弐.悪鬼祓い


「あ〜ぁ。妖刀なんて、厄介なのに絡まれちゃったなぁ〜」
『……聞こえているぞ、主』
(いいの。聞こえるように言ってるんだから)
『やれやれ……』
 五月三日、ゴールデンウィーク三連休初日。神明みのりは境内の掃き掃除をしていた。
 手に持つ竹箒には、妖刀皐月雨が仕込まれている。
 皐月雨の近くにしまわれていたこの竹箒は、あらかじめ刀が仕込めるようにできていた。
 皐月雨の先代の主が人目を忍ぶために作ったのだという。
(それで? 悪鬼を祓うって言うけど、私は具体的にどうすればいいの?)
『うむ。まず、汝には我を使って人に憑いた悪鬼を祓ってもらう。……と言っても、特殊な儀式がいるわけではない。 そういう意味では至極単純だ。我が刀身で直接悪鬼を斬り伏せるだけで事足りる』
(事足りる、って……街中で人に向かって刀振り回したりしたら一発でお縄頂戴だよ?)
 こともなげに言い切る皐月雨に、みのりが呆れる。
『いや、なにも人に向かって斬りつけろとは言っていないが?』
(え? だって人に憑いてるんでしょ? 必然的に憑かれてる人に近いところにいるんじゃないの?)
『然り。悪鬼は基本的に憑いた人間にへばりついている。肩や頭に乗っている場合もあるな』
(肩に? そんなに小さいもんなの悪鬼って?)
 なんとなく人間ぐらいの大きさかと思っていたみのりは、意外な事実に驚いた。
『普段はな。ともあれ、当然人に直接憑いている状態では祓いにくい。 そこで、やつらが離れる時を狙うのだ』
(四六時中憑きっぱなしってわけじゃないの?)
『ある程度人間から精神力を奪った悪鬼どもは、深夜になると一時的にその人間から離れ王鬼の下へと向かう。 奪った精神力の一部を王鬼覚醒の糧とするためにな。そのときを狙う。 深夜なら人目にも付きにくいから、なおさら都合が良かろう』
(なるほど……)
 うなずくみのり。そしてしばしの間。
(ってちょっと待った!! てことは何? 深夜に街を徘徊して悪鬼を探さなきゃいけないの?)
『そういうことになるな』
(いやそういうことにって……)
『案ずるな。家を抜け出す方法や足りない睡眠時間は我が妖力を持ってすれば何とでもなる』
(へ?  そんなことできるの?)
『今までもそうしてきた。家を抜け出すには家族に一時的な軽い幻術をかければ良い。 睡眠は妖力を活力に変換して分け与えれば3日ほどは寝ずに問題なく活動できる』
(……徹夜は遠慮しとくよ)
 少々うんざり気味にみのりが答える。
『うむ、実際はそこまでする必要はないからな。まぁ、詳細はその時になったら説明しよう。 主が良ければ今夜からでも開始したいのだが』
(……はぁ。わかったよ。でもその前にいくつかいい?)
『む?』
(その気になれば離れてても声が届くって言ってたけど、協力するって決めたんだから普段は声かけないでよ?  家の中でまで頭の中に声かけられちゃたまんないし)
 まずは最低限守ってもらわねばならない条件を出す。
 なんせ個人の時間を侵害されては精神衛生上よろしくない。
『ああ、無論だ。我とて主の“ぷらいべえと”を侵害するほど無粋ではない。 実際、一昨日から今日までも神社以外では声をかけなかったであろう?  今後も神社外では深夜の悪鬼祓い時や、緊急時以外は声をかけないようにしよう』
(うん。あとその主ってのやめない? なんかそういう堅苦しいのやだし。……って、そういえば自己紹介してないか。 私は神明みのり。呼び捨てでみのりでいいよ)
『心得た、みのり』
(ん。それじゃあ、後のことはまた今夜ね)
『うむ。所定時刻になったら声をかける』
 話し合いが終わり、竹箒が地面を掃くザッザッという音だけが続く。
「……ふぅ。この時期にこんなに長く掃除したの、バイト始めたばっかの頃以来だなぁ」
 みのりはそうひとりごちる。気がつけば1時間ほど境内を掃き続けていた。それも、拝殿の正面階段の前あたりだけを。
「も〜終わり終わりっ。ピアノ弾こうっと」
『……ピアノ? 仕事中は少なくとも神社境域内にいなければならないのではなかったか?』
(ん? ああ大丈夫、ピアノならここにあるから。)
 言いながらみのりは拝殿の戸を開ける。そこにはみのり愛用のピアノが堂々と鎮座していた。
『…………神聖な拝殿に異国の大型楽器を置くとは……何というか、随分と……前衛的? な、神社だな……』
(褒めても何もでないよ?)
