可能である。ランダムな音ならモーツアルトといえども覚えることはできないだろう。メロディーとして認識でき、意味を解釈できるからこそ覚えることができる。演奏に長けているなら、即座に弾くこともできるであろう(私ですら、単音の旋律なら可能である)。普通の人でも、相手が言った数十文字の言葉を繰り返すことができる、それと同じことだ。
 むしろ、サリエリが楽譜を見たとたんに演奏が思い浮かぶシーンが印象的だ。大概の演奏家は、楽譜を見て一応弾いてみる。二回目からは音を覚えていたら楽譜は不要だ。音楽を覚えているなら、オーケストラ総譜を見て頭の中で演奏を思い出すのも容易である(ああ、このパート、やっぱり作曲家によるテヌートなんだ、など)。しかし、聞いたこともない音楽を楽譜から直接想起することが可能なのであろうか。パートの段落を目で追い、旋律を思い浮かべ、別のパートに目を移して旋律を重ねてゆくのは可能であろう。ただし、映画でそれを再現したら冗長であり、観衆には退屈であろう。信じがたい速度で単旋律や和音を想起できる音楽家は想像可能であるから、きっとサリエリもそうだったのだと、好意的に解釈することとしよう。

 解説で、当時は作曲のみで生活できなかったと言っているが、それは現代でも同じではないだろうか。ごく少数の超有名人は別格として、たいていの作曲家はどこかの会社に雇われているか、先生稼業をするしかないであろう。

● 天才と凡庸

 サリエリが自分の音楽が忘れられてゆき、モーツアルトの音楽が語り継がれることに苦悩を感じていると描かれている。この視点がなくなってしまうと映画そのものが成立しないとはいえ、一般的に言って、それほどにも気になるものだろうか。映画のサリエリは結構な地位で弟子も多数おり、富裕に見える。少なくとも一時期は抜群の人気も誇っていた。足りないのは家庭生活くらいであろう。 サリエリのような名誉ある地位にいた者は失ったものが大きいと感じるのだろうか。

 サリエリが凡庸で、モーツアルトが天才と表現されるようだが、それは才能と言うよりは運のような気がする。
 現代においては、大量の作曲がなされ、大量に消費され、短期間に寿命が尽きる音楽に満ち溢れていると思われる。それを支えるのは、才能豊かな作曲家たちだ。たとえば、ゲーム音楽と言えどもなかなかどうして、凝っていてサービス精神抜群であるし、魅力的な味付けがなされていたりする。まあ、中には最初から音楽としては破綻していて、締め切りもあるし、しかたなく搭載されたようなゲーム音楽、みたいなのもあるにはあるが。
 最近私は流行歌はほとんど聞かなくなった。しかし、一世を風靡しても、あっという間に忘れられてしまう音楽の続出状態であることは想像に難くない。

 それでもなお、次の世代に語り継がれる音楽がやはりある。ただし、ここでは「ハッピーバースデイ」や「きよしこの夜」の類は取り上げない。それらは芸術とは別の次元に属する歌と考えられるからである(微妙な差かもしれないが)。
 モーツアルトと同時代にはハイドンやベートーベンがいて、現在でもそれなりに有名である。クラシック音楽でもたった一曲で後世に名を残し、演奏しつづけれられている作曲家も何人もいると思う。同時代の様式を使いこなすだけではだめで、独自の、しかし人々に受け入れられる個性、を曲に付け加える必要がある、ということだろう。

 映画内でも紹介されているが、モーツアルトの書いた譜面には苦労の跡が全く無いと言われている。これは神話であると、私は思いたいところだ。しかし、それが真実だとすれば、まさに神童の本領発揮である。文章書きでも書く速度に大差があるそうなので、その極端な例、とでも例えることができると思う。