万治四年〜寛文二年(野火止開墾〜死去)

松平信綱 年譜・十七

万治4/寛文元[1661]年 六十六歳

1月20日、火災により居邸が類焼。
1月21日、夜着二領、御蒲団一を拝領。
1月24日、郷足軽に武蔵野の開発を命じる。また、百姓以外に中間・牢人なども参加歓迎である、と奨励する。(『無銘書』)

2月7日、酒井忠清・松平信綱の両名が文房具を拝領。信綱には黒漆卓・琴形硯石・螺鈿長盆・八丈紬五反をたまわる。(『実紀』『大河内家譜』)
2月17日、信綱、紅葉山へ代参。(『実紀』)
2月18日、家臣の柴山平左衛門、死去。(『羽生市史』)

3月8日、六男・頼母堅綱が将軍・家綱に拝謁。(『寛政譜』)
3月20日、信綱、上野寛永寺へ代参。(『実紀』)

4月9日、六男・堅綱が中奥に勤務。(『寛政譜』)
4月17日、信綱、紅葉山へ予参。(『実紀』)

万治4[1661]年4月25日、寛文元年と改まる。

5月10日、家臣・安松金太夫の妻、野火止で死去。(『新座市史』)
このことから安松金太夫が野火止の開墾に従事していたのではないかと言われている。
5月12日、安松金右衛門らによって川越藩領亀窪村の検地が行われる。(『大井町史』資料編)
5月13日、秋元但馬守泰朝の妻(大河内久綱と松平正綱の妹)、没(82歳)。宣良院殿釈尼円清大姉と号し、浅草徳本寺に葬る。(「秋元家譜」)
5月29日、"武州新倉郡野火留之内東下屋敷検地水帳"が発行される。(『新座市史』に収録)
信綱の一族から幕府の医師までが野火留一帯に屋敷を構えていたことが知られる。

6月1日、安松金右衛門らによって川越領武蔵野の検地が行われる。(『清瀬市史』)
6月27日、五男・因幡守信興と青山大膳亮幸利女が婚約。(『大河内家譜』)
夫人の青山氏は正徳5[1715]年に74歳で死去しているので、当時20歳ということになる。『無銘書』に収録されている「信興公御年譜」は慶安2[1649]年に婚礼としているが、慶安2年の時点で青山氏は8歳である。

7月1日、水戸頼房が病のため、光圀のもとへ見舞に行く。頼房は29日に死去。(『実紀』)
7月20日、寛永寺へ代参。
7月21日、徳川綱重(将軍家綱の実弟)の引越祝いのため、綱重邸を訪問。
7月30日、信綱、頼房死去の件で紀伊邸へ。正信、頼元(頼房の四男)を弔問する。

8月12日、頼房の法事が行われるため、信綱が水戸光圀を訪問。
8月17日、紅葉山へ代参。
8月18日、四男・信定の正妻である土屋利直女が死去。(大河内家譜 支流譜巻第三)(『平林寺史』)

閏8月24日、増上寺へ代参。(『実紀』)

9月27日、野火止新田および出作の村々に信綱の黒印を捺した年貢割付状が下される。(『新座市史』)

10月9日、嫡男・輝綱、川越より参府。川越に赴いた日は不明。(『大河内家譜』)
10月20日、寛永寺へ代参。

11月17日、紅葉山へ代参。

12月9日、"松豆州ニ逢申、安智・丹後事申談候事"。(『池田光政日記』)
12月10日、信定の子・主税が早世。(大河内家譜 支流譜巻第三)
12月22日、この日までで、千三百通余の老中奉書への署名が確認されている。
12月24日、信綱、紅葉山へ予参。
12月28日、徳川綱重・綱吉の両名が参議に任ぜられる。この日、酒井忠清・阿部忠秋・松平信綱・稲葉正則の4名が綱重邸に赴く。(『山梨県史』所収「人見私記」)

この年、輝綱の五男、誕生。


寛文2[1662]年 六十七歳

1月18日、病臥。
1月19日、持病により、不登城。(『柳営日次記』)
1月20日、久世大和守広之が上使として見舞う。
1月21日、大久保出羽守忠朝が上使として見舞う。
1月27日、久世大和守広之が上使として見舞う。
1月29日、本多土佐守忠隆が上使として見舞う。

2月1日、"松平伊豆殿煩、乍去此節御快気□□"。(『松平大和守日記』)
2月6日、(通説では)老中職を免ぜられる。…とされている。
『徳川実紀』には退任についての記事は見あたらず。『信綱公御一生之覚書』『大河内家譜』『寛政重修諸家譜』にも記事なし。
当時の幕府の日誌である『柳営日次記』二月〜三月の記事にも老中を退任したという記述は見あたらないので、現職のまま死去したことになる。
『柳営補任』に"寛文二寅二月六日卒"と誤記されているのが退任のこととして広まったものか。
2月10日、久世大和守広之が上使として見舞う。
2月22日、久世大和守広之・土屋但馬守数直が新たに若年寄として任ぜられる。
2月24日、五男・信興を使者として独角を賜る。"御手書をもて数條の台問あり"(『寛政譜』) 。

2月30日、この日、『柳営日次記』にあらためて老中および若年寄の職掌規定が記される。

3月1日、中根大隅守正延を使者として、数原清庵の医療をうけるように仰せあり。(『寛政譜』)
3月2日、"松平伊豆守殿、気分弥快気之よし"。(『松平大和守日記』)
一般の大名には、いわゆる大本営発表がなされていたのだろうか。
3月3日、"親筆の御書もて菓肴等を恩賜せらる"。(『寛政譜』)
3月8日、将軍・家綱が鷹狩を行う。帰り、松平民部少輔氏信を使者として、雁を賜う。
3月12日、御数奇屋方支配を免ぜられる。(『実紀』『寛政譜』)
3月15日、危篤となり、土屋但馬守数直が上使として見舞う。

3月16日、夕刻、死去。67歳。

3月17日、弔問の上使として、嫡男・輝綱のもとには稲葉正則、五男・信興のもとには大久保忠朝が遣わされる。
この日、酒井讃岐守忠勝が登城し、家綱の御前に候す。(『酒井家編年史料綜覧』)
3月18日、岩槻平林寺において葬儀。(『大河内家譜』)
諡は"松林院殿乾徳全梁大居士"。
岩槻平林寺に葬る。平林寺は翌年、輝綱によって野火止に移転。岩槻市内には現在も"平林寺"の地名が残る。
長沢松平の菩提寺である、愛知県岡崎市の岩津円福寺にも、養父正綱とともに墓が建立されている。

正妻の弟にあたる井上河内守正利が歌を贈っている。

  あしたには道ある春に咲く花の心やすくもちる夕哉


大正4[1915]年11月10日、従三位を追贈される。

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