『いや……。褒め……? いや…………。ま、まぁ、構わんがな……。 先日から、どこから聞こえてくるのかとは思っていたが……よもやここだったとは……』
 拝殿内のピアノの存在に、伝統を重んじる古風な思考を持つ皐月雨はカルチャーショックを受けたようである。
 そんな皐月雨を物置に片付け、みのりは習慣となっているピアノの演奏を始めた。

 深夜1時。闇に包まれ、静まり返った神明神社の境内に、一人の巫女がたたずんでいた。
 その手に持つのは竹箒。しかしてその実態は意思ある妖刀、皐月雨である。
(……で、なんで巫女服着てくる必要があるの?)
『紅白の装束は運気を上げ、災厄を退ける意味合いがある。なればこそ神職に使われているのだ。 災厄の権化ともいえる悪鬼と闘うのに、これほどうってつけな服装はそうそうないぞ』
(ホントかなぁ……)
 悪鬼祓いにいどむ服装に巫女の装束を指定してきたのは皐月雨だった。
 しぶしぶ言われたとおりに着てきたみのりだったが、まだその意義には半信半疑のようだ。
(ところで前から気になってたんだけど、悪鬼って霊感ある人にしか見えないんでしょ?  どうやって探したり闘ったりするの? 自慢じゃないけど私、霊感ゼロだし。それにもし見えるとしたって、こう真っ暗じゃあ……)
 今宵、月齢は姿を現すのが遅い鎮静の月。いまだ空に月はなく、いくつかの星が頼りなく瞬いているのみだった。
『問題ない。探すのは主に我の役目だ。そして闘う時は……。物は試しだ、我の柄の部分を握るがいい』
(こう?)
『そのままいいと言うまで目を瞑(つむ)れ』
 みのりは言われたとおり目を瞑る。視界が完全なる暗闇に閉ざされる。
 だが、気のせいか、徐々にその暗闇が赤みがかっていくように感じた。
『……もういいぞ』
 皐月雨に言われて目を開けたみのり。
 この場に第三者がいれば、その瞳が従来の茶褐色から変質して真紅の輝きを得たことに驚いただろう。
「……! うわぁ……」
 みのりは驚嘆の声を上げる。なぜなら、目を瞑る前とは視界が一変していたからだ。
 暗いことには変わりないはずなのに、なにもかもがよく見える。
 さっきまでは黒で塗りつぶしたかのようだった闇が、隅々までくっきり見通せる。
 それは、今まで見たことのない夜の姿だった。
『我が妖術の一つ、妖魔眼。闇夜を見通し、魑魅魍魎(ちみもうりょう)を捉える眼だ。この眼があれば先の二つの問題は解決する』
(へぇ〜!! 便利〜! おもしろ〜い)
 今までとは違う見え方の夜が物珍しく、キョロキョロと辺りを見回すみのり。
『……そろそろ悪鬼を探したいのだが』
(あぁ、ごめんごめん。じゃあ行こっか)
 こうして、悪鬼探しが始まった。


(……でも、こうやって歩き回ってるだけで見つかるもんなの?)
 辺りを見回しながら歩くさなかで、みのりが尋ねる。
『ただ闇雲に歩き回っているわけではないぞ。空間に残存している悪鬼の妖気を辿っているのだ。 妖気の波動はその悪鬼の特性、人間から奪った精神力の量によって一体一体違うからな。 標的を絞って、その名残を追えばいずれは辿り着く。……む、そこの角を左だ、みのり』
(ふーん……)
 神社を出たみのりたちは、皐月雨の指示に合わせて住宅街を歩いていた。
 皐月雨はその日の間に悪鬼(の憑いた人間)が通った道筋を感じ取れるらしい。
 通った時間帯が現在の時間に近いほど、残存する妖力が濃く感じられるため、追跡が可能なのだそうだ。
 みのりはそんなことが可能なのかとまた疑いたくなったが、今までの不可思議な前例から一応信じて従うことにした。
『今はまだ動き出す時間には早いから良いが、悪鬼が動き出したら走ってもらうぞ』
(え〜? しんど〜……)
 やはり乗り気でないみのり。
『何度も言うが、奴らをほうっておくと大変なことになる。確かに汝からすれば強引に巻き込まれたのだから渋る気持ちは分かるが、 契約に足る存在はこの界隈では汝しかいなかったのだ。遠方から他の候補者を探し出すほど余裕はなかったのでな。 ……我とてすまないとは思っているのだが、契約してしまった以上は汝に頑張ってもらうしかない』
 一応皐月雨にも強引だったという自覚はあったらしい。懸命に弁解の言葉を重ねる。
(む〜……まぁ、こうなった以上はもう仕方ないけどね。でも、悪鬼ってほっとくとどんな害があるの? 精神力を奪うとか言ってたけど、具体的にさ)
『うむ。精神力とは、精力、活力、生命力などとも言うが、ありていに言えばやる気、情熱、生きようとする意思の力だな』
 悪鬼は精神のみの存在であるため、そういったものを糧に生きているのだという。
『悪鬼に精神力を奪われるとやる気や向上心がなくなり、陰鬱な気分になる。……現代でいえば、いわゆる五月病だ。 通常は悪鬼が最も盛んに活動する時期が今頃のためそう呼ばれているが、憑かれやすい人間は年中慢性的に憑かれ、鬱病と呼ばれる場合もある』
(え!? 五月病ってそういうものだったの!? 新しい環境になじむためのストレスが溜まったせいとかじゃ……)
『無論、現代常識による解釈も完全に間違っているというわけではない。 そういった“すとれす”……心理的負担から来る心の隙が悪鬼が憑く原因となっているのだ。 対処法も正しい。気の持ち方次第では悪鬼のつけ入る隙がなくなり、自然に悪鬼が離れる場合も多いからな』
(そうなんだ……。でも、普通に直るならそんなに大したことじゃないんじゃない? わざわざ退治とかしなくてもさぁ)
『通常は確かにそうだ。多くは時が経てば自然に離れるからな。……だが、禍年は別だ』
(ああ、そういえばそんな事言ってたっけ。てことは、禍年にだけ出る王鬼ってのが厄介なの?)
『然り。だがそれだけではない。王鬼が完全覚醒すると他の悪鬼どもも力を増す。その影響はこの地のみに留まらず、日本全国に伝播してしまう。この時期を越えても五月病が治らず、鬱病に転ずる者が国中で後をたたなくなるだろう』
 みのりは想像してみる。
 街を行く人々のほとんどが生気を失った眼をして、うつむいて歩いていくのがデフォルトな世界。
 ……さぞかし陰鬱な世の中だろう。
(まぁ……確かに雰囲気の暗い世の中になりそうだけど。そんなに大変ってほどかなぁ?)
『心に負担をかける病を甘く見てはいけないぞ、みのり。 気が弱れば他の病にもかかりやすくなるし、重度の欝では普通の生活が送れなくなることさえありうる。 それに、こと禍年においては、問題はそういった心の病だけでは留まらない。 放っておけば悪鬼の悪影響の与え方は多岐に変質するのだ。道徳心の低下による犯罪の増加、権威や暴力の横行、不信の蔓延…… 多くの人間が病めば、一つ一つのほころびは小さくとも、それが重なり合い絡み合うことで社会そのものが内側から滅ぶことにもなりかねない』
(ほ、滅ぶって……どんなふうに?)
『法の秩序なき混沌とした時代となってしまうだろうな。外的な攻撃よりも根深く、広範囲に被害が及ぶため回復も難しい。 もしそんな事態になれば、その後で王鬼を倒したとしても完全に復興するまでに十年単位の時間が必要になるかもしれぬ』
(そ、そんなに……?! わ、私って、もしかしてものすごく責任重大?)
 自分の楽観的な予想とのギャップに、今更ながら責任の重圧を感じ始めるみのり。
『そう気負い過ぎる必要はない。そんな最悪の事態を防ぐために我がいるのだ。 ある程度の労力を惜しまなければ必ず使命を成し遂げられよう。……そろそろ悪鬼が動き出す頃だ。気を引き締めろ、みのり』
(ん、わかった。場所はここでいいの?)
 時刻はまもなく丑三つ時。みのりたちは、あるマンションの前に辿り着いていた。
 各部屋前へと続く通路はライトの無機質な光に照らされているが、人気は皆無で静まり返っており、一種異様な雰囲気にさえ感じられた。
『間違いない。後は悪鬼がどちらの方角に向かうかだが……む!! 丁度良い、こちらに来るぞ!!』
 そう皐月雨が言うのとほぼ同時。
 マンションの壁から……壁を通り抜けたかのように、一つの影が飛び出した。
 そして丁度みのりの前方2mほどの位置に着地する。
 その姿を一目見たとき、みのりは最初大きな猿かなにかかと思った。
 まず気がついたのは、その身体が少し半透明に透けて向こうの街並みが見えている、ということだった。
 大きさは大柄な成人男性ほど。全身を人間にしては濃すぎ、猿にしては薄めの体毛が覆い、細長く節くれだった脚と腕を持つ。
 逆立つ頭髪の生え際には二本の角。醜悪な顔立ちはまさに人外の化生、鬼と呼ぶにふさわしい。
 その双眸は蒼白い燐光を発し、妖しさを一層際立たせていた。
"……ギ?"
 その眼光がみのりに向けられた……瞬間。
「ッッ……にゃぎゃーーーーー!?」
"ギギャーーーーーーーー?!!"
 みのりが絶叫した。それに驚いた悪鬼もつられて絶叫する。
 そして悪鬼は道路を獣のように四つ足で疾走し、遠ざかっていく。
『な!? ……に、逃げた!? 追わなければ……』
(び、びっくりしたーー!! 何アレ、でかッ!? 怖ッ!? ありえないよサギだよ!!)
『えぇい落ち着けみのり! 見た目ほど大した相手ではない!!』
 取り乱すみのりを皐月雨が一喝する。だがみのりはそれに構わず、逆に皐月雨に食って掛かった。
(ちょっと皐月雨っ!! 話が違うよ!? 悪鬼って肩に乗っかるぐらいのちっさい奴じゃなかったの!?)
『昼間に人に憑いている時はそうだが、夜、それも禍年ともなると話は別だ!! いいから追うぞ! 走れ!!』
「あぁーっもーっ!!」
 不満の声をあげながらも、みのりは走り出した。
 疾風の如く夜の街並みを駆け抜け、逃げる悪鬼に着実に近づいていく。
(……私こんなに足速かったっけ?)
『身体能力全般が我が妖力により強化されているからな。一時的に常人では辿り着けない能力を持っていると考えていい』
 妖力ってなんでもありだなぁ、と思うみのり。
 そうこうしているうちに悪鬼との距離は十数mまで縮んだ。
 もはや皐月雨の妖気感知に頼らずとも、肉眼で捉えられる。
(いたっ!! ゼロシフト、レディー……)
「ゴーっ!!」
 悪鬼の前に立ちふさがるべくさらに速度を上げる。
 だが。そのとき、悪鬼が跳躍した。
「げっ!?」
 悪鬼が視界から消えたその先には、壁。
 道が突き当たりになっていたのだ。
 悪鬼はというと、壁を飛び越えた先の家屋の屋根に着地したところだった。
(ちょちょ……!! そんな急に止まれな……!?)
『汝も跳躍しろ、みのり!!』
 皐月雨の言葉を聞き、咄嗟に地面を強く蹴る。
 次の瞬間、みのりは中空にいた。
 通常では考えられない跳躍力。屋根の高さをも軽々と越えた。
「うっ……わ、わわーーー?!」
 だが、当然こんな跳び方などしたことがないみのりは、空中でのバランスの取り方も、着地の仕方も知らない。
 バランスを崩し、空中でもがくこと数秒ののち……

 びたーん!

「きゃぷっ!?」
 屋根に大の字に張り付く結果となった。
『……まぁ、壁に激突するよりは“だめぇじ”が少なかろう。……たぶん』
「い、ったぁ〜……」
 打ったためか、赤くなった鼻をさすりながら起き上がるみのり。
 すると、視線を上げた先に、とっくに逃げたかと思われた悪鬼がいた。
 悪鬼はみのりを見て口から"カカカッ"と音を漏らすと屋根から屋根へと跳び越えていく。
 ……どうやら笑われたらしい。
『むぅ……やはり急に実戦では荷が勝ちすぎるか。やむを得ぬ、機会は今回限りではないし、今日はここまでに……』
「……ふっ……ふふふ……」
『……みのり?』
 みのりは不穏な笑いを漏らすとガバッと立ち上がる。
「なめてくれちゃってぇー!! もぉー怒った!! ぜぇーーったい祓ってやるんだからぁーーー!!」
 そう言って猛然と走り出す。
『……さっきまでとは違って随分とやる気だな……』
「いいの! 怒りは一番手っ取り早い闘争心なんだから!!」
 頭に血が上っているため、なんだかよくわからない理論を掲げるみのり。
 二つの影が、寝静まった家々の屋根の上を駆けていく。
 みのりは怒りのせいで行動を直感に任せているせいか、早くも強化された身体能力の扱いに慣れ始めていた。
 ただ走るだけだったさっきまでとは違い、建物間の隙間や高さの違いなどのために難易度の高い行程にもかかわらず、じわじわと悪鬼に追いついていく。
 そして、高い建物から低い建物の上へと悪鬼が飛び降りた時、みのりは勝負に出た。
 より加速して前へと跳ぶことで、下に降りた悪鬼の頭上を通り過ぎる。
 これにより悪鬼の進行方向を遮る位置に落下。
 転がるように受身をとり、勢いを利用してそのまま起き上がる。
 間髪いれず悪鬼のほうへ向き直り……
「どりゃぁぁーーー!!」

 バキィッッ!!

"ギャゲ!?"
 その回転力を込め、手にした竹箒をフルスイング。
 ……普通の物質は悪鬼には干渉できないが、中に仕込まれた妖刀皐月雨なら話は別だ。
 その刀身は見事悪鬼を横の道路へと叩き落とした。
「よし! ホームラン!!」
『な、なんと……!! やや無茶ではあるが大したものだ……!!』
「ふふ〜ん。女の子を怒らせると恐いんだから!!」
 感心する皐月雨に言いつつ、みのり自身も道路へと降りる。
"……ギ、ギ……?"
 悪鬼は突然の衝撃に事態が把握しきれていないらしく、ゆっくりヨロヨロと立ち上がる。
 しかし、目の前に立ちふさがったみのりを見ると、攻撃されたことを悟ったらしい。
"フシューーーー!!"
 蛇が威嚇する時のような声を上げ、その半透明の身体を激しく震わせた。
 怒気を孕んでいるのは間違いない。
(あ、やっと逃げずにやる気になったみたい……)
『……! いかん、構えろ、みのり!!』
「え? ……!!」
 皐月雨が警告した時にはもう、悪鬼は地を蹴り、みのりのすぐ目の前まで肉薄していた。
 その鋭利な爪が、みのりの心臓めがけて突き出される。
(やられる!?)
 ……だが。
"ギッ?!"
 悪鬼の爪がみのりの白衣に触れた瞬間、その接点から破裂音と共に電光が走り、悪鬼を弾き飛ばした。
 対するみのりも衝撃を受け、勢いよく後ろに尻餅をつく。
「……あ……れ? た、助かった?」
 悪鬼の爪が触れた部分をさすりながら呆然と呟くみのり。
『我が力により防御障壁を張っているのだ。特に巫女装束の部分はそれが媒体となってより強固なため、数回ぐらいは完全に防げる。だが気をつけろ!! 連続で受けたり、露出している頭部を狙われては防ぎきれん!!』
「気をつけろ、って言われても……!!」
 みのりは悪鬼を見やる。すぐに再度飛び掛ってくる気配はない。
 一度攻撃を弾かれたため、警戒して様子を見ているらしい。
 だが、悪鬼の攻撃速度は尋常ではなかった。次に動き出したら、このままでは到底防げそうにない。
『みのり、今こそ我が刃を抜け。さすれば歴代のかつての我が主たちの力が、汝を守ってくれる!』
(皐月雨を……? ……鞘から、抜く……!)
 みのりは手にした竹箒の持ち手側の先端のほう、即ち皐月雨の柄を掴み、ゆっくりと引き抜く。

 ――……ィィィィン――

 仕込まれていた白銀の刀身が姿を現すと共に、澄んだ共鳴音が辺りに響く。
 それに合わせて、みのりは自分の身体の中に「なにか」が流れ込んでくるのを感じた。
 それは、Sense。
 永き時の中で、皐月雨の歴代の主たちが培ってきた、闘いの術(すべ)と感覚。
 それらが体中に冴え渡り、染み込んでいく。
 悪鬼が跳躍する。上空からみのりの頭をめがけ爪を振り下ろしてくる。
 ……だが。みのりはもはや動じない。
 皐月雨を上段に構えると、事も無げに悪鬼の爪を受け、必要最小限の動作で勢いを流す。
 攻撃を横にさばかれた悪鬼は、着地と同時に逆袈裟に第二撃を繰り出す。
 しかしそれも、みのりが軽くステップを踏み、斜め後ろへ飛び退るだけで避けられる。
 しかも、みのりはその一動作で悪鬼から十分な間合いを取った。
 皐月雨の妖力で強化された身体能力を完全に使いこなしている。みのり自身、そのことに静かに驚きを覚えていた。
 特に意識せずとも、体が動くのだ。それも、まったく無駄なく。
 そして気がつけばみのりは、皐月雨を構えていた。
 一片の隙もないその姿勢。
 もしこの場に人がいたなら、彼女を武術の経験のない一介の女子高生とは思わなかっただろう。
 それはまさに、熟練した一流の剣豪のごとき姿だった。
(……いける。次で決着をつけられる……)
 みのりはそう確信した。いつでも仕掛けられるように油断なく構える。
 対する悪鬼も、先ほどまでとの違いを感じ取ったらしい。
 上体を低くし、いつでも飛び出せる体勢を保ちつつ、じっと隙をうかがう。
 張り詰めた静寂が場を支配する。
 無音の世界の中で、鬼と巫女、双方の緊張が増していく。
 先に動いたのは、悪鬼だった。
 ぐぐっ、と身体を後ろに下げ、ためを作ったかと思うと、次の瞬間には弾丸のごとく前へ跳ぶ。
 それとまったく同時に、みのりの履く、巫女服には似合わないスニーカーが地を蹴る。
 衝突は、一瞬。
 その一瞬に、みのりは眉間を狙ってきた狂爪を紙一重でかわし。
 皐月雨の刃で、一息に悪鬼の胴を薙いだ。
 再び互いの距離が離れた時には、悪鬼は胴を上下まっぷたつに分断されていた。
 悪鬼は断末魔を上げる間もなく、爆ぜるように霧状となる。
 その半透明の霧は瞬く間に皐月雨に吸い寄せられ、その刀身に取り込まれていった。
『……よし。これでまずは一体、悪鬼を祓うことができた』
「……やった、の?」
 無感情な声でみのりがボソ、と呟く。
『うむ。いきなり初戦だったにもかかわらず、見事な闘いぶりだったぞ、みのり』
 皐月雨が感心したように言う。
「………………」
 しかしみのりはそれに答えずに突然その場にぺたんと座り込んだ。
「……終わったぁ……」
 そしてため息を吐くようにそう言った。どうやら一気に気が抜けたらしい。
『……明日は休養が必要だな』
 皐月雨が、語りかけたとも独り言とも取れるような言葉を漏らした。
 こうして、初めての悪鬼祓いは終わりを迎えたのだった。

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